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かめ屋の佳夕の間は中庭を眺められる部屋の1つだった。頼んだ通り2部屋ある。調度品はどれも高そうでどう見てもそこそこ高そうなお部屋。
「これは俺の人生で1番贅沢な宿泊です」
私はそうでもないので黙っておくことにした。
でも素敵。池のある美しい庭園を2人で眺められる露台や椅子があり御簾や織り布や紐で飾られている。
問題は御帳台があること。本来ならあそこで2人分の布団を並べて寝るのだろう。それも素敵な気がするが一晩中眠れない事態になる。
女将がしれっと「こちらに1名分の寝具を準備してあります。それから夕食後に隣の部屋に1組布団を敷きに参ります。不在の際でも失礼致しますので」と告げてくれた。
「最上階の他の部屋はもう全て埋まっていたのでそれならこちらかと。このままお庭に出られます。この庭園は一部のお客様のみの景色です。特別大浴場もそうで貸切風呂もあります」
女将に招かれて隣の部屋の机のところへ着席。館内案内本を見せてくれた。この部屋の近くに特別大浴場があって貸切風呂は3種類ある。
「夕食を20時でご用意していて1時間程時間がございます。滝見風呂なら空いています。どちらかがご利用でも良いですしせっかくなのでお着物か浴衣のままお二人で足湯などどうですか? 使えるものをご用意致します」
女将はネビー、私の順に微笑みかけてくれて彼は私を見据えた。ネビーが無表情気味でなにも言わないのは私の返事待ちや緊張?
ネビーにぎこちなく笑いかけられたのでやはり緊張と私の返事待ちみたい。
「滝を見ながらのんびり足湯とは楽しそうです。お願いしたいです」
「かしこまりました」
足湯なら恥ずかしくない気がする。2人で滝を見ながら足湯とは良い提案をしてくれた。さすがこのような部屋のある旅館の女将だ。
「事前にご説明した通りこの部屋のお客様には浴衣などをご用意してあります。あちらに入っています」
他にも色々説明をしてくれて、そこに従業員が来て桜茶とお菓子を出してくれた。それで女将と従業員は一緒に去った。
「女将さん自ら案内だからなにか頼まれるかと思ったらなにもなかったです」
「私もそう思いました」
「明後日からウィオラさんにほとんど会えなそうだし疲れそうなんで今日と明日があって良かったです。うわあ、疲れた」
桜茶を少し飲むとネビーは両腕を上に伸ばした後に横に倒れた。これでは姿が見えない。
「お疲れ様でした。いつもより疲れました?」
「早歩きか走って馬でも駆けて早く地区本部へ来いと言われていて朝から疲れるなと思っていたら行交道で朝っぱらから行商強盗。ぶっとばしに参加して次は1区で家屋倒壊対応。大屯所に着いたら遅いと怒られてそこから殴り込みに参加と普段よりも疲れました」
「どれほどか想像つきませんがとても疲れそうです」
「だけどお弁当で元気になりました。助かりました」
そんなに嬉しかったとは私も嬉しくなる。起きる気配がない。足湯は?
「足湯は行かない方が楽ですか? せっかくなのでネビーさんが滝見風呂でゆっくりされますか? 疲れに対してなにかして欲しいことはありますか? 御帳台で休みますか?」
沢山質問してしまった。黙っている方が楽かな。
「あそこはウィオラさんの布団で。足湯は絶対行きます。一緒に行く。ウィオラさんがお茶とお菓子を堪能したら」
「今お菓子を食べると夕食が入らなくなるので明日のおやつにしようと思っています」
「俺もそうします」
「それなら2人分包んでおきますね」
「ありがとうございます」
このまま横になっていたいみたいなので桜茶を堪能。少し間があってからネビーが喋った。
「近くで息を吸っていてくれれば癒されるからなにもしなくて良いです。今みたいに喋るとかなにかされても嬉しいですけど」
相当疲れているみたい。居ればに癒されるとは嬉しいし喋って良いなら喋るけどなにかされても嬉しいの「なにか」を知りたい。
なにをして欲しいですか? という問いかけに返事がなかったということは私に考えて欲しいという事なのかな。
「疲れもあるけど少々緊張です。頼んだらもうかわゆい髪型にしてくれていたから余計に。あと前髪が変わって少し髪型が違くなったのもかわゆい。俺としては足湯の前にまだ夕焼け空の庭を眺めたいです。もっとだらけたいから着替えます」
「はい。私も足湯で着物を濡らすのは嫌なので着替えます。あの、眠れていますか?」
「まだあまり」
彼はしれっとしているなと思ってもそうではない事のは何度か聞いているのでそうか。
私はこうして意外に動けるし眠れている。私は照れ屋の癖にやはり神経が図太いな。
説明された通り浴衣と一緒に色々入っていたので2人分用意してネビーの近くに移動して突っ伏している彼の頭の近くに置いて隣の部屋で着替えると声を掛けた。
羽織までしっかり着て旅館が用意してくれた足袋も履いて襖越しにネビーを呼んだら「はい」という言葉だけが返ってきた。そろそろと襖を開けると支度済み。
彼は黙って部屋に入ってきて私になにも言わずに横を通り過ぎて庭の方へ向かっていった。それでそのまま外履き用の下駄を履いて外へ去った。
『火曜も水曜もなるべく何もしないのでそちらから色々お願いします』
これはそういうことかな。緊張しているのも関係ある?
ゆっくり追いかけて庭に出て隣に並んだ。手を繋ぐぞ、と思ったけど他のお客がいる上にネビーは腕を組んでいる。
「夏の話をしたから次は秋。川に紅葉を2人で浮かべたら紅葉草子の誓いと同じなんて言いますけど悲恋物にあやかってどうするんですかね? どう思いますか?」
青々とした紅葉の葉を見上げるとネビーは首を傾げた。そうか。まだ秋や冬の話をしていない。
「あれはあの2人にあやかるのではなくてあの場面と同じような気持ちですという意味かと。そう言われるとしたくなくなりました」
相思相愛の相手と川に紅葉を浮かべるのはうんとお慕いしていて永遠に共にありたいですという意味なので憧れがあったけどネビーの意見を聞いたら嫌だな。
「秋はどこかの川に銀杏の葉を浮かべてみますか。自分達は結末が異なるから銀杏草子だぞ的な。せっかくだから大河だな」
紅葉草子の最後は決して離れないと願って2人で入水自殺。身分差があり過ぎて一緒になれないという現実的な終わり方。
まあ、そもそも現実だとその前に諦める。私はジエムから逃げたいと家出準備をしていたけど婚約破棄になっていなかったら家出していたか微妙なところ。結末が異なるからとは嬉しい言葉。
「あの辺りは紅葉並木です。銀杏の葉を集めてから行きましょう」
「ええ。冬はなにをしましょうか」
池の近くまで来るとネビーは腰を下ろして池に指を入れてパシャパシャと動かした。
彩り鯉が逃げていく。私は提案してもらってばかりだな。隣にしゃがんでぴたりと寄り添ってみた。
「東3区から北東農村区にある山には氷の洞窟があるそうです。観光地でもあります。見に行けたら行きたいです」
「おおおおお。氷の洞窟。なんだそれ。楽しそう」
無邪気に笑ってくれたのでうんと嬉しくなる。些細なことなのにこんなに気持ちが動くのは不思議。氷の洞窟は私もまだ見たことのない世界なので気になっている。
「寒いので防寒具をしっかり用意しましょう」
「あれだな。それもなにかお揃いだ。春は今で夏、秋、冬とこれで楽しみが出来ましたね」
「いえ。西瓜を好んでいるので夏に川で冷やして食べたいです」
「おお。増えた。食べられますよ。南西農村区の西瓜泥棒対策強化に行ってお土産をもらうのがこの3年間の夏の恒例です」
「役得ですね」
「舐瓜もです。舐瓜やいちびこは好きですか?」
「ええ。そちらもお土産ですか?」
「そうです。冬に東地区から少し帰ってきていちびこ泥棒対策強化に参加しないと。ガイさんが美味しい果物欲しさに俺を南西農村区へ派遣してきたんで俺も我が家も得。あと栗も。警兵になろうと思う時は結構あります。でも俺の息子は地区本部幹部だ! と言いたそうだから特に異動希望は出さず」
ガイの名誉欲に付き合っている自覚はあるんだな。彼は上にどんどん登っていくよりも地域に根ざしている方が似合う気がする。
「まあ地元に連れ戻されたので副隊長補佐官の副官から副隊長補佐官。そこから補佐官なしの番隊副長や番隊長。補佐官をつけさせてもらえないのは嫌だな。それか全体教育係りみたいな役職があるのでそっち系。ガイさんはそれはそれで自慢。俺は人の役に立つならなんでもよかです。今日はびわと酒。俺といると食いっぱぐれませんよ」
「おじい様に厳しく指導してもらってこの腕で稼ぐので家族を飢え死にはさせません。なのでお怪我にだけは気をつけて下さい」
「うん。初めてこの仕事でいいのかと」
うんって初めて聞く返事。このような憂い顔も初めてだ。
膝の上に顎を乗せるとネビーはまた池の水面を指でパシャパシャした。近寄ってきていた彩り鯉がまた逃げていく。
「得が多いし向いてそうで応援されてきたからなにも考えていなかったし大狼と対峙して死ぬと思った後にもこんなこと思わなかったのに。なんかそういうかなり有名な龍歌がありましたよね? 惜しくなったみたいな」
「誰がため惜しからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな。君がためですけどネビーさんの場合は誰がためかと」
あなたの為になら捨てても惜しくないと思っていた命だけど逢瀬を遂げた今はあなたと逢うためにできるだけ長く生きたいと思います。多分この古典龍歌のことだろう。
「惜しからざりし命……。惜しくなかった命。そんな気はなかったけどそうかも。世界の裏側みたいな話をされたのもあって余計に。当たり前に生きていた生活はあまりにも尊くて貴重なんだなと。煌国王都外の戦況などを知っているのに今さら」
「私も危うい世界の中で安全で平和な生活をしているどころか2人で笑って手を繋いでいられるのはとてもとても幸せな事なのだろうなと思いました。とても稀有な人生や時間なのではないかと」
「自分だけそれで良いのかと少し考えてしまって。でも利用する時にまた来るだから……」
ゆっくり息を吐くとネビーは近寄ってきた彩り鯉を軽く撫でた。驚いた彩り鯉が逃げていく。近寄ってくるのは餌をくれると思ってなのかな。
「私は調べ物をしたら何か役に立つかなと。大人しく身を守るのも仕事と言われました」
「調べ物のことは行くか行かないかの2択で考えていたので目から鱗でした。そういう道もあるんだなと。あと旅医者が言うていたんです。その土地に根ざした者がいないと救えないものもあるって」
「ネビーさんの仕事そのものです。大勢の方が助けられていて私達も助かりました。これからも増えます」
「ええ。なのにこの仕事でよかのか考えた自分がなんだか嫌で。でも辞めないな。それで旅に出るとかついていこうという気はないです。今はそうです。役に立たないみたいですし。役に立つ場所にいた方がよかです」
彼はまた寄ってきた彩り鯉を撫でて逃げられた。これは愚痴で甘えなのかな。
「私は薄情者だと言われたのにお店に戻るとか実家で何かされるのもダメだと怒られました。どちらも本心でしょう。ネビーさんは仕事外でついつい働いて怒られるのに辞めたらきっと怒られます」
「ああ。そうか。結局自分の気持ちと折り合いをつけて選ぶしかないですね。なにをしても誰かに非難されます。人は1箇所でしか生きられません」
「非難されても進めるかどうかは自分の意思や覚悟が必要です。それに欲すれば喪失します。なにを選ぶかはその人の自由です」
「大いに悩めとは耳が痛いけどやっぱり気楽。そんなことない。今で十分です。そういう返事ではなさそうだと思ったけどやはりそうでした。他の道も教えてくれたのも同じような気持ちがあるのも嬉しいです。見て見ぬフリが苦手なのが似てそうなのも」
悩み顔は終わりで微笑んでくれた。
「寄り添えるか分かりませんが今後もこのような話をしたいです。いきなり決断されても話についていけません。私もそうします」
「意味もなくグチグチ言うのは好みませんが今くらい悩んだら気が重いので甘えます。1人だと出てこない考えも与えてもらえたのでそういう相手でよかです。この事は一旦答えが出たしあとの問題は自制心だな」
「自制心ですか?」
「明日なにかあるかもと思うと理性が飛びそう。でも嫌だと泣かれたり突き飛ばされたらそれこそ俺が泣きたくなります。また板挟み。仕事に行きたくない病まで発症したし疲れる」
疲れると言いながらネビーは笑いながらまた池をパシャパシャした。憂いは終わりなのか嘘の笑顔なのかどちらだろう。
泣かないかも突き飛ばさないかも分からないな。特に突き飛ばしの方。恥ずかしくて無理です! と咄嗟に言って体を動かしたら傷つけるけど我慢したら我慢を見抜かれてお説教されそう。
「嫌だではなくて単に照れだと思って下さい。常に。嫌ならそもそも近寄りません。お仕事に行きたくないのですか?」
突き飛ばし問題には触れないことにする。気遣い屋の彼は私の様子を見てくれるから私は逆に恥ずかしさに負けないようにする。
あとは動作に気をつけたり嫌だからではない常に伝える。茶摘み農家に泊まった夜みたいにしっかりと話す。誤解は溝を作り続ける。埋める努力をしないと溝は深く広くなってしまう。
「離れがたくて少し。小さくなってもらって羽織の内ポケット……はバサバサ飛ぶから装備の腰の荷物入れに入れたいくらいです」
そうなんだ。これは私の気持ちよりもネビーの気持ちの方が大きい疑惑。
私も今日1日早く帰ってこないかなとか髪型をどう思うかなとソワソワしていたけど稽古中は彼のことを忘れていた。
「殴り込み中とかかなりの時間忘れていましたけどね。持ち歩いても忘れそう。でもひと息ついた時に居たらいいのにとか、今日なにをしてくれるかなぁとか」
つまり彼の方が気持ちが大きいではなくて同じような気持ちだ。
「今日それと似たような気持ちを抱きました。激務であまり会えないのはお互い寂しいのでやはり差し入れやお手紙を届けるとかなにかします」
「おお。手紙」
「今日はなにをしてもらいたいと考えたのですか? 今日と明日はお祝い日ですよ。そうでなくてもこれをして欲しいと頼まれた内容は今のところどれも嬉しいから頼まれたいです」
優しい笑顔に変わっていたけどそれがさらに柔らかくなった。
「会ったらなにもしてくれなくていいやと。息をして俺の隣にいる。それで照れ笑いしてる。おまけに髪型でかわゆさが増しているから」
「足湯に行きましょう。絶対一緒に行くと言っていましたもの」
「ええ。そろそろ行こうかと。女将さんは良いことを言ったぞとかウィオラさんは良いと言ったぞとワクワクしました」
真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれるから嬉しい。私がそうしたら喜んでくれるのも何度か見ている。
遠回しは雅とか素敵なんて話を始めたのは誰なのだろう。でもそれもそれで素敵だしな。
部屋に戻って荷物を待って貸切風呂へ移動。脱衣所からお風呂場を覗いたら小さな岩風呂でお庭付き。庭には白い石が敷き詰められていて模様が描かれているし庭そのものの造形も美しい。
滝見風呂という通り湯船の正面に小さな滝が3本ある。ここは山ではないし川も近くないから水路で水を引いて作っているのだろう。
湯船に桜の花びらや花が浮かんでいる。庭と岩風呂の間、岩風呂寄りに長椅子があって大きめの浅い桶が置いてあった。
「椅子と桶を用意してくれたのでしょうか」
「この感じだと岩の上から足だけも突っ込めます。これは優越感。かめ屋に客として泊まったことがなかったんですけどまた泊まりたいな。他の貸切風呂が気になります」
脱衣所で足袋を脱いで私は足湯用に少し裾を上げた。
ネビーは足を軽く洗って湯船だ! と浴衣の裾をかなり捲り上げてそそくさと高さのある岩に座って足を入れた。
膝よりほんの少し上まで見えていて見るのは2度目だけどやはり私のぷにょぷにょ足と全然違う。
「見る練習はよかだけどそうじっと見られても」
「へっ? は、はい! いえあの」
「お脱ぎになって下さいだから上をはだけようかな」
「な、慣れるためにそうして下さい!」
「嘘です。恥ずかしいから嫌です。その顔が見たかっただけ。どちらかというと隣で足を見せて欲しいだな」
「それは無理そうなのでもう少々お待ち下さい!」
「でしょうね。その慌て照れ顔が見たかった。そんなに簡単に砦が壊れるのはつまらないのでその方がよかです。あはは」
そういえばネビーの口調が入り乱れているな。親しさが増したようで嬉しい。というより私はわりとなんでも嬉しい状態になっている。




