音楽の夕べ(レナート)
エカテリーナの返事にぱっと笑顔になったレナートは、軽い足取りでピアノへ向かった。
聴衆はざわざわしている。先ほど初めて聞いたばかりの曲を、人前で演奏するなど可能とは思えないとヒソヒソしたり、本気なのかと首をひねったりしているようだ。オッケーを出したエカテリーナも、今さらちょっと心配になってきたりする。
でも、前世で耳コピで即興演奏する動画を見たことがあったし、できる人にはできることなはず。
問題は、レナートにそれができるのか、だけれど。
そんな空気を感じているのかいないのか、レナートは無造作にピアノの前に座ると、鍵盤に手を置いた。
小柄な少年であるレナートが、楽器を前にすると、大きく見えるような。そんな風に思ったのは、一瞬だった。
たちどころに指が動き出す。
鍵盤の左から右へ、流れるように。レナートはただの音階を弾き始めたのだが、その速さと滑らかさ。さながら絹に指を滑らせるかのような運指が奏でる音階は、それだけで美しく、聴衆は息を呑んだ。
低音から高音へ、鍵盤の端まで来ると高音から低音へ。その後は、低音域の音階を数回繰り返す。最初は完璧に一定の速度だった音階が、やや速度とリズムに揺れが生じて、寄せては返す波のよう。
そう思って、エカテリーナははっと気付いた。
これは――風の音だ。
と思った瞬間、音階は止まった。
人差し指で、レナートは一つのキーを叩く。
しんと静まった音楽室に、ポーン……と寂しく一つの音が響いて、消えてゆく。
同じキーをもう一度叩いて、さらにもう一度……と思うや、そこからレナートはゆっくりとメロディーを奏で始めた。足跡さえ消える雪の中、独りたたずむ光景を、右手だけの寂しい音が描き出す。
そこへ、左手の和音が加わった。美しい和音は、その美しさゆえにそれも寂しい。
けれども少しずつ、うつむくのをやめて顔を上げるように、テンポが上がる。
さすが、言うだけある!
この時点で、エカテリーナはすでに感心している。
一度聞いただけのメロディーなのに、きっちり耳コピできているね。さらに歌詞の内容を踏まえてのアレンジまで。
アカペラの歌しか聞いていないのだから当然、レナートの耳コピはメロディーのみであって、左手の和音は彼が自分の感性で加えているものだ。前世の曲とは別物で、それでも美しく、メロディーに調和している。絶対音感はもちろん、即興のアレンジ力も、並大抵のものではない。
最初のサビにきた時には、ピアノの旋律は軽やかで、音色は明るく澄んでいた。
左手も明るい和音で小刻みにリズムを奏で、わくわくとした希望の芽生えを感じさせる。
聴衆も、もうほとんど惹き込まれていた。本当にできるのかと疑う気持ちはすっかり消え、曲そのものに身を委ねて楽しんで、空気が盛り上がってゆく。
サビの次の展開で、芽生えていた希望は一気に芽を吹き、力強く花開く。
音は軽やかさより強さを増してゆき、自信に満ちた足取りを思わせた。
最後のサビで、その「足取り」は「駆け出す」に変わる。
メロディーは踊るよう、左手の和音は激しくリズミカル。聞く者の体が思わず動き出してしまうような、踊り出し歌い出したくなるような。レナートは唇を引き結んで、目まぐるしく両手を動かし激しく鍵盤を叩いている。白い髪を振り乱すほど激しい演奏は、ついに最後となり、開放の時を迎えた。
壁を打ち破って未来を拓く、その爽快感を見事に表現する。
最後、自立を宣言するメロディーは、再び右手だけ。
それでもその音色は力強く、高らかな勝利の響きを残して、演奏は終わった。
わあっと歓声が上がり、拍手が湧き起こる。
聴衆は次々に立ち上がり、レナートに拍手を贈った。本日二度目のスタンディングオベーションだ。
エカテリーナは真っ先に立ち上がっていた。感動でいっぱいの笑顔で、大きく両手を打ち鳴らす。
いやー凄い!
セレズノア領では音楽の神童として有名、とは聞いていたけれど、そう呼ばれるだけのことはあるね。たった一曲で確信したよ。
君は天才なんだろう。類稀なる音楽の才能を持って、生まれてきた人なんだろう。
可愛い顔をしているから、前世だったら某音楽事務所が放っておかないだろうな、なんて思っていたけど。あそこはちょっと違うわ。君がもし前世の世界に生まれていたら、即興で弾いてみたって動画とか、スマホ1台で作った曲とかを動画サイトにアップして、あっという間にスターになってしまうんじゃないだろうか。ルックスも含めて、絶対すごい再生回数になるよ。
そう思った時、ふと頭の隅を何かがかすめたような気がして、エカテリーナは眉を寄せた。
けれどその何かは形になることなく、もやもやと消える。
ま、いいか。
とにかく、この音楽の夕べをやってよかった!
クラスの親睦会だと思っていたら、ゴット・タレント才能発見!だったでござる!
レナートは立ち上がり、喝采に応じて一礼した。聴衆を見渡し、もう一礼する。白い顔が紅潮して、感激の面持ちだ。
「素晴らしい演奏でしたわ、セレザール様」
拍手が少しおさまってきたところで、エカテリーナは皆を代表して言った。
「なんと素晴らしい才能をお持ちなのでしょう。先ほど聞いたばかりの曲を、このように見事に表現なさるなど……演奏そのものも、たいそう素敵でしたわ。すっかり惹き込まれて、聞き入ってしまいました」
エカテリーナの言葉に同意するように、拍手が起きる。すごかった、本当に素晴らしかったと言う声も、あちこちから上がった。
「ありがとう、ユールノヴァ嬢」
含羞むような笑顔で、レナートは応える。
「この曲が、あまりに素晴らしかったから……今までにない斬新な曲だし、歌詞にも心を打たれたよ。それに、歌っている姿が楽しそうで……僕が求めていたものはこれだ、と思ったんだ。
ユールノヴァ公爵令嬢が、こんな素晴らしい才能を持っていたなんて。僕は、自分が恥ずかしいくらいだ」
今までのツンツンは何処へやら、レナートの菫色の瞳は、憧れさえ込めてエカテリーナを見つめている。
いや違うからね⁉︎ この曲、私が作ったんじゃないからね⁉︎
「僕は、自分が音楽のために生まれてきたと思っている。でもずっと、閉塞感みたいなものを感じていて……こんな風に、斬新な曲を即興で自由に演奏して、喜んでもらうっていうことを、ずっと出来なかったんだ。弾かせてくれて、本当にありがとう。今、すごく幸せだ」
本当に幸せそうにレナートは言い、再び聴衆を見渡して、感謝のこもった一礼をする。もちろん、温かい拍手が起きる。
あああ……このタイミングで、私が作曲したんじゃないですって言えない……。
思わず視線をキョドらせたエカテリーナは、はっと気付いた。
次の、最後の演者であるオリガが、レナートに拍手を贈りながらもすっかり青ざめていた。




