彼女が一番喜ぶもの
翌日。
エカテリーナとアレクセイは、共に馬車の中にいた。
「お兄様……このように突然、なんのご説明もできずお連れして申し訳ございません」
エカテリーナは恐縮している。なにしろ、昨夜マリーナの手紙を読んですぐに兄に会いに行ったものの、『明日どうしても一緒に行ってほしいところがある』としか伝えることができなかったのだ。
そして翌朝、この馬車が迎えに来た。扉に紋章が描かれているようだがわざわざ隠されている上、どこへ行くとも言わず乗るよう促す妙にいかつい御者。ユールマグナという強大な敵と対立している中、ユールノヴァ公爵が乗っていいとは、とても思えない怪しさだ。
それにアレクセイは、あっさりと乗り込んだ。
今も車内で泰然としているアレクセイは、妹に微笑む。
「お前に望みがあるならば、私はそれを叶えるのみだ」
エカテリーナはしみじみ思った。
私のお兄様はどうしてこんなに身も心もイケメンなんでしょうか。なんの奇跡でこの人はできあがったんでしょうか。神様教えて。
日頃の望み通り、ブラコンが進化しているかもしれない。
悪化とも言うかもしれないが。
窓からの景色を見ていれば、馬車が皇都の中心部から離れて行くのが解る。
しかし進む街路からして、皇都そのものを出ることはないと見当はつくだろう。聡いアレクセイには。
扉の紋章を隠しても、馬車は持ち主の財力を如実に示す。この馬車は明らかに豊かな財を持ち、紋章を皇都で知られているほど著名な、貴族のもの。そうしたことも、アレクセイは見通しているに違いない。
皇都の中心部を離れたところに、広大な邸宅を構える著名な貴族。
「ここには、一度来たことがある」
車窓を見やって、アレクセイは呟く。
馬車が向かう門には、紋章が掲げられていた。意匠は、後脚で立ち上がり躍動する馬。
クルイモフ家の皇都邸であった。
「エカテリーナ様!来てくださいましたのね!」
邸の前の車寄せで馬車が止まるや、マリーナが駆け出してきた。
「あのようなお手紙をいただいては、来ないわけには参りませんわ」
エカテリーナは笑って応じる。マリーナは肩をすくめた。
「実はあの文面、父に言われた通りに書きましたの。思わせぶりなばかりで要領を得ませんでしたでしょう、ごめんなさいね。でもわたくし、自信がありますのよ!エカテリーナ様を一番喜ばせる贈り物を、ご用意できておりますわ!」
「こら、お前が用意したわけじゃないだろ」
ニコライが現れ、流れるように妹の頭をグリグリする。
そして、エカテリーナとアレクセイを見て、にっと笑った。
「ようこそ。案内するから、一緒に来てくれ」
クルイモフ家の皇都邸は、敷地のわりに建物はさほど大きくない。瀟洒な庭園もない。
代わりにあるのは、連なる厩舎。そして、馬に運動させるための馬場だ。
その馬場へと、ニコライは向かっている。
馬場には今は、馬の姿は見当たらなかった。魔獣馬の育成で名高いクルイモフ家だが、厩舎の中にいる馬たちは、普通の馬ばかりだ。
いや普通と言っては非礼にあたるような、駿馬ぞろいではある。すっかり馬を見慣れたエカテリーナが、ほうっと目を引かれてしまうほど。
クルイモフ家の豊かな財は、今では魔獣馬よりこの馬たちによって培われているそうだ。魔獣馬を生み出すための交配用として作られた血統だったが、優れた俊足、美しくも頑健な体躯、戦闘にも怯まぬ胆力を持つその馬たちは、今や人々の垂涎の的なのだ。
「魔獣馬は、専用の厩に入れるんだ。なんせ力が他の馬たちと段違いだから、普通の厩舎だと悪気なくぶっ壊す時があってな」
ニコライが説明してくれる。
「それほどですのね。そういえば……」
お祖父様の魔獣馬ゼフィロスが住んでいた厩が、領地の本邸に残っていた……と言いかけて、エカテリーナはあわてて言い換えた。
「我が家に皇室御一家が行幸にいらした折、豪華な馬車を魔獣馬が二頭で楽々と引いておりましたわ。並の馬ならば、六頭立てでなければあの馬車は動かないのでは、と思ったことを覚えております」
……危なかった。
魔獣馬は、本来はすべて皇室に献上されるべきもの。ただしクルイモフ家の当主がふさわしいと認めた相手にのみ、贈与されることがある。本来は皇帝陛下のものだから、贈られた者は敬意をもって魔獣馬を扱わなければならない。
それなのにお祖父様亡き後、ノヴァダインたち親父の取り巻きが酔ってゼフィロスに危害を……これはユールノヴァ家の汚点でクルイモフ家への大きな借りだから、安易に口に出していい名前じゃないのに。
たるんどるぞ自分!
そんな迂闊なことをしてしまいそうになったのは、マリーナちゃんの手紙を読んでから、期待をせずにいられないせいだ。先刻、実はクルイモフ伯に言われた通りに書いたものだと言われてさらに、どきどきと心臓が鳴るほど期待は高まっている。
「エカテリーナ」
微笑んで、アレクセイはそっと妹の頭を撫でた。
「クルイモフ家の馬は、調教が行き届いていることでも名高い。乗馬の経験が浅くとも、心配はいらないだろう」
兄を見上げて、エカテリーナも微笑んだ。ゼフィロスに触れてしまいそうになったのを察して、助け舟を出してくれたのだろう。
至極当然のことながらアレクセイは、クルイモフ兄妹がエカテリーナのために、よき愛馬を贈ってくれるのだと考えている。以前から乗馬を始めたいと願ってきて、ようやく鞍なども揃ったところだ。願ってもない形で、かねてからの念願が叶うと。
同級生に馬を贈るとは、破格の贈り物だ。ユールノヴァ家とクルイモフ家のいきさつを思えば、この少し仰々しいお膳立てもおかしくはない。辻褄はすべて合っている。
ニコライに導かれた先は広い馬場で、柵の中に入って四人で待つ態勢になった。
周囲は静かだ。馬たちのいななきなども、ほとんど聞こえてはこない。調教が行き届いているからなのだろうか、それとも――。
「来たぞ」
ニコライが言った。
顔を上げてニコライの視線を追ったアレクセイが、鋭く息を呑んだ。
こちらへ歩み寄ってくる、一頭の馬を引いた壮年の男性。
一目でニコライとマリーナの父、クルイモフ伯爵と知れた。マリーナが父親について、兄が老けたら父になると思うと話していたが、短く刈り込んで白いものが交じっていても兄妹と同じく輝くばかりの赤毛と金色の瞳、筋骨逞しい長身に整った顔立ち、本当にニコライにそっくりだ。ただし、その表情はやや厳しい。
しかし、クルイモフ伯その人よりも、彼が引いている馬。
そちらこそが、アレクセイに息を呑ませたに違いなかった。
均整の取れた、堂々たる体格。たてがみの一本一本から踏み出す蹄の先にまで、満ち満ちる力が陽炎となって立ち昇っているかのようだ。
毛色は芦毛。祖父の魔獣馬ゼフィロスもそうだったが、芦毛の馬は年齢を重ねると毛色が明るくなってゆく。この馬は灰色よりも暗めの鈍色と見え、若駒と知れた。
だが、落ち着いた歩調には、力強さと共に威厳すら漂っている。
そして。
額に生えた銀色の角。たてがみと尾は青い燐光を帯びており、口元からは牙がのぞく。
クルイモフの魔獣馬。
これこそが、まさにそれだ。
そう感じ入るほどに、それは素晴らしい、特別な存在だった。
クルイモフ伯が、エカテリーナとアレクセイの前で足を止める。アレクセイに言った。
「ご無沙汰しております。今頃になりましたが、公爵位のご継承、祝着に存じ上げる」
「……ご無沙汰しております。お言葉、感謝申し上げる」
礼儀にのっとって答えたアレクセイだが、不可解な状況ゆえに声音が硬い。
クルイモフ伯は、エカテリーナに向き直った。
「エカテリーナ嬢にはお初にお目にかかる。フョードル・クルイモフと申します。娘が誠にお世話になっているそうですな」
エカテリーナは、淑女の礼をとる。
「お初にお目もじいたします。わたくしの方こそ、マリーナ様にはたいそうお世話になっておりますの」
「娘は帰って来ると、貴女の話ばかりしておりますよ」
フョードルはかすかに笑みを浮かべた。ニコライにそっくりな、しかし年齢を重ねた老獪さも感じられる笑顔だ。
「さて。実は、娘には以前からせっつかれておったのです。あなたの誕生日に、公爵令嬢の愛馬にふさわしい馬を、クルイモフ伯爵家からの贈り物としたいと」
「クルイモフ伯……!」
こらえかねたように、アレクセイが声を上げる。
「この子は、乗馬は初心者なのです。魔獣馬を乗りこなすなど、できるはずがない。一体どういうおつもりか!」
クルイモフ伯爵家に借りを感じているアレクセイだが、妹のことになれば、やはり話は別だ。フョードルを見るネオンブルーの瞳が鋭くなった。
「左様」
フョードルは悠然と応える。
「このヴェントゥスは、魔獣馬の若駒の中で一番の駿馬。名前の通り、風のように翔ける。ご令嬢の愛馬には、到底お勧めできませんな」
「ではどういう……」
「最近になって、話が変わりました」
フョードルは息子たちに目をやる。
ニコライとマリーナは、微笑んでいる。
「エカテリーナ嬢が一番喜ぶものを、贈り物としたいと」
そう言って、フョードルはヴェントゥスの手綱を――アレクセイに差し出した。
「兄君の喜びが、エカテリーナ嬢を最も喜ばせるものだそうだ。ゆえに、貴方をヴェントゥスのあるじとする。これがクルイモフ伯爵家からの、エカテリーナ嬢への贈り物だ。エカテリーナ嬢、受け取っていただきたい」
アレクセイは絶句している。
我に返って、首を横に振った。
「ありがたいご配慮……だが、私はユールノヴァの継嗣として誓った。ユールノヴァはクルイモフの魔獣馬を求めることはしないと」
「求められた覚えはない。私はただ、うちの子供の我儘に応じて、妹君への贈り物を渡しておるだけです。とんだ我儘なのは確かだが、甘やかしておりますのでね」
よく言う!と子供二人からつっこみが入る。が、フョードルは毛ほども気にしなかった。
「いいから、受け取りなさい」
急にフョードルがくだけた口調になる。
「ゼフィロスの件は、先代アレクサンドル公の時に起きた。責任を取るべきはアレクサンドル公で、彼には魔獣馬は渡さなかった。それで終わった話だ。ゼフィロスはセルゲイ公の後継者たる貴方を守って逝ったのだ、誉れでしかない。向こうでセルゲイ公に褒められて鼻を高くしたことでしょう。
なにより、貴方ほどゼフィロスを悼んでくれた人間はいない。魔獣馬を敬愛する姿勢をそこまで示してくれたら、託したくもなるわ。だからさっさとこの手綱を取りなさい」
いきなりぶっちゃけた父親に、ニコライが呆れ顔だ。
それでも、アレクセイは首を横に振ろうとする。公爵家を代表して口にした言葉は、たやすく取り消すことなどできない。それが四百年の歴史を誇るユールノヴァ公爵家の矜持なのだ。
しかし。
エカテリーナが、ひしと兄の腕に抱きついた。
「お兄様!ニコライ様とマリーナ様が、わたくしが一番欲しいものを贈ってくださいました。どうかわたくしに受け取らせてくださいまし、わたくしはそれが欲しゅうございます!」
「エカテリーナ……」
アレクセイが、戸惑うような声で妹を呼ぶ。
「わたくし、わかっております。ゼフィロスはお兄様の憧れでした!だからこそ、喪ったことでご自分を罰せずにはいられなかったのでございましょう。ですけれど、クルイモフ伯の仰せの通り、お兄様が罰を受ける謂れはないのですわ。わたくしは、お兄様に憧れを手にしていただきたい。その喜びを味わっていただきたいのです。どうかお聞き届けになって。お兄様の喜びがわたくしの喜び、お兄様のお幸せがわたくしの幸せなのですもの!」
妹の顔を見下ろして、アレクセイははっと息を呑んだ。その頬に涙が伝っている。
「アレクセイ、勘違いするなよ」
そう言ったのはニコライだった。
「お前が手綱を取りさえすれば、ヴェントゥスがお前のものになるわけじゃない。魔獣馬のあるじを決めるのは、魔獣馬そのものだ。乗って振り落とされれば終わり、振り落とされなくても自分にふさわしいと認められなければ終わりだ。できもしないものを拒んでも、仕方ないだろ。まず挑めよ、話はそれからだ。
風を乗りこなせるか、アレクセイ?魔獣馬は、暴風だぞ」
「……」
友の挑発が、最後の一押しになった。
アレクセイは、手綱を手に取った。
お読みくださってありがとうございます。
浜千鳥です。
今回も、ようやくこれを書けたという気持ちでいっぱいです。魔獣馬についてまだ消化していない伏線が残っていますので、取りこぼしのないよう頑張ります。応援していただければ嬉しいです……。
次回更新は12月21日とさせてください。
実は身近なところでコロナ陽性が出ました。このインフルエンザ大流行の中で、そちらも油断ならないようです。皆様くれぐれもご自愛くださいませ。




