呼び声
(露天風呂ー!)
うっきうきで、エカテリーナはゆっくりと湯船に浸かった。思わずほうっとため息がもれる。
日本人の感覚では、隠れ家温泉の秘湯という感じだ。小川沿いに造られていて、引き込んだ川の水で温度調節して適温になるよう工夫されているらしい。きっと発明家ジョヴァンナが遺したもの、森の民に三百年間守られてきたものだ。
森の民の居住地方向に、視線をさえぎるための天幕が張られているが、小川方向や空には何もない。小川のせせらぎを聞きながら、満天の星空を見上げることができる。
控えめに言って最高!
前世の日本とは、見える星の数がまるで違う。夜空が星でいっぱいですよ。天の河が見えるよ!
……天の河の正体って、銀河系の中心方向に見える星の大群だよね。この世界のこの太陽系も、銀河系の端の方に位置しているんやろうか。ここは異世界の地球なのか、別の星なのか……やめよう、考えると眠れなくなっちゃいそう。
「お嬢様、外の風呂は怖くありませんか」
続いて入ってきたミナに訊かれて、エカテリーナは笑顔で首を振った。
「とても心地良くてよ。戸外のすがすがしい空気の中でくつろぐのは素敵ね。それに、ミナと一緒に入れるのも嬉しいの」
「……メイドと一緒に風呂に入るのが嬉しい公爵令嬢って、変です」
「あら、久しぶりの言葉ですこと」
ミナと出会ったばかりの頃はよく『お嬢様は変です』と言われたもんだったけど、そういえば最近は、あまり言われてなかったわ。私が令嬢生活に慣れたのか、ミナが私に慣れたのか。
しかしミナの腹筋すごい。世界陸上とかで見た、世界最高峰の女子アスリートばりにキレッキレ。そういえば陸上の女子アスリートって、なぜにあんなに露出度が高かったんだろ?眼福だったけどさ。
私、悪役令嬢はといえば、引きこもりだった頃よりちょっぴり引き締まったような気がするけど、相変わらずですよ。
若干成長してますけどね、けしからん感じで。ユールノヴァ領に旅立つ前に、皇都でデザイナーのカミラさんに採寸してもらったら、嬉しそうに『さらに魅惑的におなりですわ〜』って言われたし。いやもう充分なんですけど。
ミナが、背中を洗ってくれた。森の民が入浴に使う分厚い葉っぱがあって、揉むとぬるぬるした感触になる。これで身体を洗うと、肌がきれいになるそうだ。
この世界、というか皇国は、入浴や洗顔、手洗いに関する意識が高い。貴族だけでなく、街中にも庶民向けの共同浴場があると、フローラちゃんが言っていた。
中世近世の前世ヨーロッパは、衛生状態が悲惨だったというのは有名な話。皇国がそうではないのは、ジョヴァンナさんが修復してくれた上下水道のおかげもあるかもしれない。それに、全体に良質な水が豊かだし。森林資源が豊富なユールノヴァ領なんて特に、あちこちにおいしく飲めるきれいな湧き水が湧いている。
そして、神様のおかげも大きいらしい。人々がまめに手を洗うのは、そうすると神様のご利益があるからだそうだ。
医療神は清潔が好きなので、手を洗うと病気になりにくくしてくれると。
みんな細菌の知識なんてもちろんなく、おまじない的にやっているわけだけど。科学的に正しい!昔、神託で人々にそれを伝えた医療神様、グッジョブ!
「ミナの背中はわたくしが洗ってあげるわ」
「いりません。お嬢様にそんなことさせられません」
にべもない!裸のつきあいなのに!
いや〜、洗う〜、と駄々をこねたけど、ミナのガードは鉄壁でさっさと自分で洗ってしまった。ちえ。
あまりゆっくりしては申し訳ないので、洗い終わったらさっと上がり、天幕の陰で服を着る。
何が申し訳ないかといえば、騎士の皆さんが温泉の周りをガードしてくれているから。食事の時も、皆さん酒豪そうなのに警護の仕事中だからとアルコールなしで済ませてくれてたし、ほんとに申し訳ない。
「皆様、ありがとう存じます。わたくしはもう休みますので、皆様もどうぞお入りになって、くつろいでくださいましね」
そう声を掛けると、騎士たちは全員こちらに背を向けたまま、はっ!と応えた。……いろいろ申し訳ない。
就寝用に貸してもらった天幕へ入り、ミナに髪を梳いてもらう。森の民の居住地へ来る時、あわただしく馬車を降りることになったのに、ミナはしっかりエカテリーナの髪や爪を手入れする道具を持ってきていた。青薔薇の髪飾りなどの貴重品も入っているので、その点でも手元に置いておくにこしたことはない。
食事の時は床のクッションに座ったから、寝るのは布団かと思ったら、小さいながらもベッドだった。
そして、枕からいい香りがする。レモングラスのような、爽やかな香りだ。きっと虫除け効果があるのだろう。大王蜂は平気なのか?まあ、天幕の中には入ってこないからいいのだろう。
森の民は、アロマの知識も豊富なようだ。これも今後、活かすことができるといい。森を維持しつつ、森の民が経済的に力を持って、時代が変わっても彼ららしく暮らしていけるような道筋をつけられたらいいな、と思うのだ。前世で、さまざまな国の先住民族が、いろいろな苦難を味わっていた。この世界が前世のように発展していっても、森の民がそういう思いをしないで済むことを願う。
ベッドに入ると、アウローラから言われていた通り、籠に入っていた白珠虫をミナが外へ放した。暗くなった天幕の中で目を閉じると、エカテリーナはすぐに眠りに落ちた。
目が覚めたのは、いつ頃だったのか。
天幕の外が明るいが、深夜であるような感覚があった。
――呼ばれている……。
ああ、行かなければ。自然にそう思って、身を起こす。
ベッドを出て、夜衣の上にショールを羽織って、ふとおかしいと気付いた。
ミナが起きない。
少しでも気配があれば目覚めるミナが、同じ天幕のもう一つのベッドに横になったまま、起きる様子がない。
それでも、怖くはなかった。何が自分を呼んでいるのか、解る気がしたので。
天幕を出る。
誰もいない。レジナたち猟犬さえ、丸くなって眠ったまま動かない。
いつの間にか、月が出ていた。煌々と輝く満月。あれほど天を満たしていた星々が、圧倒的な月光の前にほとんど見えなくなっていた。
足元を見下ろす。くっきりと、月の影が落ちていた。
視線をあげる。満月の下に、人馬がたたずんでいる。
乗り手が持つ大鎌が、月光に輝く。
エカテリーナはいとも優雅に淑女の礼をとった。
「お初におめもじいたします。わたくし、エカテリーナ・ユールノヴァと申します。
死の乙女と呼ばれるお方、わたくしに御用がおありでしょうか」




