第一話:目立たない幸福と、漆黒の重圧
王都ヴィオラの大通りから一本入った、静かな侯爵邸の図書館。
リリアーナ・ヴィオレットは、柔らかな金茶の髪をきっちり三つ編みにまとめ、分厚い経済書を広げていた。今日のリリアーナの目標は、午後のティータイムまでにこの本を読み終え、夜会まで誰とも顔を合わせずに済ますことだ。
(完璧。このまま誰にも気付かれず、静かに一生を終えることができれば……)
彼女の望みは、ただそれだけ。誰にも注目されない「平凡」な生涯。しかし、そのささやかな願いは、幼い頃に決められた婚約者によって、いつも脆くも打ち砕かれる。
「この婚約は、私たち侯爵家が、王国の『影』の処理に長けた家柄だからこそ成立した。孤立していたノアヴァルト家と、彼の常識外れの武力を、王族の警戒から守るという、合理的な『契約』だったはずなのに」
リリアーナは、内心で吐き出す。それは単なる政略ではない。彼の特殊な事情を知り、「口を閉ざす」という侯爵家の姿勢が、レイヴンの庇護を引き寄せたのだ。
「リリアーナ」
背後から声がかけられた瞬間、侯爵邸の重厚な図書館の空気までもが、一瞬で凍りついたように感じられた。
婚約者――レイヴン・ノアヴァルト。漆黒の髪、銀灰色の瞳に漆黒の制服を纏った異形な美貌の騎士。彼の存在はあまりにも強烈で、彼女の「平凡」を破壊する、最も強力な非日常だった。
「会議は終わった」とだけ答えたレイヴンは、リリアーナが座るソファの肘掛けに片膝をついた。その冷たい銀灰色の瞳が、彼女をまっすぐに捉える。
「昼食を共にする。他の男と話すな。視線を合わせるな。――今夜の夜会でも、私から離れるな」
リリアーナは内心でため息をついた。その時、レイヴンは彼女の髪に指を伸ばすと、三つ編みの根元を優しく、しかし有無を言わせぬ力で一房掬い上げた。
彼はそのアメジスト色の瞳の輝きを確かめるように、深く見つめる。
「……君は、私のものだ。その光は、誰にも渡さない」
レイヴンの独占の言葉には、いつも何かの決意のような、異様な重さが伴っていた。この過剰な重さが、彼女の望む未来を壊す最大の脅威だとリリアーナは感じながらも、彼の傍にいる限り、彼女を脅かす者など誰もいないという矛盾した安堵も覚えていた。
だが、この確固たる「非日常」の守りが、たった一人の男の登場によって、完全に破壊されようとしていた。




