新たなる朝
「エカテリーナ……どうしても行ってしまうのか」
妹の手を取ったアレクセイは、悲しげに言った。
「お兄様、わたくしは」
言いかけたものの、悲嘆にくれる兄の表情を見たエカテリーナは、唇を震わせる。ぎゅっと手を握り返した。
すみませんどこにも行きませんわたくしはずーっとお兄様のお側に――。
「閣下、お嬢様」
エカテリーナが口走りかけた言葉をガッと押しとどめるように声をかけたのは、鉱山長のアーロン・カイルだ。
「ほんの数日です。お嬢様が閣下の名代として山岳神殿へおもむかれることを、閣下もお認めになったはず」
アレクセイの側近たちの中では最年少であるため、いつもは控えめなアーロンだが、今回は押せ押せだ。
「旧鉱山でお待ちの博士……アイザック大叔父様も、お嬢様にお会いできればさぞお喜びでしょう」
だからアーロンさん、あなたは大叔父様ラブすぎですって。といっても、ラブが過ぎるってことに関して、お兄様も私も人のこと言えないんだけど。
なにしろこの愁嘆場やるの、五回目ですからね。
愁嘆場というか茶番というかに至った経緯は、祝宴と粛清の夜が明けた、新たな朝までさかのぼる。
あの日、目覚めたエカテリーナは、昨夜のいろいろあった祝宴の疲れを感じつつも、爽やかな気分で身を起こした。
兄と共に朝食をとろうと食堂へ向かったが、アレクセイは珍しく不在。代わりのように現れたライーサから、ノヴァダインたちの捕縛と『行方不明』について聞くことになった。
そして、アンナの解雇も。
詳しい事情を教えられたわけではなかったが、このタイミングだ。関係がないわけがない。
「そう……教えてくれてありがとう、ライーサ。あなたの負担が重くなることだけ、心配していてよ」
「恐れ入ります、お嬢様。アンナは熟練のメイド頭でしたから、抜けた穴は確かに大きいですが、皆で努力してまいります」
そう言って、ライーサは悠然と微笑んだ。
そこへ、二人の若いメイドが、ワゴンを押してやってくる。彼女たちが昨日祝宴の支度を手伝ってくれた二人であることに気付いて、エカテリーナは微笑みかけた。
「昨日はありがとう。おかげでお客様からご好評をいただきましたのよ」
一人はしつけの良いメイドらしく、うやうやしく頭を下げる。しかしもう一人はぱっと笑顔になって、勢い込んで言った。
「お嬢様、とってもおきれいでした!それに閣下のお言葉が素敵で、うっとりしちゃいました!あのおっかない方も、妹君にはお優しいんですね」
「これ」
ライーサが睨むと、笑顔はたちまちあわあわとしたうろたえ顔に変わる。今にも泣きそうだ。
エカテリーナは苦笑した。
「褒めてくれて嬉しくてよ。でも、今のはユールノヴァ家のメイドとして、ふさわしいふるまいではなかったわね。お兄様は素晴らしいご当主であり領主でいらっしゃるの。厳しく見えるとすれば、皆のために領内の統治に力を尽くしていらっしゃるからよ」
「はい……」
メイドはうなだれたが、あまり解っていなさそうだ。
まあ、仕方ないよね。ていうか今はむしろ、おっかないなんて言われてるくらいでいいのかも。
『君主は愛され恐れられるのが望ましいが、両方が無理なら、恐れられるほうがずっといい』
前世の名著、マキァヴェッリ『君主論』の有名な一節。十八歳のお兄様は、領主として領内の実力者たちから、愛されるにも恐れられるにも若すぎる。けれど昨夜、ノヴァダインの派閥を一掃したことで、祝宴に居合わせた領内の実力者たちは、お兄様を恐れるようになっただろう。
あの若さで、爵位継承からまだ一年も経っていないお兄様が、恐れられることに成功したのは、凄いことだ。
そしてマキァヴェッリは、確かこうも書いていた。人間は、恐れている人間より、愛情をかけてくれる人間のほうを、容赦なく傷付けるものだと。優しくしてやった恩義など、利害がからめばすぐ断ち切ってしまうと。
お兄様は、領民たちから愛されている。それはお兄様が、彼らの暮らしを守ってきたからだ。ただの恩義ではなく、利害も押さえている。
けれど領内の実力者たちの中には、公爵の職務を放り出していた親父の頃のほうが、都合が良かった者もいるだろう。自分の利を守るため、お兄様に楯突こうとしていた者もいたかもしれない。けれどノヴァダインを容赦なく叩き潰した姿を見て、お兄様に逆らうべきではないと思い直したことだろう。
だから私は、お兄様は本当は優しい、なんて言わないことにする。お兄様があろうとしている在り方を、そのままリスペクトしたい。
だってお兄様そのままで一番素敵だから!
「お嬢様って、やっぱりすごいんですね。あたしよりお若いのに、ずっと年上の人みたいです」
懲りないメイドが言った言葉は、エカテリーナにクリーンヒットした。すまん!中身アラサーですまーん!
メイドの隣には、いつの間にかミナが立っていて、無表情に彼女を見下ろしている。
さらに、ふっと笑ったライーサが足早にそのメイドに歩み寄ると、襟首をぐいっと掴んだ。
「無作法なことで申し訳ございません、お嬢様。女性使用人を統括する家政婦として、お詫びいたします」
「気にしていなくてよ」
ほほほ、とエカテリーナは笑って見せたが、たぶん今日からこの明るいメイドの職場生活は、スパルタ強化合宿的なものになるのだろう。
頑張れ。
「お兄様は、朝食を召し上がったかしら。お身体が心配なの」
「お召し上がりになりました。初めは不要とおっしゃいましたが、食事をとらないとお嬢様がご心配なさるから、やはり用意するようにと」
さすがシスコンお兄様。健康を気にかけてくれて、良かった。
「そうなのね、嬉しいわ。後でご挨拶にうかがいたいの」
「そのようにお伝えいたします」
メイドを引っ立てて去っていくライーサを見送って、ミナの給仕で朝食をとったエカテリーナは、ライーサが戻るのを待つ間、食堂の窓から庭園を見渡した。
どこか空気がはりつめた気がする。アレクセイがまとう雰囲気に、城の空気が近付いたような。
ユールノヴァ城は、いやユールノヴァ領は、完全に新たなあるじに掌握されたのだと、そう思った。
ライーサが戻って来た時、大きな荷物を抱えた下男をともなっていて、お嬢様にお届け物ですと言った。
送り主の名前を聞いたエカテリーナは、すぐに荷ほどきするよう頼み、しっかりとした梱包が解かれて現れた中身に大喜びした。




