再会、そして
息を呑んで、エカテリーナはあらためて窓を見る。
この世界の夜は、きらめく光に彩られていた東京の夜景とはまるで違う。夜はすなわち闇であり、光は月と星のほかにない。それが基本である世界だ。
だからこそ、月の光が前世よりはるかに明るく感じる。すぐに目が吸い寄せられた、月影に浮かび上がる黒い猛禽の輪郭と、赤く光る目に。
「魔竜王様……⁉︎」
あわててエカテリーナは立ち上がる。夜着の上にショールを羽織り、急いで窓に歩み寄って開いた。
領民たちに手を振った大きな窓の外枠に、黒い猛禽がとまっている。
と認識したとたん、猛禽は消えた。変わって――。
人間の姿のヴラドフォーレンが、ゆったりと長い足を組んで、窓枠に優雅に腰かけていた。
「しばらくぶりだな」
紅炎の瞳が、笑みを含んでエカテリーナを見上げる。
「は、はい、お久しゅうございます」
思わずそう答えて、エカテリーナははたと我に返った。
エカテリーナは窓際にいて、ヴラドフォーレンは窓枠といっても部屋の内側に身体を向けた状態で腰をかけているわけで、ほぼ室内にいる。
夜、同じ部屋に男性と二人きり。貴族令嬢として致命的なスキャンダル。奥さん事件です。ボケはいらんぞ自分。
というか、近い。近すぎる。
「お越しいただき光栄に存じますけれど……このような時刻に婦女子の寝室に足を踏み入れるなど、わたくしどもの慣習に反しておりますわ」
「だろうとは思った」
平然と、ヴラドフォーレンは言う。
「だが、お前と話したかった」
エカテリーナは思わず彼と目を合わせ――あわてて目をそらした。
相変わらず美形ですね!美形すぎて直視できませんわ。
「俺の領土はこの北の大森林だ、もうすぐお前はここを去るのだろう。その前に、姿を見て、声を聞いておきたかった……。だが他の者がいるところで訪ねては、騒ぎになると思ってな」
……それは、まあ。
うん……お兄様や皇子がいるところにこの方が現れたら、それはもう大騒ぎになってしまうよね。
とはいえ、これはこれでまずいんですが。
「ご配慮ありがとう存じますわ。ですが、このようなところを誰かに見られたなら、わたくしの評判は地に落ちて家名を辱めることになってしまうのです。そうなってしまいましたら、兄がどれほど心を痛めることか」
ていうかお兄様は、魔竜王様に決闘を申し込んで、局地的氷河期とか起こしそうです。
ブラコンらしく兄を心配するエカテリーナだが、スキャンダルになることは理解しているのに、そもそも異性と二人きり、という状況に対する危機感はすっぱり欠如している。前世でSEなどやっていたため、深夜に異性(同僚)と密室(サーバー室)で二人きり、という状況がまったく珍しくなかったのが悪かった。
「相変わらず、お前は兄が一番大事か」
「もちろんですわ!」
高らかにエカテリーナが言い切ると、ヴラドフォーレンは笑った。
そして、窓枠をひらりと越え、窓の外に立つ。
「お前の護衛に邪魔されないよう、気配は消している。そして、他の者には、俺は鳥の姿で見える。お前の名誉に傷が付くことはないはずだが……お前の望みは尊重する。これなら、足を踏み入れてはいないだろう」
思わず、エカテリーナはその足元をのぞき込んだ。もちろん何もない。ヴラドフォーレンはこともなげに中空を踏んで立っている。
そういえば、初めて人間バージョンになった時もこういう立ち位置でしたね。ほんとにどうやって浮いているんだろう、フシギー。そして他の人からは鳥の姿で見えるって、どういう原理でそうなるんだろう。
と、ヴラドフォーレンが紅炎の目を細め、ふふ、と笑う。
「女を恋うる男が、こうして窓の外から女に呼びかけるのを見たことがある。俺もなかなか、人がましい真似をしているようだ」
いや、宙に浮いている時点で人間ではありえないです……というつっこみはさすがに口に出せないエカテリーナだったが、ふと、そういえばこの状況が何かに似ているような気がして記憶をたどった。
あ……思い出した。ロミオとジュリエットだよ……。
いや、あれは確かバルコニーだから。ここにはバルコニーないから。ていうか他にもいろいろ違うだろ、フリーズしそうなことは考えるんじゃない自分。伴侶とか言ってもらったこととか考えない!保留!
……こうして気遣ってもらっても、これもやっぱり令嬢としてまずいとは思うんだけど。
異種族コミュニケーションなのに、今もできる限り人間に寄せてきてくれているのは、よく解る。その気になれば、無理矢理さらうこともたやすい存在なのだもの。
窓の外でも駄目だから帰ってください、とはちょっと言えない。気遣いには気遣いを返すべきだよね。
あと……確認したいこともあるし。
「都合も聞かずにさらっていかないでくださるのですもの、紳士としてたいそう進歩なさいましたわ」
悪戯っぽくエカテリーナが言うと、思いがけずヴラドフォーレンは真摯な表情になった。
「紳士のふるまいなど知ったことではない。ただ俺は、お前が望まないことはしない。お前を特別に思うからだ」
だから、フリーズするからやめてくださいってば。
そんなエカテリーナの内心の声が聞こえたわけではないのだろうが、ヴラドフォーレンは不意に表情をあらためた。
「それはそうと、お前に言っておくべきことがある」
「どのようなことでございましょう」
きょとんとエカテリーナは首をかしげる。
「お前は少し、用心を覚えろ。小妖精ごときにたぶらかされてどうする」
ぎゃあ!
わーんそんなこと言われたって!
「あ……あの小妖精をお叱りくださったのは、やはり魔竜王様でしたの?」
「そうだ。あの道化者には、今度お前に不埒な真似をしたら、溶岩たぎる火山の火口へ放り込むと言い渡してある」
な、なるほど、あの小妖精がビビり倒していたわけだわ。溶岩たぎる火口……都市伝説でも、一瞬で蒸発しそう。
ていうか、やっぱり!魔竜王様見てたんですか。まさか、私のふともも見られた⁉︎
「お前の命令に服従するよう、言い付けもした。あやつらは悪ではないが、誠意など欠片も持ち合わせぬ者共だ。口約束ひとつで解放などするな」
「あ、あの時は……わたくしの側仕えが、あの者を川の淵に沈めると申しましたので、それを止めたかっただけだったのですもの」
首を縮めながらも、エカテリーナは反論する。
おっさんに重石をつけて川に沈める……嫌です夢に出てきます。昭和の反社会的勢力映画の恐怖シーンです。
いちご栽培も森の民との連絡役も、前から狙ってたわけじゃなくてあの場の思い付きだったもの。小妖精が口先でやると言っておいてすぐ逃げたって、別にダメージ受けるわけじゃなかったし。
社畜時代は「立っている者は鬼でも使う」が信条でしたけど。あれは、炎上案件の火消し役やらされて常時せっぱつまっていたからで、今はそこまでしませんよ。
「お前は、妖精界から戻れぬ身になるところだったのだぞ。そんな呑気なことでは、あやつがまたお前を狙ったなら、たやすく連れていかれるだろう」
うっ!
そ、それは確かに。ミナがファインプレーで助けてくれて、さらわれそうになった実感がなかったもんだから。呑気と言われれば反論できない対応だったかも?
な、なんか、治安の良い日本に慣れきった日本人観光客が、海外のハードな地域でバッグからお財布見えてても呑気にしていて超危なっかしいカモネギ状態、みたいな感じだったのかもしれない!
いかん、それはいかんぞ!
うら若い女性として現在進行形で呑気なくせに、心でこぶしを握っているエカテリーナである。
「ご教授ありがとう存じますわ!兄のいない世界に連れて行かれては、わたくし生きていけません。二度とあのような危険に遭遇することのないよう、しかと用心いたします!」
「ああ……しかし急にどうした?」
突然盛り上がったエカテリーナに、ヴラドフォーレンはけげんな顔になった。
そこへ。
控え目なノックの音がする。
「エカテリーナ様……起きていらっしゃいますか?」
フローラの声に、エカテリーナは固まった。




