蘊蓄と建前
急遽呼び出されたノヴァク夫人アデリーナは、人好きのする顔にいささかの緊張をたたえて、皇子ミハイルに跪礼をとった。
「お会いでき光栄に存じます、皇子殿下」
「どうぞ楽にしてほしい、伯爵夫人。急な呼び立てに応じてくれてありがとう」
完璧なロイヤルスマイルで、ミハイルは言う。
伯爵夫人というのも、あえてのリップサービスである。長年アレクセイを支えてきたノヴァクは子爵であるが、伯爵への爵位引き上げ、陞爵が決定している。アデリーナを紹介する際にアレクセイが、ノヴァク家について現在は子爵だがまもなく伯爵となる、と説明したことを受けてそう呼びかける十六歳。実にそつがない。
「夫君はアレクセイの最も信頼する腹心だそうだね、ユールノヴァの安定を支えてくれて、僕としても嬉しく思っている」
「なんと嬉しいお言葉……夫もさぞ感激することでしょう」
本当にアデリーナは、身が震えるばかりに感激しているようだ。
なお、ノヴァクについてはアレクセイは、臣下と説明しただけだった。それなのにどういう存在か把握しているあたり、ユールノヴァを訪問するにあたって、しっかりと予習してきたのだろう。そつがないというか、油断ならないと言うべきか。
「それに、ユールノヴァ伝統のダンスに関心を持っていただけたことも、わたくしは本当に嬉しゅうございます。皇国の建国以前より、身分の上下を問わず愛されてきたものですので。皇子殿下を歓迎する宴で、高貴な方々が踊ってくださったと知ったなら、ユールノヴァの領民たちは皆、どれほど喜び誇りに思うことか」
そう。ユールノヴァ領にきてからエカテリーナのダンス教師を務めてくれているアデリーナは、稽古の合間にダンスにまつわる蘊蓄を教えてくれていた。
その中で、ユールノヴァに古くから伝わるダンスはグループで踊るものであること、中でも若者たちに愛好されてきたダンスがあること、祖父セルゲイ亡き後、そのような野蛮なものは根絶やしにせよ、と祖母アレクサンドラが命じ、以来おおっぴらには踊れなくなっていて皆残念に思っていること、を話してくれたのだ。
それは残念なことですわ、お話をうかがうと、とても素敵なダンスのようですのに。そう応じたエカテリーナは、内心激怒していた。
てめーは本当にろくなことしないなクソババア!地方の伝統文化を根絶やしにしようなんて、てめーのほうがよっぽど野蛮じゃ!
ミハイルとのファーストダンスを回避したいエカテリーナが、思い出したのがそれだった。
そこで、こう提案したのだ。
『せっかくユールノヴァにいらしてくださったのですもの、ユールノヴァ固有のダンスを踊りませんこと?それなら、四人で踊れますのよ。それに、そのダンスは今、危機に瀕しているそうですの』
アレクセイが言う。
「夫人がエカテリーナに教えてくれたそうだが、祖父が亡くなってのち郷土の文化が軽視され、消えようとしていることを知った。由々しき事態と考え、私の代ではそのような方針は撤廃する。皆に時代が変わったことを知らしめる、よい機会として、今回の歓迎の宴で採用することになった」
決して嘘ではない。
しかし建前である。
「皇子殿下、そして当代の皇帝陛下は、各地に固有の文化について鷹揚な方だ。エカテリーナの提案に、快く協力してくださることになった」
アレクセイの言葉に、ミハイルもうなずいた。
「楽しそうだからね。それに皇国の開祖ピョートル大帝は、各地の文化を否定するようなことは、望んでおられなかった。ユールノヴァ公爵家の開祖セルゲイ公は、この地の人々との融和を重視されたと聞く。それがユールノヴァの平和と安定の礎になっていると、父上も評価しておられた。僕が役に立てるなら、嬉しく思うよ」
建国四兄弟の次男である開祖セルゲイは、土着の豪族の娘であり山岳神殿の巫女でもあったクリスチーナと結婚し、現地の文化を尊重して融和に心を砕いた。
皇国には建国期からの由緒ある貴族であっても、皇帝から領地を与えられ統治するにあたって元からの家臣を徹底的に優遇し、領地に元々住んでいた人々を差別しているところもあるそうだ。しかし、そうした領地はやはり、人心が安定しづらい傾向があるらしい。
ミハイルからそう聞いて、エカテリーナは前世の土佐藩を思い出した。坂本龍馬を生んだ藩として有名な土佐藩は、藩主山内家の元からの家臣を上士として優遇し、元々そこにいた長宗我部家家臣だった武士を郷士として差別していたと、さまざまな時代小説で描写されていた。
そういう抑圧が幕末の志士を生む原動力になったという話もあったけど、やっぱり気分のいいものじゃないよね。私、本当にうちの子でよかった。
そしてお兄様、あらためて超有能!
私は破滅フラグを回避したいだけで提案したんだけど、すぐさま公爵位継承に伴う人心刷新の策に変換して、皇子からも同意をとりつけてくれた。さすがです、お兄様。
そして皇子も、立派だよ。『僕としても勉強になりそうだ』って言って同意したんだもの。彼もやがて皇帝の位を継承する身、その時に人心刷新策をおこなう場合の参考にしようとしているんだろう。
これで十六歳。先が楽しみだよ、うん。
いやアレクセイは、八割方はエカテリーナをミハイルに奪られたくないシスコンで動いたのだが。
そしてミハイルも、ここでパートナーに固執するよりも、いったん退いてアレクセイに協力してみせたほうがエカテリーナの好感度を上げられるという判断が八割なのだが。
そんな思惑にさっぱり気付かない、あいかわらず安定の恋愛残念女である。
アデリーナ夫人は涙ぐむほど感激しているが、高貴で見目麗しい若者たちの関係性をどう見たのか、目を輝かせて生き生きしてきた。息子と娘がすでに結婚して子育てが一段落した年代の女性として、思うところがあったらしい。
「殿下も閣下も素晴らしいお方。そして美しいお嬢様方、きっとお客様がたの目を釘付けにするような、素晴らしいダンスになりますわ。さあ、ステップをお教えいたしましょう。このダンスは、若者たちが女性を得るために争い、求愛し、受け入れられるまでを様式化したものですのよ」




