死の乙女
『死の乙女』とは、森の民が語り伝える伝説の存在なのだそうだ。
見た目は、美しい少女だという。しかし、血に染まった屍衣を身にまとい、華奢な身体には不似合いな大鎌を手にしている。そして、たてがみと尾が銀色の巨大な漆黒の馬に乗って現れるという。
生者ではない。遠い昔にむごい死を迎え、安らかに眠ることなくさまよい続けている少女だ。
その手が触れたものは、すべて死に絶える。復讐のために自ら死に囚われた、呪われた乙女。
まだ古代アストラ帝国がこの地を版図にしていなかった頃というから、二千年ほども昔のことになろう。
彼女は、今の北都があるあたりの一部を所領としていた、名門豪族の末っ子として生まれた。誠実な父親と優しい母、仲の良い兄と姉のもと、すこやかに、心優しい少女に成長した。
彼女も美しかったが、姉はさらなる美女だった。その美しさは近隣に名高く、結婚の申し込みが後を断たなかった。
その姉を射止めたのは、当時この地で勢力を拡大していた、別の豪族の跡継ぎ。見目良い若者であるだけでなく野心家で、言葉巧みに姉の心をとらえ、夢中にさせた。若者の一族の欲深さを知る父親は渋ったが、姉の熱望に負けて、娘を嫁がせることを了承した。
その、婚礼の夜。
花婿の一族は、花嫁の一族を皆殺しにして領地を奪った。
婚礼を祝うために、花嫁の一族は晴れ着をまとって集まっていた。祝宴で盃を重ね、花婿の一族たちと大いに語り合って、夜が更ける頃には寝静まっていた。深夜、花婿の一族は隠していた武器を取り出し、寝込みを襲った。ひとたまりもなかった。
美しい花嫁さえ、一夜の契りの後、領地が手に入れば用なしと惨殺されたという。
乙女は、一族と共に死んだ。だがあまりの悲憤に、死にきれなかった。冥府へいざなおうとした死の神を拒み、一族すべての無念を晴らすべく、復讐を願った。
死の神は言った。冥府へくだるのを拒むなら、この世にあって我がものとなれ。受け入れるなら、望みを叶えようと。
乙女は、その言葉にうなずいたのだ。そして、触れるもの皆息絶える、『死の乙女』となった。
「……彼女は、手にした大鎌で怨敵の一族すべての生命を刈り取り、復讐を果たしたのでござります。しかしその後も、死に囚われたまま、生ける死者として永遠にさまよい続けていると、森の民は語り伝えておりまする」
「哀しい物語ですこと」
ほう、とエカテリーナはため息をついた。
『死の乙女』、って前世では、ペストの擬人化だったような。東欧の民話で、血染めのハンカチを持った白いドレスの女性が村の入り口でハンカチを振ると、村にペストが蔓延して人がバタバタと亡くなる、という話が伝わっていると、何かの本で読んだことがある。
でもこの世界では、『死の乙女』は何かの擬人化ではなく、実在の人物だったような感じ。
「わたくしが見たものが、その『死の乙女』だとおっしゃいますの?」
「荒唐無稽なこととお思いになりましょう。しかし、妻女アウローラが幼い頃、『死の乙女』に出会ったそうにござりますゆえ」
その時、そのアウローラが現れた。
「夕餉の支度ができました。たいしたものではありませんが、どうぞ」
気が付けば、陽はすっかり暮れていた。
宵闇に包まれた居住地にはあちこちに、白珠虫の光がふわふわと浮かんでいる。まるで光のシャボン玉のようだ。
アウローラに導かれて、居住地でもひときわ大きな天幕へ通されると、ごく低くて長い木のテーブルに、心尽くしの夕餉が並んでいた。ちょっとスパイシーな、食欲をそそる匂いがする。
天幕の中でも、数匹ずつ籠に入れられた白珠虫が、優しく光っていた。
ちょっと前世の間接照明のようで、オシャレな感じですね。
椅子はなく、クッションに座るよう勧められた。皇国では床に座る文化はないわけで、嫌ではないかとフォルリに心配されたが、前世日本の記憶のおかげでバッチこいだ。
食器はほとんど木製。ただ、木の皿も器も優美な形状をしていて、精緻な彫刻が施され、素朴というより芸術的な印象だ。スプーンやフォークも木製だが、これも凝った細工にほれぼれする。そして食卓のあちこちに、品良く花が飾られていた。
「素敵ですわ。森の民の皆様は、たいそう優れた美的センスをお持ちですのね。このような食器を、公爵家のガーデンパーティーでお客様に使っていただいたら、喜ばれるのではないかしら」
「嬉しいお言葉です。お嬢様から見れば風変わりなものでしょうに、お心が広くていらっしゃる」
いえいえ、本当に素敵ですよ。陶器より軽いという利点もあるし、立食パーティーにマジで導入してみたい。皇都のガラス工房、ムラーノ工房で、ガラス製のグラスやお皿を売る販売先を開拓中だけど、この雰囲気なら同じ購買層に売れたりとか……。
いかんいかん、招いてもらった身で色気を出すな自分。
でも後で、現金収入に興味がないかちょっと訊いてみよう。
料理は山菜が中心。初めて食べる食材が多くて、わくわくする。
熊肉入りのスープは、臭みがあるかとおそるおそる食べてみたけれど、ハーブが効いていて香りがよく美味しかった。ちょっと酸味があって、ぴりっとする風味もある。熊肉はやはり野性味があるけれど、ハーブのおかげで風味と思える程度で、クセになる味。
そして、スープにはカブが入っていた。甘みがあって美味しい。……うん、カブじゃないですね……。
考えるな自分!今まで食べてきたのもみんな生命だ!
ありがとう甜菜!ありがとう熊!今まで食べてきたすべての生命にありがとう!いただきます!
他にも、木の実たっぷりの茶色っぽいもちっとした焼きパンのようなもの(小麦粉の代わりに、ある木の実を挽いた粉を練って、木の実をのせて焼くそうだ)、ちょっと苦味のある木の芽ときのこをグリルしたもの、ホクホクした食感の何かの球根、そして小ぶりな桃やラズベリーやブルーベリー、アケビに似たものなど、多様な果物。
もの珍しさも手伝って、エカテリーナは美味しくいただいた。公爵邸の豪華な食堂とは違う赴きのある、森の民の天幕での食事であることも、気分が変わって楽しい。
「お嬢様、大丈夫ですか」
「本当に美味しくてよ。ミナは口に合って?」
「あたしは何だって食べますよ」
森の民が給仕をしてくれるというから、ミナはエカテリーナの隣で一緒に食事をしている。お嬢様の給仕はあたしがやります、と言い張ったのだが、エカテリーナが自分の隣に引っ張り寄せて座らせた。一緒に食事だと護衛の仕事がやりにくいのかもしれないけれど、騎士たち六人も同席しているし、フォルリもいるのだから、安全は心配いらないはず。常時仕事状態のミナ、たまには仕事モードをオフしてほしい。
なお、御者もちゃんと客人扱いで、恐縮しつつも同じテーブルについて食事をしていた。森の民にとっては身分の違いは森の外のものであって、よく解らないことなのかもしれない。前世庶民の身としても、気が引けないで済むのでありがたい。
ちなみにレジナたち猟犬は、天幕の外で大きな骨をもらってバリバリとかじりついていた。
食事中の話題としてどうだろうと危ぶみつつ、『死の乙女』について訊いてみると、アウローラはうなずいた。
「はい、私は子供の頃に出会ったことがあります。あれは『死の乙女』であったと、今でも思っております」
子供だったアウローラが『死の乙女』と出会ったのは、道に迷った時のことだった。
きのこを採りに行って、夢中になってしまい、気がついたら陽がすっかり傾いているのに、自分がどこにいるのかわからなくなっていたのだ。
この森で子供が一人で夜を過ごすなど、あまりに危険と解っていたから、アウローラは思わず泣き出した。
すると、優しい声がした。
『どうしたの』
驚いて声のした方を見ると、見知らぬ少女が立っている。長い金髪が夕陽を受けて、きらめいていた。
なんてきれいなお姉さん。
ほっそりと華奢で、ぬけるように色白で、細面の顔立ちは少し寂しげだけど、清楚で上品な美しさだ。年の頃は、十五、六歳くらいだろうか。
一人でなくなったことに安堵して、少女の美しさに惚れぼれと見とれながら、アウローラは迷子になってしまったのだと訴えた。
すると、少女は微笑んだ。
『森の民の子ね。いいわ、あなたの一族のところへ送ってあげる。ただ、決して、私に触れてはいけないわ』
少女が手に巨大な鎌を持っていることに、アウローラはこの時初めて気付いて、たじろいだ。『死の乙女』のことは、大人たちから聞かされていたのだ。
森の民は『死の乙女』に呪われていると。
乙女の一族を騙し討ちした仇敵の一族は滅んだが、わずかな縁がある者たちが生き残って、乙女の怒りを恐れて森へ逃げ込んだ。森の民は、その末裔なのだと。
でも、暗くなる前にみんなのところへ戻れなかったら、きっと魔獣に食べられてしまう。
だから、恐るおそる、少女の後について行った。
じっと見つめても、ただ美しい少女に見えた。
けれどこんなところに、知らないお姉さんがいるなんておかしい。白い簡素なドレスは、汚れているように見える。『死の乙女』は、血に染まった衣を着ているはず。そして手に持つ、人の首も刈ることができそうな大鎌。あんな華奢な腕なのに、重さなど感じていない様子で歩いてゆく。
優しく見えるのに、本当は、みんなを殺してしまうつもりだったらどうしよう。
その頃暮らしていた居住地は、すぐに見つかった。少女は振り返り、そちらを指差す。
『行きなさい』
『……お姉さんは?』
少女は、ただ微笑む。魔獣がひしめく森で、一人過ごすのだろうか。
その時、少女の傍らに、巨大な馬が現れた。馬体は漆黒、たてがみと尾は銀色、目の色もまた銀色で、馬とは思えないほど冷たく光っている。『死の乙女』が乗るという馬そのもの。
やっぱり『死の乙女』?
でも助けてくれた。
ふと思いついて、アウローラはきのこがいっぱいに入った籠を差し出した。
『ありがとう。これ、あげる』
『いいえ、いいの』
首を振る少女めがけて、アウローラは籠の中のきのこを投げつけた。とっさに避けようとした少女にきのこが当たる。
すると、みずみずしかったきのこが、見るみるうちに変容した。しなびて黒く干からびて――生命を失って、死に絶えたのだ。
やっぱり『死の乙女』だった!
アウローラは悲鳴をあげて、一目散に居住地へ逃げ込んだ。
「もう、五十年以上前のことですが、今も鮮明に覚えております」
そう言葉を結んで、アウローラはふっと嘆息した。
「アウローラ様が語る『死の乙女』は、恐ろしげな存在には聞こえませんのね」
エカテリーナが言うと、アウローラは目を見張り、微笑んだ。
「そうですか。子供の頃は『死の乙女』と遭遇したことを恐ろしくも思い、自慢にも思ったものでした。あの頃であれば、彼女のことをもっと恐ろしげに語っていたのでしょう。
ですが時を経て、彼女の言葉をひとつひとつ思い起こしてみると、ただ親切にしてもらっただけだとしか思えなくなってきたのです。
あの時は、悪いことをしました。迷子に優しくしてくれた人に、ひどい失礼をしてしまって。いつか再会して、あの時のことを謝りたいと思っているのですが、二度と会えないままなのです」




