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通り過ぎる人々の誰もこの大陸が不安定だとか明日いきなり海蛇達に認識されるかもしれないとなんて知らない。
去年の春の今頃の時間、私は遊楽女達への講師仕事を終えて食堂で早めの夕食をとっていた。
端っこで話しかけられなければ話しかけず黙々と。ユラと会った頃だな。来年こうしているなんてまるで考えていなかった。
「明日のことは分からないけどこうしたいとかああしたいという気持ちがその方向に道を作ってくれることもあります。応援されたのもありますけど俺はそうやって地区兵官になりました」
「ええ。進みたい方向へ歩かないと目的地に到着しませんね」
「楽ちゃん達とあんみつを食べてお喋りしている間に少し調べました。楽ちゃん達の講師と昼間の花魁行列に華添えとたまに道芸以外は引きこもりから開始したのに地蔵になるとは大きく変化しましたね」
私はまた小さく頷いた。ネビーがエルにどのような手紙を書いたのか知りたくて彼女に聞いた。
私のざっくりとした5年間。ネビーが見聞きしたこと。私の性格の推測や心配なところ。
そういうところを気にかけて必要があれば説教をして欲しいという話。祖父に聞いたら祖父も似たような話をもう聞いたそうだ。
少し調べましたってさすが地区兵官だと思った。私に聞いたら答えないとか嘘をつくと終わったのか客観的な意見が欲しかったのかな。この流れはまた喧嘩というか話し合いだ。
「隠したい話はないのに私に尋ねる前に勝手に調べられて少々不快です。でも隠したい話がないと伝えていませんでしたし今後の私のためを思ってなので許します。私がこういう話だと嘘をつきそうだと思ったからですか? 他人から見た私を知りたかったからですか?」
「両方です。でも勝手に調べてすみませんと謝らないとと思って。すみません。その不機嫌そうなお顔を見たくなくて今になりました。そのように目的やしたい事が変わることはあるでしょう」
しばらく無言。私はもう勝手に調べられたことに関して言いたいことは特にない。
調べられたことが嫌なのではなくて私に聞いても無駄だと判断したようなところが嫌だっただけ。
嫌だけど私のせいでもあるのは明白でやはりそうだと言われた。それで謝られた。
「したい事ではなくて気になって離れられなくなったの方です。同時に現実に嫌気がさして結局逃げました。なんだかんだ目も耳も閉じて見ないふり。聞かないふり。ずっと引きこもりです」
道芸や遊楽女と少しだけ宴席に参加して自分の評判が上がった私に都合の良い内容で芸妓依頼が来たと思っていたけど単にお店が恋営業させようとか最初は私の言う事を聞いて脱がせようとかそういう作戦だったと判明。
本当に危うい生活をしていたんだなと遠い目。祖父に言われたお嬢様感を損ねないようにされていたというのも指摘されて振り返るとそういう事はあった。
遊楽女のお手本なのだから働き出した頃から変わっていくのは困るみたいにちょこちょこ言われていた。
遊女と長話になりそうになると遊楽女のことで、みたいに呼び出しも。いくつか思いあたる事がある。
「どのような八つ当たりをされてどんな態度だったのか尋ねました。火鉢を顔に押し付けられそうになったのにそれならどうぞ。これはなんですか? 時間がないし嫌がられて多くを聞いていなくてこれが1番謎です」
「嫌われているのに話しかけた私が悪いです。あまりにも辛そうに泣いていたのでつい。咄嗟で反応出来れば逃げます。現に突き飛ばしと張り手からは逃げられました。火鉢を向けられたのは脅しで傷つけることに怯えがありそうだから下手に逃げたり動くよりもその方が安全かもと」
「自分が悪いと謝ったそうですね。すみませんと。それでどうぞ一回お好きにして下さい。これだけだと分からなかったけどそういう事ですか」
「私は火鉢で襲われても避けられる気がしていました。避けて逃げたら彼女は既に近くにいた遣り手に取り押さえられます。私はその頃はもうお店の格上げに貢献してお金を稼いでいたので私は優先されて守られます。最悪怪我をしても私の売りは顔や体ではありません。火鉢では死にません」
「そういう考えですか。下手に刺激しない方が良い時はあります。例の話からして今後は禁止ですが悪手ではないです。彼女に折檻をするなとか彼女をお店から追い出すなと頭を下げたのはなぜですか? 増長しますよ。現にバカにしているのかとまた喧嘩をふっかけられたそうですね。それでついに相手は折檻。自業自得というかなんていうか」
「私とまだ安い彼女だと彼女の方がお店を追い出されます。下手すると転落人生で川掘り死体。私関係でそうなるのが嫌だっただけです。バカにしていなくて自分可愛さだと伝えました。もう話しかけないし関わらないから関わるなとも言いました」
「それは知らない話です。それは2人での話ですか?」
「ええ。また喧嘩をふっかけられたくないので折檻後、部屋で動けない彼女にそのような話をしました」
男性を信じて貢いで裏切られて八つ当たりして折檻。また男性に貢いで裏切られて結局川に身を沈めてしまった。
恋とは恐ろしそうなので花街内で恋を知りたくないとたびたび思ったものだ。
私の芸が見たいというお客と2人きりには決してならなかったしなるべく喋らなかった。そういう仕事はいつも安全だったな。
少々嫌で逃げることもあったのは団体客に華添え演奏や芸披露の時……なぜ最後の仕事はそれだったのか。
兵官で毎年大人しいと言われて信じたからだけどそれより前に呼ばれなかったのは……太夫達が食べたい人気者達が私を気にしたら嫌だから?
最後くらいどうぞとか? 太夫に聞くのを忘れていた。まあ知ったからどうもこうもないからいいや。それを知って学べることは無さそう。
「お姉さんへの手紙に書いていない話。見張りは喧嘩をふっかけられたけど無事ですという簡単な報告で済ませていた。顔を出してウィオラさんと話してもらうようにしていた花官達も知らない話。喧嘩で怪我よりも実家の方が危険だと思って怪我はないようだけどそろそろ花街から出るように誘導したいのに数年間出て行かない。ラルスさん達は悩んでいたそうですよ」
「ええ。祖父と父に言われました」
「主にお世話をしていた楽ちゃん達が気がかりだったらしいですね。だから太夫さんや花魁さんがウィオラさんを気にかけた。ウィオラさんも人を選んで相談していた。1人で立ち向かう勝ち気で強気なお嬢様だけど頼れると思えば人には頼る。あの男の件は、ご家族の誰も頼れないと判断したんですか?」
「頼った結果マシになっていると思っていました。でも無意識に頼れないと思っていたのかもしれません。結婚させられてしまうということで頭がいっぱいでした。視野が狭かったです」
「子どもはそうです。まあ大人だってそうですけど。根っこが勝ち気だから俺にもお脱ぎになって下さい。あれは戸惑いましたけど面白いしかわゆかったです。前にまずは挑戦って言うていましたね。挑戦してすぐ失敗。あはは」
真面目な表情をして前を見据えていたネビーが私に笑かけた。もうこの話は終わりと言うように。
「あれは……あれは浮かれや動揺や照れでおかしくなっていたからです。多分また変なことをします。ネビーさんもたまに変ですから同じです」
「俺がしたい話から話が逸れました。気持ちや目標や目的が変わることはあるけど目指したい道があるのは大事。その話をしようとしていました。俺は相手の返答が予想外な時にその話に乗ってしまってよく脱線します」
「でも話したいことではあったということですよね? 話をすぐに戻しませんでした」
「怒られたくないからそちらから勝手に調べるなと叱られるまで黙っていようかと。それでその時に少し疑問を質問しようかなみたいな。知りたかったのは今後の対策のためで過去をほじくり返したかったからではないです。特に改めて注意して欲しいことや気をつけて欲しいことは無いです」
不機嫌顔を見たくないと言われたからそれもだろう。つまりお説教にも話し合いにもならずに終了だ。
勝手に調べられて嫌だったと伝えられて謝られて許して終わり。
「目指したい道というのは来年のことですか?」
「いえ。激務の予感なので近い日に楽しみがあると頑張れるなと。今日と明日は元気を蓄える。次は本来無かったはずのお弁当が待っている。大変元気の出る話です」
「6番隊に戻られた後の過密勤務では帰宅しますか?」
「体力と気持ち次第です。もう遠くないから出退勤も勤務は終わり。今後は9時から8時間区切り。残業がありそうな予感。顔を見たくなったら休憩時間を削っていそうな場所に行くと思います」
「それなら体を休めて欲しいので私がおじい様やエルさんに助けていただきながら屯所へ差し入れを持っていきます」
「おお。おねだり成功です」
「遠回しですね」
ネビーはこうやって時々遠回しなのかな。あけすけないけど考えて話したり遠慮していることは出会ってから今日までで何度か見聞きしている。
「あまりあれこれして欲しいと頼むのは嫌がられるかなと。本人が提案したりそちらからしてくれることは別として」
「嫌なら嫌だと言います。でも嫌だと言われると落ち込むから頼みづらいこともありますよね。2人とも無理のない楽な範囲を模索しましょう」
「ええ。はっきり言え! と言われなくて安堵です。はっきりしているのにしていないと怒られるんですよね」
「怒りたくなったら怒ります。先日のネビーさんみたいに」
今朝思ったこれが日常になるの⁈ という想像は早くも崩れ去った。
数日会えないではなくてかなり会えなそうな生活が始まるのか。誰にも明日のことは分からないと言うけど本当に分からないものだな。
「我慢して大爆発にならないように小出しに怒って下さい」
「今のところないのでその時その時言います。勝手に調べられたというか先に尋ねてこなかったのは嫌だけど他のことで忘れ気味でした。ネビーさんに話題を振られなかったらそのまま忘れていましたよ」
「それなら失敗です。見なくて済んだはずの不機嫌顔を見てしまいました。おっと、また話が逸れる。夏の話です。夏は休めるはずなので俺はウィオラさんとのんびり花火を見るか玩具花火をしているところを見たいです。打ち上げ花火なんてふーんと思って祭りといえば飲み食いしたり騒ぐだったけど掌返し。ウィオラさんはなにかありますか?」
花火を2人で見上げるか。ぜひしたい。
私は夕焼けに染まる空を見上げた。夜の街を歩くのは怖いから私は日が暮れてから出掛けた事が全然ない。
花火も菊屋の屋根裏部屋から少し見たとかそのくらいでしっかり見たのは女学生の時に付き添いありで友人達と一緒に有料観覧席でが最後。
ネビーがいたら夜のお祭りは怖くない。楽しそうでワクワクする。
「夜遊びしたいです。夜の街を1人で歩くのは怖いので家出後は仕事か部屋で稽古。もしくはさっさと寝ていました。実家だと家族か見張り付きで限られた時と場所のみ。ネビーさんがいれば夜に散歩出来ます」
「1ヶ月後くらいからトト川に蛍が飛びます。上流か下流に向かって散歩しましょうか」
「ぜひしたいです。あとまた試合を見たいです。格上相手でも。勝ち負けではなくてあの……か、か、格好良い姿を見たいです。普段が格好良くない訳ではないです」
「先生に同等くらいの相手と対戦させてくれと頼みます。負け試合を見せたくねぇ」
そうか。目指したい道は来年だけどその前に中継地点がある。
2人で明日や来週こうしたい。来月は蛍を見ながら散策。夏になったら花火を見に行くか玩具花火をしよう。
つまり明日や来週も来月も夏も一緒にいましょうという意味だ。
明日のことは分かりませんはなるべく言わないでこうなりたいですねと言おう。言われたくなかったからこういう話をしたのかな。
繋いでいる手が緩めば強く握りしめて強く握られれば力を抜いてみる。
指でくすぐられて恥ずかしくて言葉が行方不明。彼もなにも言わないみたい。
手の繋ぎ方が変わった。指と指が絡み合う。私達は無言で歩き続けた。




