不文律
執務室のドアをノックすると、すぐに現れたイヴァンが、エカテリーナとフローラのバスケットをさっと持ってくれた。
「お嬢様、フローラ様、どうぞ」
「ありがとう、イヴァン」
執務室に入ると、エカテリーナを見たアレクセイが微笑み、すっと立ち上がる。
そして、軽く両手を広げた。
「おいで」
そう言われれば、兄の腕の中に飛び込まないという選択肢は、ブラコンにはない。
なので、遠慮なく飛び込んだ。
「お兄様!」
「私のエカテリーナ」
無邪気に抱き付く妹を、アレクセイはそっと抱きしめる。
「昨日からお会いできなくて、寂しゅうございましたわ」
「私もだよ。美しいお前の姿を見ることができないせいで、世界が暗く思えていた」
お兄様のシスコンフィルターは、光度調整機能も備えているんですね!やっぱり高性能です。
などとやっているが、兄妹が寮に入ったのは昨日。会わなかったのは一日弱である。
とはいえ、夏休み中はほぼ、朝食と夕食は兄妹で顔を合わせて一緒にとっていた。二人とも寮では特別室に入っていて、食事は食堂に行くのではなく自室でとることになっている。よって昨日の夕食から一人で食事をしていたわけで、寂しく思うのも無理はない――のかもしれない。
そんな二人の横で、イヴァンとフローラがほのぼのと昼食の準備をしている。
「フローラお嬢様、どうぞお掛けになってお待ちください」
「じっとしていると落ち着かなくて……お仕事をとってしまってごめんなさい」
ここでアーロンがしみじみと言った。
「これぞ学園、という気がしますねえ」
そうか?と問う声は、この部屋にいるメンバーからは上がらない。ツッコミ不在の執務室であった。
「こういう、手料理の昼食が恋しかったです」
オムレツサンドを前に、ハリルが嬉しそうに言った。
「夏休みの間、ハリル様はどのようなお昼をとっておられましたの?」
「たいていは、さまざまな商会の者たちと会食です。よいレストランでの豪華な昼食になる時もありますが、味の良し悪しは商談の行方次第ですね。満足できる成果は最上の美味です」
エカテリーナの問いに、ハリルは答えてふふふと笑う。
商人ハリルさん、さすがです。
しかしそんななごやかな空気も、エカテリーナが先ほどの一幕を話すと変わった。そうなるとわかっていたので話したくはなかったのだが、報連相は大切なので。
「……セレズノア侯爵家のご令嬢か」
アレクセイのネオンブルーの瞳が光る。
「お兄様、ご存知ですの?」
「皇都の社交界では確固たる立場にあるようだ。そうだな、ノヴァク」
「はい。皇太后陛下のご実家ということで、社交界にデビューしている未婚のご令嬢の中では、最も高い家格であられますので。――これまではそうだった、という話ですが」
ノヴァクの言葉に、執務室の一同はそろってエカテリーナを見る。
あ……私が皇都に来たから、私が一番家格が高い未婚令嬢になったんですね。
えっと、ユールマグナにも令嬢が……確かエリザヴェータちゃん。でも年齢がまだ十歳だっけ?だったら社交界デビューはしていないか。皇国ではデビューの年齢は、魔法学園入学前の十四、五歳が普通なはず。
私はユールノヴァでの祝宴でお披露目してもらったことで、社交界デビューを果たしたとみなされる。ヴィクトリア朝イギリスとかでは、女王と謁見したのちデビューのために開かれる舞踏会にデビュタントとして参加することが社交界デビューだった気がするけど、皇国ではもっとゆるくて、ある程度の格式のあるパーティーに参加すればそれで社交界デビューとなる。
「ノヴァク伯が、皇都の社交界についてご存知ですの……」
言いかけて、エカテリーナははたと気付いた。
ノヴァクが皇都の社交界に詳しいとしたら、それはおそらく、アレクセイの結婚相手を検討する過程で得た知識だ。
身分の釣り合いで考えれば、リーディヤちゃんは候補の筆頭にいても不思議はない。それに美人だし、貴族令嬢としてのスキルは最高クラス。お兄様のお相手として、非の打ち所がない……ない、けど。
うにゃー!
あ、でもリーディヤちゃんは皇子のファンっぽかったな。
「エカテリーナ、心配はいらない。セレズノア家はユールノヴァと縁を結ぶことは考えていないから」
アレクセイが妹を気遣うように言う。
「セレズノア家は、再び皇后を立てることを悲願としているんだ。三大公爵家に権力が集中しすぎている現状は健全ではないと主張し、自分たちをもっと取り立てて皇国の権力構造を健全化すべきだとする一派の中心だ。そのために皇后を出し、外戚として権力を握る。それが彼らにとっての正義らしい。
リーディヤ嬢は、その悲願を体現するような存在だ。セレズノア家が考える、皇后にふさわしい女性たるべく育てられた。本人もその自負を強く持っているようだ」
「そうでしたの。仰せの通り、あの方はミハイル様に親しげでしたわ」
我ながら現金だと思うほど、ほっとするエカテリーナであった。
そして皇子のほうは、リーディヤちゃんにつれなかった。あの子、フローラちゃんをスルーしてたもんね。それがセレズノア家の考える、皇后にふさわしい女性ってことかしら。
でもマグダレーナ皇后陛下は、全然そんな女性じゃないぞ。その皇后陛下と恋愛結婚した皇帝陛下だって、そんな真似をする子を評価するとはとうてい思えない。皇子は両親を尊敬していて、その価値観を受け継いでいる。
うわー、リーディヤちゃんもセレズノア家も、無駄な努力?
そう考えると、可哀想にも思えるな。
「それにしても、あの方がわたくしと関わるべきでない不文律とは、どういったものなのでしょう」
エカテリーナが呟くと、アレクセイも戸惑った表情になった。
「私も特に聞いたことがない。ノヴァク、知っているか」
「いえ。申し訳ございませんが、セレズノア家と当家の間にそうしたものがあるとは耳にしておりません。それに、閣下がご存知ないことを皇子殿下が承知しておられるのは不可解ですな」
と、ハリルが咳払いする。
「……おそらく、当家とセレズノア家との間ではなく、皇子殿下にまつわる不文律ではないかと」
「話せ」
アレクセイが彼らしく簡潔に命じた。
「夏休み中の皇都の社交界で耳にした噂話なのですが、未婚の皇族に親しい異性ができた場合、他の異性がその方に危害を加えることがあれば、それは厳しく咎められると言われているそうです。かつて皇国が不穏であった時代、将来の皇后の座をめぐって鞘当てのあげく令嬢が事故死、それをきっかけに家同士が武力で争う内乱状態に発展したことがあったのだとか。
以後、皇族の周辺の異性が争うことは忌避されるようになり、一人親しい関係の異性ができれば、その方にいかなる形であれ危害を加えることは許されないそうです。ある令嬢がささいなことで生涯謹慎を命じられた、家が関わっていた場合は領地を取り上げられた例がある、などとまことしやかに囁かれておりました」
うっ……。
そ、それって、やっぱりゲームの破滅がありうるってことではー⁉︎
こないだあれこれ考えたけど、実は破滅の理由はその不文律だった⁉︎ぎゃー、だったらやっぱりヤバいやん!
「……殿下がユールノヴァにいらしたことで、エカテリーナがその不文律に守られる身になったということか」
たいへん不機嫌そうにアレクセイが言う。ハリルは苦笑混じりにうなずいた。
そしてエカテリーナは、あれ?と内心で首をかしげた。
その不文律に守られるの、悪役令嬢の私なの?……でもそうか。皇子がそう言ってただろ、しっかりしろ自分。
「おそらくは。れっきとした婚約者であればその立場によって守られますが、あくまで親しい友人というだけではっきりした立場ではない状態では、危害を加えられても守ることができないため、明確な規則でなく伝説めいた不文律が出来上がったのでしょう。そんな段階で危害まで加える例が、本当にあったのかは不明ですが、皇位継承者の周辺に不審な事故が頻発するなど、あってはならないことですから」
あー……そりゃ親しげだからコロスって、どんなサイコパスだよって感じですよね。ぶっちゃけ皇族の婚約者って、家の力で決まることがほとんどなんだから。そんな真似したら、相手の家から報復を受けるのは必至という愚策。本当にそんな事例があったのかは、怪しいかも。
けど、おちおち友達も作れないんじゃ困る、っていうことで作られた伝説かしら。早く帰らないとオバケが出ますよー的な。そりゃ、せっかくの学生生活、友達も作れないなんて困るよね。
やべえ皇子に近付かないようにしようと思ったのに、親友ポジションに付くべく外堀が埋まっていたでござる。
あいかわらず残念な思考を展開するエカテリーナであった。
しかしセレズノア家、皇太后陛下を出していながら、今も皇后を立てるのが悲願ってどういうことだろう。




