お礼の相談
「それは、楽しそうでなによりだったね」
「はい、とても楽しゅうございました」
弾んだ声で言うエカテリーナに、ミハイルは目を細めた。
ここは、いつぞやミハイルに、オリガが音楽の夕べに参加できるようにしたいという相談を持ちかけた東屋だ。オリガを声楽レッスンに誘ったのは、あの件の後日談のようなものなので、ミハイルにも報告することにした。
もちろん今日も、隣にはフローラ、少し離れてミナ、イヴァン、ルカの三人組がしっかりいる。
社畜の感覚では、ミハイルは報告対象の上司ではない。しかし、報連相の相談で協力してもらった恩義がある。そういう場合、機会があればその後の状況を報告し、協力への感謝を伝えるべきだ。
で、その後もツテとして使えるように関係を保つと。
ミハイル相手に人脈ケアは違うような気がするが、人として礼儀は守るものだろう。
「兄や、兄の側近の方々が、聴きにいらしてくださいましたの。皆様の歌声に、感心しきりでしたのよ」
そう。レッスンを受けている最中、アレクセイとノヴァク、ハリルやアーロンが揃って顔を出したものだから、マリーナとオリガは硬直していた。
「エカテリーナ様はいつもご自分のことをおっしゃいませんけど、閣下が一番感動なさっていたのは、エカテリーナ様の歌声でした。とってもお上手ですから」
フローラがにこにこと言う。
『エカテリーナ、私の歌う星。お前の歌声はお前の美しさと同じほど輝かしく、芳しい。お前の歌を聴く間、世界が花咲き乱れる楽園に変わったようだったよ』
アレクセイの感想である。
突然の公爵一同登場にも動じなかったディドナート夫人が、妹の頬に手を添えて目を見つめてささやかれたこの言葉には、目を点にしていた。
「お兄様はわたくしに甘くていらっしゃるだけですもの。フローラ様やオリガ様のほうが、ずっと素敵ですわ」
うん。褒めてもらえてとっても嬉しいけど、お兄様の聴覚は超高性能シスコンフィルター装備なので、ある意味ノーカンですよ。一般の評価とはかけ離れていることを、忘れたらあかん。
しかしそういえば今回、初めてシスコンフィルターが嗅覚にも及んでたわ。祝・初進出。祝していいのか、よくわからないけど。
「……」
ミハイルは苦笑する他ないようだ。
そんなミハイルに、エカテリーナはこう切り出した。
「兄の側近の皆様は、音楽の夕べを聴くことができなかった代わりに、レッスンを聴きたいとお思いになったそうですの。楽しんでくださいましたのよ」
そういう理由で、ハリルとアーロンはともかくノヴァクまで現れるのはどうしたことか。執務室のご意見番的立ち位置は、どうしてしまったのか。シスコンウィルスへの免疫が低下していないだろうか。
というあたりは置いといて、エカテリーナはこれだ!と思ったのだ。
「それで、ミハイル様にも楽しんでいただけるのではないかと思いましたの。わたくしの歌をお聞かせする約束がございましたでしょう、もしよろしければ、次のレッスンの折り、拙宅にお出でになりませんこと?音楽の夕べの代わりになるかはわかりませんけれど、なんと申しましょうか、気楽なお気持ちになっていただけるのではないかと」
エカテリーナの提案に、ミハイルは目を見開き、ゆっくりと微笑んだ。
「僕を、家に招いてくれるの?君の家で、歌を聴かせてくれるの」
「ミハイル様のご配慮に、わたくしは本当に感謝しておりますの。ひととき楽しんでいただけるなら、嬉しゅうございますわ」
クラスを巻き込んで音楽の夕べを再現できないかとも考えたが、それでは皇子ミハイルを特別扱いしているようで、いつも特別な存在であるミハイルにとっては「いつも通り」になってしまう。
彼に「みんなと同じ」を味わってもらいたい。友達の家をふらっと訪れてちょっとした集まりに加わるというのは、学生らしくていい感じではなかろうか。ユールノヴァ公爵家なら、皇子がふらっと訪ねて来ても、警備等はしっかりしているし。
男子高校生の年頃だから、女子の集まりに男子が一人で加わるのはキツイかもしれないが、うちならそこもバッチリだ。
「女子の集まりに加わるのは気づまりとお思いでしたら、兄とご一緒くださいまし。ミハイル様のお越しとあれば、兄も謹んで陪席にあずかることでしょう」
なんだかんだ言っても気心の知れた二人、ユールノヴァのファーストダンスで男子パートを一度で合わせた息の合い方はすごかった。きっと、くつろいで楽しんでもらえるに違いない。
と、本気で思っているエカテリーナである。
「…………」
ミハイルは無言で、中空に視線をさ迷わせている。遠い目だ。アレクセイと並んでエカテリーナの歌を聴く状況を、想像しているのかもしれない。
雪の歌にリアリティが加わる想像が、捗っているかもしれない。
「お気に召しませんかしら……」
エカテリーナはしょんぼりする。思えば、こんなお膳立てをしなくても、ミハイルは自分でふらっと公爵邸へ遊びに来たことがあったのだった。薔薇の季節、皇帝陛下が観賞された薔薇園が見たいと言うクラスメイトたちを公爵邸へ誘った時に、ミハイルはしれっと紛れ込んできた。
ミハイルはあわてて首を横に振る。
「まさか、君が僕のためにいろいろ考えてくれたこと、とても嬉しいよ。ただその、どんな風に聴かせてもらうか、もう少し考えたいな。とっておいて、楽しみたいというか」
「ああ!そうですわね、想像したり、計画を立てたりするのは、楽しいことですわ」
旅行とか、実際に行く時より予定を立てている時のほうが楽しかったりするよね。気持ちはわかる。
「お望みがあれば、おっしゃってくださいまし。できる限り、お応えいたしますわ。フローラ様のご都合が合う限りですけれど」
「わたしのことはお気遣いなく。閣下がお許しになりさえすれば、わたしはいつでもどこでも、エカテリーナ様とご一緒します」
イイ笑顔でフローラが言った。
「そうですわね、もちろん、お兄様がお許しになればですわ」
深くうなずきながらも、皇子は絶対お兄様が許さないような状況をリクエストしてきたりはしないに違いない、とエカテリーナは確信している。
二学期が始まる直前、君子危きに近寄らずとか思っていたことは、すっかり頭から消えてしまったらしい。
問題がすべて片付いたと思っていたわけではない。リーディヤがどう出るか、警戒しなければならないとは思っていた。
それでも、思いがけないほど前世の大ヒット曲が反響を呼んでしまって、ついそちらに気を取られていたのだ。
だから。
ある朝クラスに登校してみると、泣き腫らした目をしたオリガが、殴られたような痣のできたレナートの片頬を冷やしているのを見て、エカテリーナは愕然とすることになる。




