味噌汁1
ネビー視点
五月
俺は今日、朝からソワソワしている。集中! と気合いを入れてはみるものの落ち着かない。
五月になり南三区六番隊へ出向という名前の出戻り。下っ端番隊幹部になったけど地区本部兵官としての業務も少しある。
他の番隊幹部も半分は地区本部所属で出向扱い。幹部上層部はそうでないとなれない。
日勤休憩準夜勤休憩夜勤休憩を繰り返す過密勤務で休みなし。減給。常に残業あり。辞職は死罪。地区本部もだけど六番隊も頭のイカれた人間が考えたような勤務状況になっていた。
相談班、福祉班や教育班などあれこれ業務停止。全職員調査と捜査関係の業務のみになり特殊編成班が組まれている。
幹部は業務調整や監視や報告取りまとめに指揮などこちらも特殊業務や編成に変更。
五月中に検挙率を上げて犯罪減少率を大幅に下げつつ区民から他の業務が滞っていることに対する不満を噴出させて六月から一年くらいかけて徐々に元の勤務や業務へ戻れるようにする目標が立てられている。
皇帝陛下暗殺未遂関係の捜査はなにか進展があるとしても、内乱首謀者や下部組織なんて延々に見つからない。
なにせ各地の屯所の牢獄から失踪した者達に繋がりはない。
俺はそれを知っているけどこの国には他にその事実を把握している者はいなそう。いてもサングリアルやヴィトニルが再び俺の前に現れないと知ることが出来ない。
六日以上無帰宅者は申請したら家族か婚約者を二名まで屯所の食堂か道場へ小一時間招ける。そういう制度が本日から実施開始。
該当者は帰宅禁止令状態の幹部が多い。捜査仕事ばかりになった他の職員と関連事務官や簡裁官などは自宅近隣小屯所勤務に特別編成されたので帰宅出来ている。そうなるように幹部が動いている。
現在職員と許可証のある出入り業者以外は基本的に屯所に立ち入り禁止だけどそこに今回の特例許可者が追加。
これまでは家族が荷物を道場へ置いたり回収することのみ可能だった。自由に出入り出来た訳ではなくて事務官の見張りの元に行われていた。
今朝、その時間帯に屯所に自分がいないのもあって毎朝来てくれる母のことは無視した。
夕方から夜にかけて、俺の関係者の二回目の来訪はウィオラが来てくれているので新制度をその時に使いたいからだ。
息子孝行な母親に薄情だけど連絡帳でやり取りして感謝を伝えているからとりあえず今はそれで良し。俺は自分に正直に生きることにしている。
家族の誰かとウィオラを天秤に乗っけて、誰に会いたいかと問いかけると今はウィオラ側にガタンと傾く。
なのでこの話が出てから俺は組んでいる先輩と仕事の調整をして夕方からの数時間は屯所で書類仕事になるようにしていた。
六番隊へ戻ってから九時から八時間区切りの過密勤務だけど残業のせいでその勤務はとっくに崩れていて毎日二十四時間勤務状態。
二十四時間勤務と言っても休憩、睡眠、食事時間は協力し合ってなんとか確保。
下っ端幹部なのもあるし体力のあるから俺は人が休みそうな時間帯に外回りが多くて、書類仕事は逆の時間。
大体十九時から二十一時までのどこかで荷物を届けてくれるウィオラと会えた試しがない。
一瞬会える日もあると思っていたのに、その一瞬会えたのは朝担当の母だけというすれ違い。母は数回会えていてほんの少し喋れたのにウィオラとは屯所で一回も会えていない。
しかし、今日は会える可能性大でしかもウィオラが大丈夫なら小一時間一緒に過ごせる。だから朝からソワソワ、ウキウキして落ち着かない。
三週間以上家に帰れないのはいつ以来だろう。臨時招集警兵になる訓練を開始した時だからもう数年前だ。
その頃はもう留守中の下の妹達のことは心配だけど仕事を減らした母が子育てに集中しだして家にいることが多いし、父も義兄ジンも親戚の大人もいるから安心だから長期間出張を受け入れた。
今はもう元服していない妹は二人だけ。一人は夏には元服なので実質一人。母はその頃よりもさらに家にいる家守り。家族親戚は皆息災。だから何にも心配ない。
婚約者になってくれたウィオラにも彼女の祖父がいるから大丈夫。
つまり俺が帰れないことで困る人は特にいなくて、俺がせめて家の味が良いとか洗濯物を家でしてくれると仕上がりがなぜか違うから頼みます、という我儘を言わなければ迷惑もかけない。
仲良し大家族なので寂しいとか、激務なので心配とか、そういう気持ちは抱いてくれているだろう。
婚約したばかりのウィオラも心配してくれているのは理解している。しかし彼女も俺がいないと困る、なんてことはない。
今の俺は一方的に家族やウィオラやラルスの世話になっている。それで放置しているようなもの。
せっかく隣同士で婚約者になれたのに、慣れない新生活や新しい仕事で大変な時期に何もしてあげられないどころか負担をかけている。
自己判断で無理のない範囲と言ってあるし、家族にもそうなるように気にかけて欲しいと頼んである。
荷物の運搬係はウィオラでなくて良いのに毎日してくれているのは俺の予想と違うし心配だし申し訳ない。
でも毎日来てくれるなら一瞬会えるかも、と思ってしまってしなくて良いと言えない。言わない。俺はそういうわりと自己中心的な男。
無理のない範囲でお願いしますと告げてあるので、本人が希望していて大丈夫だからしてくれるのだと楽観視して現実逃避。
屯所を早朝に出発して夕方帰ってきて管理棟の事務室の自分の机の引き出しからウィオラ用と家族用の連絡帳二冊を持って中身を再確認してため息。
(ロカは先生が先生に虐められたって書いていた。なのにウィオラさんは皆さん親切で慣れてきて楽しいです。嘘つきだな)
虐められたって何をされたんだか。自分は俺に心配だから、隠されて後で知ると悲しいから怖い事件や愚痴などを言って欲しいと頼んだのに俺には隠し事。
(今日から特別許可制度開始だから聞いたら教えてくれるか? 直接言おうと思っているかもしれない。俺だって雑談を全然書けていない)
疲れているから連絡帳に一言しか書けない時が多い。お隣さんだから毎日お見合いみたいなもの、と考えていたのに蓋を開けたらこれ。
(まあ、これはこれでお互いのことが色々分かるか。この勤務を乗り越えた後にいつかまたこういう事があるかもしれないから今回を乗り越えられないと……)
歩み寄らないと破談になる。俺は歩み寄るから去らないで欲しい。
現状、俺が出来る歩み寄りは連絡帳と家族にウィオラの世話を頼むことと仕事の隙を探して会う努力をすることくらい。
たけのこ堀りの日になんとか都合をつけて仕事の通り道にして会って以来、似たような方法は上手くいかない。
しかし今日から施行される制度で会える確率が飛躍的に上がった。
仮眠以外に一日小一時間を細切れではなくてしっかり休めということでもあるから少しゆっくり出来る。突発的なことや緊急会議などに振り回されそうだけど。
この歩み寄りは俺の精一杯だけどウィオラからしたら歩み寄りでもなんでもない。
なにせ彼女は新生活と新しい仕事で疲れている中、毎日往復二時間強程度の時間を使って屯所へ通ってくれていて食事も用意してくれている。料理は俺の家族と一緒にだけどそれでも大変だ。
(ラルスさんも付き合わせているし風呂屋のついでといっても屯所へ来るのに遠い風呂屋にしてくれていて、ここにさらに小一時間拘束は無しだよな……)
道場へ行って荷物を回収して連絡帳を置こうと思っていたら事務官が部屋に来て「婚約者さんが来ました」と告げられた。
「おお、ルーベル。休んでこい。その為に仕事を調整したんだから。俺は朝だから明日が楽しみ。小屯所編成班は家に帰れるようにしてあるのにまた文句が増えて読むだけで疲れるなこれ」
今週から組んでいる先輩シノは書類を摘んでひらひらさせた。
「幹部は地位も名誉も金もあるから仕方ないですがもっと帰りたいって俺らこそ小一時間くらい帰りたいのに。俺、婚約して数日でこの勤務です。袖にされたくないです」
「会議で婚約者も、婚約者もって騒いだからなお前」
「はい。なので元気をもらってきます。もっと早く施行されると思っていたのにもう月末です」
「本当にな。人がいる屯所内を散歩、担当事務官に声を掛けて近くの店、食堂、道場が範囲だからな」
「はい。忘れっぽいけど覚えています」
若干忘れていた。走って自宅と屯所を往復は緊急呼び出しに応じられないから不可能なのは覚えている。
「道場には救護室という個室になりそうなところがあるぞ」
「えっ」
「言い訳出来ないから食事は無理でも個室扱いくらい出来そう。使える手か他にも思いついている人がいて使用しているか確認してくれ。この手を使いたいから取り合いにならないように広めるなよ」
「はい。確認します」
行ってこい、と背中を叩かれて部屋を出たら足取りが軽くなった。
(今日突然は無理とか仕事で疲れて帰りたいから今度かもしれないけど……)
少なくとも久しぶりに顔を見られて声を聞けるのは確実。それだけでも俺は元気が出た。朝からそうだけど更にそうだ。重かった足が軽い軽い。
管理棟を出て、門をくぐって別屯所から本屯所へ移動するとウィオラは門番担当者と楽しそうにお喋り中。
一つ結びがゆらゆら揺れている。風に細い少し茶色っぽい髪が靡いているから触れたくなる。笑顔がかわゆいからなおさら。
うんと会いたかったのに他の男とニコニコ笑い合っているからモヤモヤする。俺の心はかなり狭いのは前から自覚があるけど再確認。
(ウィオラさん荷物が多いな。なんでだ? これが毎日なら更に悪いな。何をそんなに楽しそうに話して……)
「——……ル先輩に袖にされるっていうか袖にされたってことです。慰め会をしようにも激務で無理です。あはは」
俺と門番の知り合いの女の話ってこと。接点の乏しい同僚にも女嫌いという噂が伝わっているのは前から知っている。
俺が嫌いなのは女じゃなくて一部の俺を釣ろうとする強欲そうな女や俺に関心がなくても嫌いな系統の女だけ。ちょこちょこ訂正しているのに噂が消えないから放置している。
「その方の恋敵なのでコソコソします。女性はあまり怖くないけど男性は怖いです」
俺を気にかけている門番の知り合いは男かよ!
たまにいるけど慣れない。学生時にしょうもない嫌がらせをされかけて逃げたけど、あれがあってから男同士というか自分と男という組み合わせは聞くのも苦手。
子どもが出来たら自分が困るから女に手を出さなかったけど、代わりに男で発散とならなかったのはそのせい。
「大丈夫です。気のええ……。ルーベル先輩、お疲れ様です! 婚約者の区立女学校の先生が来ています!」
区立女学校の先生という情報を入手したのかよ。名前を知らないこの後輩も、激務の疲弊がウィオラとの会話で癒されたかもしれないから雑談するなとは言えない。
「門番お疲れ様です。ウィオラさん、お久しぶりです。毎日ありがとうございます」
ウィオラは数歩離れていた門番から俺の前に移動してきた。門番と異なり俺との距離は近いので嬉しくなる。
距離を保って世間話する相手と俺は違うと証明された。
(婚約者になったから当然だけど婚約者の肩書きでこうなれる訳ではない)
「お仕事お疲れ様ですネビーさん」
困り顔で顔を覗き込まれた。今日は疲れているから帰ると言うかもしれない。
「あれ、ラルスさんはどこですか?」
過保護で心配性な俺が言わなくても警戒心の強いウィオラは帰宅時間が夜になるのに一人で来たりしないはず。
俺が伝える前に祖父や俺の家族に付き添ってもらうので安心して下さいと連絡帳に書いてあった。
「今日はもしかしたら会えるかもしれないと知って来たので、二人で会いたいだろうと言ってくれて近くのお店で飲んでいます」
「会えるかもしれない? 今日は積み上がった書類を片付けるって誰かに聞きました?」
今日も道場へ荷物を置きにきてくれるはずのウィオラは担当事務官に声を掛けるから、今日から開始の制度についての伝言を頼んだけどそれより前に誰かに何かを聞いた?
(母ちゃんが今朝掲示板を……。掲示は昼からだ。しかも俺らの掲示板なんて母ちゃんは見ない。場所も場所だし)
幹部の先輩達の誰かが若造新米下っ端幹部の俺を気にかけてくれたのだろうか。
先週、一緒に組んでいた先輩マノンが家族とウィオラ達がたけのこ掘りをする時間帯に竹林で少し息抜きさせてくれたように。
逆も付き合ってマノンの家に少し寄ったけど俺の場合はこれが中々難しい。俺の長屋は街中にないから通り道にしにくいというか出来ていない。
「はい。退勤中にお仕事中のヤアドさんにお会いしました。ネビーさんは今夜は屯所で書類仕事だと教えてくださいました」
「おー。ヤアドか。確かに今日会いました」
怪我人を病院へ運んだ帰りという幼馴染に昼過ぎに街中で会って心配された。
「いつも通り夕食と朝食と着替えをお持ちしました」
困り笑いから単なる笑顔になってかわゆいから少し眺める。この感じだと断られなさそうだけど誘い文句が喉に引っかかる。緊張する。
「出入りを確認する事務官さんにすぐに帰らなくても良い、少し居ても良いという説明を受けました。お母様とネビーさんが食堂で話したくらいは居られるかもと思ってきましたがそれ以上可能みたいですね」
すぐに帰らなくて良い、ということは帰りたくないである。多分そうなので、こう言っても大丈夫そうと感じてスルッと言葉が出てきた。
「その関係者札は事務官が説明した通り許可証です。今日の俺はこの時間帯に休めます。食事中、側に居てくれたら嬉しいです」
「もしかしたらと思って少し特別な夕食を用意してきて良かったです。ありがとうございます」
嬉しそうに見える笑顔は幸せだけどお礼の台詞に困惑。
「特別な夕食も気になりますけどありがとうございますってなんですか? お礼を言うのは俺です」
「会議で婚約者もと頼んでくださったり、嬉しいと言ってくれたり色々です」
頬を少し染めたウィオラは微笑んで俯いた。
「それは俺が会いたかったからとか本心で……」
別屯所の門番担当者と目が合って興味津々そうなので仕事中なのもあるから照れて喋れなくなった。
「お弁当にしてきましたが家風に出来るようにもしてきました。あとお味噌汁です。ヤアドさんからネビーさんは熱いお味噌汁を飲みたいと聞いたので良かったらと思って作れるようにしてきました」
俺はこの台詞に耳を疑った。屯所で味噌汁を作るってなんだ?
「えっ。作れるようにってなんですか? めちゃくちゃ嬉しいですけど大丈夫ですか? 疲れないですか?」
「はい。簡単です。会えなかったら持ち帰ってお弁当を置いていこうと思っていました。会えたら家風を用意して置いていってそのままの形で返却してもらうつもりでした。私はこの通り元気です」
見た目は元気そうに見えるけど実際はどうなのだろう。ロカが密告してきた件が気になる。
帰らないでいてくれそうなので俺は荷物を預かってウィオラを食堂へ誘って案内した。




