皇都への帰還
翌朝、一行は小領主の屋敷から出立した。
小領主は寝不足ながらも意気軒昂で、胸を張って貴人たちの出発を見送っている。彼の老妻は心配そうながらも、やはり晴れがましい気持ちでいるようだ。
というのも、昨晩の騒ぎについてエカテリーナとフローラからねんごろに謝罪されると共にいち早く駆けつけてくれた忠義心を褒め称えられ、アレクセイからも感謝の言葉をかけられた。さらにミハイル皇子殿下からも、ユールノヴァの臣下は忠誠心が厚く素晴らしいと称賛されて、感涙にむせんだのだ。
彼は、かつて祖父セルゲイの近習として仕えた人物。とにもかくにもセルゲイ公のお孫様に何事もなくなによりでした、と涙をぬぐう老夫妻に、内心で平謝りしたエカテリーナであった。
かくして、魔竜王の来訪は完璧に隠蔽された。
その後はつつがなく帰路をたどり、一行は快速船ラピドゥスでセルノー河を下って皇都へ向かった。
河を遡上した往路以上に快調に、ラピドゥスは復路をたどる。
船という閉ざされた環境で、周囲の目をさほど気にしないで済む状態になって、エカテリーナ、ミハイル、フローラはそれまでより少し肩の力を抜いて、旅路を楽しんだ。アレクセイはいつも通りだが、楽しげな妹の様子に目を細めている。
エカテリーナはたびたびフローラを誘って、甲板で川岸を眺めながら、一緒に歌を歌って過ごした。美しい少女たちの美しい歌声に、快速船の乗組員たちも好ましげに耳を傾けている。
ただ、耳慣れない曲だと、首をかしげる者もいた。
それもそのはず、その曲はエカテリーナが歌詞を皇国語に翻訳した、前世の世界的大ヒット曲だったりする。これまた世界的に大ヒットした、氷の城が出てくるアニメ映画の主題歌だ。
実はエカテリーナ、いつぞやプロジェクトなんちゃらの主題歌を翻訳してからクセになったというか、ちょいちょい前世の歌を翻訳している。内緒の、秘密の趣味である。しかしこの曲は、なにしろザ・ヒロインな一曲。前からフローラに歌ってみてほしいと思っていて、今回はあまりの絶好の機会に衝動をこらえきれなかったのであった。
声が綺麗なフローラは、歌も上手だった。さすがヒロイン。
エカテリーナは前世の部活が合唱部だったので、歌う時に取るべき姿勢とか喉を開くやり方とか音程の取り方とか、知識がある。音程の正確さには定評があって、カラオケで採点すると九十点台は普通に取れた。とはいえ、独唱に選ばれるような華のある声をしてはいなかったのだけど。
フローラは間違いなく、ソロで歌える、華のある声をしている。
そういえば、体力をつけるために乗馬か、声楽を習いたいと思ったことがあったのだった。
乗馬はアレクセイにおねだりして習わせてもらえることになったけれど、身体に合わせた鞍を作ってもらう必要があったり、当然ながら馬と馬場が必要なわけで、学生の間は毎日できるものではない。歌なら身体があればできるし、前世から好きだったし、こうして歌ってみるとやっぱり楽しい。
というわけでエカテリーナはあらためて、声楽も習いたい、とアレクセイにおねだりすることにした。
もちろんアレクセイは即答で許可してくれた。
「お前にふさわしい、よい教師を手配させよう。お前は歌声も美しい――お前の歌声が響くところは、地上であろうと天界の楽園だよ。まさに私の妙音鳥だ。これ以上素晴らしくなってしまっては、音楽神の庭に招かれて還らぬことになってしまわないか、それだけが心配でならない」
「お兄様ったら」
今日もシスコンフィルターが絶好調ですね!
「わたくしなどより、フローラ様の方がずっと素敵な歌声をしていらっしゃいますわ」
「フローラ嬢の歌声も素晴らしい。それでも、私の魂を溶かすのはお前の歌だけだ」
魂までシスコンフィルター装備。さすがお兄様。
でも魂にブラコン装備している点では、私は実績がありますからね!
威張っていいことか、よくわからないけど!
よくわからないとか思いながら、思わず胸を張るエカテリーナであった。
またある時は、エカテリーナは手紙を読んだり書いたりして過ごした。そんな時間も、快速船の甲板に設置された瀟洒な椅子とテーブルで、川面を渡る風に吹かれながらの、ちょっとしたリゾート気分だ。
「それは、船に乗る前に早馬から受け取っていた手紙?」
隣に来たミハイルに訊かれて、エカテリーナはうなずく。
「ええ、領地でお友達になった、ある夫人からですの」
手紙の差出人は未亡人ゾーヤ。森の民の木製食器について、手元にあると匂わせたところ、問い合わせが殺到しているとの連絡だった。やはり、ミハイル皇子殿下がユールノヴァの伝統は素晴らしいと褒めた、その言葉がユールノヴァの上流階級の人々にぐっときたらしい。セットでなくとも単品で問題なく採算が取れる価格で売れると確信した、ぜひ販売を任せていただきたい、と意欲あふれる言葉が綴られている。
「ユールノヴァで一番の商会に関わる方ですわ。ミハイル様のおかげで、よいご商売ができるようですの」
「それは、狩猟大会の後に出してくれた、妖精の果物に関することかな」
ほぼ言い当てられて、エカテリーナは目を見開いた。
ミハイルは悪戯っぽく笑っている。最初から、エカテリーナの狙いはお見通しの上で、褒めてくれたらしい。
「さすがですわ、よくお分かりですのね」
悪びれずにエカテリーナが褒めると、ミハイルは遠い目になった。
「母上もよくやるからね……」
なるほど。
皇国最大の貿易港を擁するユールセイン公爵家の出身であり、皇国の貿易振興に手腕を発揮する皇后マグダレーナは、商品のプロモーションに息子をがっつり使うらしい。
ちょっと、わかる気がする。
「あの果物を盛っていた、木製の器を販売したいと考えておりますの。ユールノヴァの森に住む、少数民族が作るものですのよ。独特の、素敵なセンスを持っていて……彼らに収入をもたらし、これから世の中がどう変ろうとも、彼ららしく生きてゆける道筋をつけられたらと思っているのです」
そう口にしてから、十六歳の少年に話すことではなかったかもと思い、いや問題ないわと思い直した。
皇子ミハイルは、ただの十六歳ではないのだから。
ミハイルは真顔でエカテリーナを見つめ、呟いた。
「君は、はるかな遠くが見えているみたいだ」
いや違うんや……前世の記憶があるだけなんや……。
なんかかっこよく表現しないで。私はただのアラサー社畜だった人です。
「しょ、将来を見越しての配慮など、誰でもすることではありませんこと?」
ホホホ〜、とエカテリーナが笑うと、ミハイルはにっこり笑って「そうだね」と言った。
この引き際の良さがかえって怖い。
「狩猟大会で思い出したけど、アレクセイは彼が仕留めた大鹿の銀枝角を君に贈るそうだね」
ミハイルが言い、エカテリーナはぱっと笑顔になってうなずいた。
「はい、そうですの。磨かせて細工をしたら、お部屋に飾らせてくださると」
銀枝角は、磨くと見事な白銀になるそうだ。
前世のヨーロッパでは、鹿の角を飾るというと首を剥製にすることが多かったが、皇国では剥製はあまり好まれない。角だけを飾ると聞いて、エカテリーナはほっとしつつ喜んで受け取ることにした。
「あの大角牛の金角も、もらってくれないかな。君に贈りたいんだ」
そう言われて、エカテリーナは目を丸くする。
そして少し考え、きっぱりと首を横に振った。
「あれは貴重なものですわ。差し上げるならば、わたくしよりもふさわしい方がいらっしゃいましょう。皇后陛下にお贈りなさいませ、きっとお喜びになりますわ」
我が子が、あんなにも見事な獲物を仕留めるほど立派になった。母親なら、さぞ嬉しいことに違いない。
「そう……」
彼にしてはあからさまに落胆の表情を見せたミハイルだが、すぐにうなずいた。
「なら母上には、君が母上にお贈りするよう言ってくれたと伝えるよ」
「まあ!」
いきなり、エカテリーナは柳眉を逆立てた。
「いけませんわ、母上様への贈り物を、誰かの入れ知恵だとお話しするなど!絶対に、ご自分のお考えだとお話しくださいまし!」
エカテリーナの脳裏にあるのは、早めに結婚して母親になった前世の友人だ。育児でいっぱいいっぱいだと聞いていた彼女と、偶然会って話した時、ウチの子がこれくれたの!と顔を輝かせて見せてくれたのが、彼女の似顔絵らしきものだった。
『自分で思いついてプレゼントしてくれたのよ〜。いつの間にか自分でそんなこと考えるようになったんだ!って、すごく嬉しいけどすぐ大人になっちゃうのねってちょっと寂しい気もして……』
いやその寂しさは早すぎじゃないの、とつっこむことができないほどのマシンガントークだった。
ともあれ、プレゼントは人からの入れ知恵であってはならない。自分で思いついた、感謝のあかしであるべきなのだ。
「ああ、うん、わかった……」
「絶対でしてよ」
皇子ってすごく大人だけど、そういう人情の機微は解ってないんだね。男子はそういう情緒の成長が遅いんだから、って弟がいる子がぷんすか怒ってたけど、やっぱりそうなのかも。
でも、珍しく高校生男子らしい面を見つけて、お姉さんはある意味安心したよ、うん。
急に怒った後に、なぜか満足げにうなずいているエカテリーナに、ミハイルは苦笑した。
「母上を大事にするよ」
「……」
領地を旅立つ前に、兄と共にユールノヴァ家の霊廟に墓参したことを、エカテリーナはふと思い出していた。
そして、快速船は皇都の船着場へ到着する。
世話になった船長をはじめとする乗組員たちに礼を言って、一同は快速船から下船した。
長かった夏休みも、もうほぼ終わり。
学園で会いましょう、と約束して、それぞれ迎えの馬車に乗り込み――フローラのための馬車はユールノヴァ家が用意していた――手を振り合って別れたのだった。
新学期に、彼らは再会する。




