新たなる旅立ち
兄の寂しげな表情に後ろ髪を引かれながらも、エカテリーナはついに旅立った。
アレクセイに見送られてエカテリーナが馬車に乗り込むと、扉が閉められ、ピシリと手綱が鳴る音とともに馬車が動き出す。アレクセイは微動だにせず妹を見つめていて、エカテリーナはそんな兄が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。いや、見えなくなっても、なお。
しかし馬車が城門を出ると、さすがに手を止めて、膝に手を下ろす。
そして、大きなため息をついて、馬車の背もたれに沈み込んだ。
……今、ぷしゅーって何か抜けた。たぶん生きる気力的なやつ。
わーん!
なんで安請け合いしちゃったんだ私のばかー!
シスコンのお兄様が、私がいないと寂しいって言ってたんだから。ブラコンの私だって、お兄様がいないと寂しいに決まってるじゃないかー。
お兄様が引き止めるたびに、はい喜んでって引き止められそうになってたのは、だからだな自分!
うわーん、帰ってくるまで何日も会えないよー。同じ屋根の下にお兄様がいないよー。
「お嬢様、ご気分でも悪しくなられましたか」
はっ!そうだった!
重みのある声がして、エカテリーナは我に返る。あわてて背筋を伸ばし、隣へ微笑みかけた。
「見苦しいところをお見せしてしまいましたわ、お許しくださいまし、フォルリ卿。体調は問題ございませんの、どうぞご心配なく」
そう、馬車には兄の側近であり祖父の親友であった、森林農業長のフォルリが同乗している。
鉱山長のアーロンと一緒に行くのだと思っていたら、アレクセイがアーロンと何か話したあと、彼は旧鉱山で用事があると言って、先に出発して行った。出て行く時のアーロンはなにやら悄然としていたので、鉱山で何か問題でも起きたのかもしれない。
とはいえフォルリは山の神々に覚えめでたく、森林農業長の職責としても山岳神に敬意を表するべき立場なので、アレクセイが山岳神殿へ参拝する際もいつも供をしていたそうだ。
しっかりしろ、自分!立ち直れ!
ちょっとお兄様と離れただけで寂しいとか、そんなザマでお兄様のお仕事を代行なんてできると思うか。いつかお兄様が国政を担うようになる頃には、私が公爵領の領政を肩代わりできるようになって、お兄様の過労死フラグを折ってみせると誓っただろ!
今回の山岳神殿への代参は、その念願の、お兄様のお仕事をわずかながら引き受けられる機会。張り切って行かんでどうするんだ。
アラサーだろ、前世じゃ思いつきでフラッと一人旅だってしてただろ!
令嬢エカテリーナの人生も足し算したら、アラサーどころか――。
あ……さすがに数字が刺さるから足し算はやめよう。
とにかく、こんな大所帯で出向くのに、寂しいとか言ってる場合じゃないぞ。
なにしろ、エカテリーナとフォルリが乗る二台の馬車を護衛するのは、六騎の騎士。皇子ミハイルの外出に従っていた護衛騎士は、確か四騎だったというのに。
それに加えて、ユールノヴァの猟犬がリーダー犬レジナほか三頭、エカテリーナの馬車に付き従っている。
もちろん、メイドにして護衛、戦闘メイドのミナも、同行している。
……護衛、多すぎなんじゃなかろうか。アーロンさんは、普通のお供を一人連れただけだったような。
お兄様、心配性なんだから。シスコンだから仕方ないけど。
あと、私との同乗は、やっぱりアーロンさんにお願いすべきだったんじゃ。孫世代の小娘と長いこと一緒って、フォルリさんはしんどくないだろうか。
でもアーロンさんは独身らしいから、公爵令嬢が独身男性と長時間一緒にいるのは、差し障りがあったのかな。
「ご一緒いただいて恐縮ですわ、フォルリ卿」
エカテリーナが言うと、フォルリは褐色に近いほど日焼けした顔をほころばせた。
「お嬢様が領地について学びたいと仰せくださり、嬉しく思うばかりでございまする」
そう。フォルリは普段、馬車での旅は好まず乗馬か徒歩だそうだ。それが今回はエカテリーナと同乗しているのは、せっかく同道するなら、その間にユールノヴァ領について教えてほしいとエカテリーナが頼んだためだった。
ユールノヴァ領の森林と農業に精通するフォルリ。生き字引との時間を活用しない手はない。
「うら若い令嬢に農業の話など、無粋も極まる話題でございまするが」
「いえ!ユールノヴァの領民たちの暮らしにとって、一番大切なことなのですもの。ぜひ、ご教授くださいまし」
食い気味に食いついたエカテリーナは、ノートとガラスペンを取り出した。
ユールノヴァ領の主な産物から、あらためて教えてもらった。
まず、黒龍杉を代表とする材木。皇都の建物は石造りがほとんどだが、実は内部に多くの木材が使用されているそうだ。その建材として、ユールノヴァの黒龍杉は最も信頼されていると。
そういえば、前世の江戸時代に起きた有名な大火事とほぼ同時期に、ロンドンでも街のほとんどが被災するほどの大火事が起きたと聞いたことがある。石の建物がなんで燃えるんだろうと思ったら、実は木材も使われていたと。そのあたり、皇国も同じらしい。
思い起こせば、皇都の主な通りは街路がすごく広い。馬車が四台は余裕で通れる幅の車道(つまり四車線だね)と、広い歩道が通りの両側にある。あれはもしかすると、火事が起きた場合に、延焼を防止する狙いもあるのかもしれない。
農産物としては、まず畜産物。肉だけでなく、チーズやバターなどの乳製品も、皇都に商品として流通しているそうだ。
ユールノヴァでは、変わり種の羊や牛がよく生まれる。おそらく魔獣の血が入るためだろう。気性が荒くなって困る場合もあるが、全く病気をしなくなるとか、羊毛がほのかに光るとか牛乳に薬効が生まれるとか、いい変化が生じる場合もある。気が荒い個体も、群れに混ぜておくと魔獣に襲われた場合でも立ち向かって仲間を守るので、群れに一頭いると良いとされているそうだ。
もっとも、雌牛の群れにそういう個体を混ぜたら、群れ全体が魔獣だけでなく雄まで寄せ付けない鉄壁の守りを誇るようになり、牧場主が頭を抱えたことがあるとか。なんだかな。
それに果樹。林檎が一番多くて、桃、さまざまなベリー類など。前世の概念にない果物もあるみたい。
でも、稼ぎ頭は葡萄。ワインの醸造も盛ん。どこの醸造場ではどんな味わいのワインを作っているか、ずらずらっと語ってくれたフォルリさんは、酒豪に違いない。
……さっぱりわかりませんでした。前世、下戸だったんで。すみません。
変わり種で、近年になって力を入れているのが、甜菜。サトウダイコン。
実は現在、皇国で一番多く砂糖を生産しているのは、ユールノヴァ領なんだそうな。
皇国で使われている砂糖は、南方の国から輸入したものが一番多い。広く使われてはいるけれど、前世よりはずっと高価。
魔法学園の厨房で、前世と同じ感覚で使わせてもらっていたけど、それができたのは実は、お貴族ぞろいのセレブ環境だからこそだったのね。そういえば平民出身のフローラちゃんは、砂糖の使い方が慎重だった。レパートリーのアップルパイとか甘いもの系は、お母さんが亡くなった後に引き取ってくれた、男爵夫人のレシピだそうだし。
ユールセイン領などでは、サトウキビを原料とする砂糖が作られているそうだけれど、量は多くない。
そんな中、寒冷地で栽培できる甜菜が砂糖の原料にできると判明して、換金性の高い作物として栽培を奨励したのが、お祖父様とフォルリさんだったと。
うん、前世の日本でも、国産の砂糖を一番多く生産しているのは北海道だったはず。原料は同じく甜菜。砂糖の原料というと沖縄とかのサトウキビがイメージだったけど、やっぱり農地の広さの違いなのかな。
山の多いユールノヴァ領も農地面積は広くないけれど、開祖セルゲイ公の頃から四百年間進めてきた開墾でそれなりに確保できていて、その農地を領民の生活を支える作物に計画的に割り当てているわけですね。
しかし、都合上『甜菜』と訳したけどさあ。
なんですか、「ちょっと動く」って。
「引き抜こうとすると抵抗する」って、植物ですかそれ。マンドラゴラですか。
ユールノヴァの森には歩き回る植物タイプの魔獣がいて、砂糖の原料になるカブっぽいのはその亜種か、幼生だそうで……。
いや、正確にはなんらかの理由で幼生から成体になれなかった個体で、一定数は発生するものだそうだ。ユールノヴァの森に暮らす森の民たちは、昔からこの存在を知っていて、甘くて美味しい野草(でいいのか?)として好んで食べていた。それを若き日のフォルリさんがもらってお祖父様に紹介し、お祖父様が部下に研究させて栽培に成功、砂糖の原料にできることも判明したと。
ちなみに種を取る必要はなく、ダイコンの首にあたる部分(見た目はカブだけど)をだんっと切り落として、葉っぱが出てくるあたりをざくざく切り分けて植えてやれば、かなり細かく刻んでもそこからまた育つそうな……生命力強いな。でもジャガイモだって、剥いた皮を庭に捨てといたらそこから芽が出てジャガイモができた、なんていうエッセイ漫画を前世で読んだことがあるし、似たようなもん……かも?
全体には私の好物、プロジェクトなんちゃら系の話なんですが。ファンタジーというか異世界なプロジェクトなんちゃらですね。
でもフォルリさんのお話は、すごく勉強になったし面白かった。いつの間にか小さな町に入って、昼食を取る予定の宿で馬車が止まったけど、それまですっかり話に熱中してしまっていたくらい。
「お嬢様は本当に勉強熱心な、変わったご令嬢でいらっしゃいまする」
とフォルリさんは笑っていたけれど、お兄様と離れた私が寂しいとか心細いとか思っているのを見通して、特に面白おかしい話をしてくれたんじゃないかな。
親友の孫として気遣ってくれて、ありがとうございます。




