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実家を去って帰り道は行きのように過ごしつつ祖父とあれこれ話し合い。私はこの帰路旅行の大半の時間を祖父と過ごした。
話題は主に私の反省点と家族、特に両親に対して感じたことやネビーからのお説教や助言について。それから祖父からこの5年間の家族の様子を聞いたり。なので話は尽きない。
行きにお世話になった農家2軒にまたお世話になり祖父はネビーあるあるというか、ネビーとルルとレイあるあるを目撃。
祖父は感心顔をして「ご両親が気になる」と口にしてガイとなにやらあれこれ話始めた。
祖父に「明日祝言したらどうだ」と笑われて「プライルドの手前見張りと言ったがお前と過ごす為とご家族ご親戚にご挨拶や家業に役立つ調べ物を目的に南地区で暮らすから見張るつもりはないからな」とさらに笑われた。
この話はネビーにはもうしたらしい。我が家としてはぜひ祝言したいから私と彼が部屋で2人きりになろうがどこかに旅行で泊まりでも好きにしなさいである。
これに対するネビーの返事は祖父には聞いていない。きちんと自分で質問するぞと心の中に書き付した。
祖父から聞かされるのは辱められそうな予感がなのもある。
茶摘み農家で「屯所に泊まるなら我が家に泊まりな」と誘われて私達はまだ日が落ちる前だけど旅を中断。
「サボっていたという評価がついたら業務上横領をしにくくなるので警兵業務というか視察などをしてきます」
そう告げてネビーは馬で警兵屯所へ去った。夕食時に一度戻って規定の休憩をしてまた働いて真夜中手前までの8時間程度働いておく、らしい。
これはガイからの助言で「帰宅後の休みをもぎ取れる」らしい。というかコソッとそうなりそうな報告書などを準備するそうだ。ガイとネビー、この組み合わせはやはり強い。
私とルルは茶摘みのお手伝い。レイは張り切って台所仕事や家事に参加。ガイと祖父は私達の事などを話し合い。そうして私達は夕食をいただいて近くの村のお風呂屋へ行って帰宅して就寝。
部屋と布団の数の関係で私は小さな離れに案内された。
「あんたの旦那に合鍵渡しておいたからお休みな。こっち側からはこうやって開けるの」
「えっ?」
「お金持ちさんの結婚の約束をしにいったら万々歳だから即祝言ってなんだかよすね。まああの働き者の優しい兵官さんは奪い合いだろうからそれが正解な気がする。それじゃあお休み」
「お、お待ち下さい! 私と彼は祝言前です!」
「そうなの? まあ頼まれた通りにしたからさ。もう眠いから他に部屋も布団もないよ。お休みね」
誰に何を頼まれたの⁈
動揺しているうちに私は大奥様に置いてかれてしまった。
少ない光苔しか入っていない灯籠に照らされる薄暗い部屋の中で立ち尽くす。布団は2組敷いてあってそもそもそれが変だなと思っていた。
(まさかネビーさん? 騙し討ちみたいなことはしなさそうだから……ルルさん? おじい様は知っているの? おじい様⁈)
そろそろ皆寝るから寝る部屋に案内するよ、と言われて私はこっちだと大奥様にこの小さな離れに案内された。
(今日はおじい様と話してばかりだったし……)
嫌がることはされないのは確実なのでもうこれでいいやと鍵をかけて布団に潜った。
(ネビーさんが頼んだのではなかったら私が寝ていたらびっくりするわよね。説明は出来ないけど説明……)
私は鍵を開けて扉を引いてそこに腰を下ろした。ここからでは月は見えないけれど星々は眺められる。
海川山で歌うと良いと言われたけれどここは何になるのだろう。丘の上だから山?
あまりにもドキドキするから落ち着きたいのもあって私は小さく歌い始めた。
どこからかシュルリと現れた小さな海蛇が私の膝の上に乗って体を上へと伸ばす。歌に合わせてゆらゆら、ゆらゆらと揺れて楽しそう。
歌い終わると海蛇がこちらを向いて青い瞳でジッと私を見据えた。
(また踊りたいのかしら)
頭を指で軽く撫でてもう一度歌うことにした。再び前を向いた海蛇はまたしてもゆらりゆらゆらと体を揺らし始めた。
似たようなことを3回繰り返すと海蛇は右肩の上にだらんと乗っかった。
(夜は姿が見えにくいから隠れないのかしら)
蛇は怖かったはずなのにやはり平気というか愛くるしいなと思ってまた指で頭をなでなで。
しばらくして「ウィオラさん」と声を掛けられてドキリと胸が跳ねた。
「こ、こ、こん、こんばんはネビーさん。お仕事お疲れ様です」
「ただいま帰りました」
「お帰りなさいませ!」
立ち上がってお互い会釈。その間に彼は私に近寄ってきて目の前に立った。
「ええ。ただいま帰りました。それではお休みなさい」
両手を取られてギュッと握り締められた後、その手は離されて彼は私に背を向けた。
「あの! どちらへ行かれるのですか?」
「ん? 警兵屯所です。寝る前にお顔を見たいなと。寝ていたら寝顔を盗み見と思って1回戻ってきました」
彼が避けたい時は避けられるけど私は彼の羽織の裾を掴めた。振り返ったネビーは月明かりの下で柔らかな笑顔。
「どなたがこうしたか分かりませんがこちらは私達のお部屋だそうで……。その……」
「ラルスさんが孫娘は照れ屋過ぎるので、みたいな。まあほら。つつかれるとか触られる練習ならウィオラさんが確保したかめ屋の部屋が最初の方がよかかなぁと」
……それはそう思う。こう言われたら私もそう思う。
「今月末最後の水曜は俺の誕生日ってことになっています。お祝いしてくれますよね?」
「ルルさんとレイさんに教わりました! 水は命の源だから皆さん水曜日にしていると。今日はおじい様と色々話していましたが明日はそのことを色々聞こうと思っていました」
「休み希望は特にない方だったので誕生日も別の日に祝ってもらえばよかだと過ごしてきたけど今日働いたのは水曜休みをもぎ取ろうかと。火曜日の夜に泊まって水曜日はのんびり」
「はい。あの、欲しい物はありますか?」
「海にお礼に行きましょう。漁師達もですが他にも。物は特に。火曜も水曜もなるべく何もしないのでそちらから色々お願いします」
暗くても分かる。肩を揺らして笑った彼の笑顔は悪戯っぽい。
「ど、努力します……」
「お父上には嫉妬されたのにおじい様にはひ孫を早くみたいから何をしても良いと言われて板挟み。俺自身もウィオラさんの初心さをのんびり沢山楽しむか、かわゆいから強制練習するか板挟み。毎日楽しそう。あはは」
質問しなくても心の中に書き付けた疑問に対する答えが返ってきた。板挟みなのか。
「なぜネビーさんは恥ずかしくないのでしょうか。私と同じはずなのに」
「いや照れてますけど。なのでこうして眺めています」
そうなの?
そうなの。そろそろと羽織から手を離して代わりに彼の手をつついてみた。これだけで恥ずかしいけどえいっと指を軽く掴む。
「お疲れですか?」
「ええ。それなりに」
「途中まで送ります」
「すぐそこに馬がいるのでそこまでお願いします」
彼は顔で示した方角と逆の方に歩き始めた。手を繋ぎ直されたので手に少し力を込める。
「何に疲れました? 心配なお仕事で隠される方が心配なので聞きたいです」
「うーん。気を張って見回りはそれだけで疲れます。今日はそのくらいです。後は指導とか聞き取りだったので」
「うんと疲れた時はなにがあると元気になりますか? 私はご存知の通りあんみつを楽しみにしています」
「気ままに好きに生きているし……なんだかんだ稽古かなぁ。あとは前は知らなかったし無かったけど今みたいなことですね。それなりに疲れたのにすぐ爆睡しないでわざわざお顔を見にきたくらいなので」
少し歩くと茶摘み畑の端で月や星空に息を呑んだ。やはり2人並んで眺めると同じ景色でも違って見える。それで馬は居ない。
「……私と一緒にいたいですか? ここにお馬さんはいらっしゃいません。私は嬉しいです」
多分良い返事がある。ネビーの考え方は分からないからこうかな? と思ったらきちんと聞くようにしないと。あと自分の気持ちも頑張って伝える。
「もちろん。ウィオラさんと出会ってから毎日眠いです。お申し込みの緊張が終わったら寝れるかと思ったけど眠りが浅いのか夢に出てきて遊んでいたり拐かしてきたり逃げるのを追いかけたり。ハッとしたら目覚めてて。あはは」
彼の夢の中の私はなにをしているのだろう。
屯所でよく寝たと言っていたのは嘘だったみたいに私はネビーの嘘を中々見抜けなそう。
でもこうして時間が空いたり彼が話しても良いと思うと教えてくれるみたい。
「……私はかなり照れ屋なのに図太いから毎晩ぐっすりです」
「酒癖の悪い酔っ払いルルに絡まれても爆睡していたらしいですからね。あはは」
急に手を離されて「散歩は終わり?」と思ったら後ろからそうっと抱き締められた。
自分でも分かる。カチンと体が固まった。
「何も知らないでとんでも人物と付き合っていたみたいですけど数年前から付き合いのある旅医者の中にあの男性の息子が混じっていたみたいです」
「そ、その、その話も聞こうと思っていました」
ひゃあ、恥ずかしい。結納したから予告なしなのかな。
「無理そうなので離れますか?」
「いえ! このままが良いです……」
様子を見てこうして聞いてくれるのか。優しい。
「いけると思って手を出してみましたがどっちか分からないんですよね」
「い、嫌なら嫌だと言います。嫌というかネビーさん相手だと嫌ではなくて恥ずかしさの限界の方です。あと怖いとか嫌ならえいっと避けます……。他の方の時です」
「それなら調子に乗ってちょこちょこ強制練習ですね。単に俺が手を出したいからだけど」
ひゃあ!
頬にキスされた。月明かりに照らされる大自然や星空の下でこれは……素敵。
「あの謎の男の息子さん、ロイさんとリルが旅行した際に目の前で倒れて大きな腹の虫が聞こえてきたから一緒に朝食を摂って彼の悩みをそこそこ聞いて友人になったと」
ロイとリルはそのヴィトニルと彼の旅仲間の2人と夕食を一緒に摂って細々と文通をしようと約束。
そこからルーベル家とレオ家の人達は彼等と年に1度くらい会う仲。
文通をしているそうだけど文通というより旅医者達が旅先から旅人経由で一方的なお手紙が多いそうだ。
煌国に長く滞在出来なくても大陸の東西を行き来する際に煌国を通り過ぎるからその時に必ず使う宿でリルとロイからの手紙を回収するらしい。
旅人と文通なんて発想はないけど言われてみるとそのような方法で出来るのかと妙に納得。
「いつも春頃来るんですが今年はまだなのでウィオラさんも会えるかと。俺はヴィトニルに聞きたい事が沢山です」
「私も話してみたいです。ロイさんとリルさんって不思議なご夫婦なのですね。旅医者の方と知り合うことはあっても縁が続くなんて」
「リルの顔は父親似。でも他も似ています。極貧時に家事育児中心の時はあまりなかったけど行動範囲が広がったら判明しましたが、声を掛けられたり困っている人に遭遇しやすいみたいです。親父の友人達が迷子とか中々会わないのにレオはよくそういうことがあると言うているから同じです」
それはネビーもそうなのではないだろうか。
「ネビーさんも似ていませんか?」
「ん? 俺は職業柄目につくだけです」
多分違う。自覚ないんだ。私は川で溺れた人を見たことがない。目の前で鼻緒が切れた人もいつも一緒に登下校していた友人くらい。
「ロイさんは昔から縁の下の力持ちらしくて本人は知らなくてもさり気なく好まれていたりするとか。卿家1軒その他少しごとき。色々いますけどロイさんとリルなら関白秘書官第二補佐官の妻から春霞の局の女官吏、下手すると皇女様に頼めます。追撃はそれでした。妹夫婦が使わない隠し権力です。2人にお礼をしないと」
関白秘書官第二補佐官の妻は春霞の局の女官吏なのか。
皇女ソアレ様の局で上に5人の兄がいるけど彼女は女性としては最上位の皇女様で第2側室妃の娘。
2人の姉がいたけど4年前に病死と3年前に悲しいことに出産死。それでソアレ様の位は上がった。
才色兼備のソアレ様は王都民に最も名が知られていて皇居内でも注目を集める皇女様だから第1皇女、第2皇女の目の上のたんこぶで春霞の局は冷遇や劣勢だったけど大逆転。
皇居入内を目指す者はこういう風向きの変化に振り回される。
「劣勢から最上位になった皇女様の局の女官吏だったとは驚きです」
銀行財閥系の華族のお嬢様が皇居の女官吏になるのは熾烈を極める。ツテコネの極みの世界だから倍率はとんでもない。
それこそ私立有名女学校の首席や女学校に行かずに家庭教師漬けでないとなれない。しかもツテやコネが乏しい場合は見た目良しでないといけない。
私の通っていた女学校の生徒だと小さなツテコネがあるから一応採用試験を受けるとか皇居に行ってみたいから記念受験。
リルの友人は家の為に相当な努力を課せられたか野心家。前者な気がする。あのリルと野心家という組み合わせは噛み合わなそう。気になるからリルにどのような女性なのか教えてもらおう。
「劣勢から最上位の皇女様? 天女みたいな美人でなんでも出来るからイジメにあうけどこう正面からぶん殴るみたいに嫌味とあらゆる特技でやり返す勝ち気な方という話を聞いたことがあります。夢がないからあまり聞いていません。正義感が強いらしいから理不尽な話が出た場合は億が1味方になるか? みたいな」
「夢がない……私もやっかみでイジメられた時は舞台や道芸に招くというかそうなるように仕向けてやり返していましたよ」
「ああ。夢がなくてよかですね。そういう時にただメソメソ泣いてボコボコにされるのはちょっと。他力本願過ぎるのは好みません。雲の上の方の話だと現実的な話はなんか嫌だけど自分達に置き換えると納得共感だ」
「ネビーさんは夢とか憧れはありますか? 私は雅な文通お申し込みは密かに憧れと思っていたらもうしていただきました。誕生日に欲しい物がなければして欲しいことはありますか? 男性のことは全然分かりません」
数人辿ると国中の人と繋がるなんて話を聞いた事があるけど私、リル、女官吏、皇女ソアレ様とは凄い。
まあ長屋の人達は知らないけど長屋の住人、私、太夫、そこから大金持ち達だから長屋の住人達が知ったらそれもとんでもない話か。
話を戻すことが出来たかな。権力ツテ関係というか合縁奇縁話は楽しいし気になるけど私の頭の中はわりとこのことで一杯だった。
「これまでは結納祝言したら触りまくろうとかそういう事しか考えていませんでしたけど今は具体的な相手がいるからか別の欲が出たのでして欲しいことがあります」
つまり……触らない欲? どういうこと?
「はい。なんでしょうか。私に出来ることは叶えます」
「凝ってなくて良いというか俺は質より量とか豪快なのが好みで面倒ならご飯に梅干しで構わないから疲れていない時に弁当を作って欲しいです。俺は福利厚生で仕出し弁当を頼めるんですがそれよりそっち。ウィオラさんが作ってくれるなら福利厚生費を現金で寄越せと言って食費として渡します」
そういう欲!
そうなんだ。別の欲が出ただから前はそういう憧れはなかったということ。
人生初のお弁当を食べてくれた時もずっとニコニコしながら「美味いです」と言ってくれていたな。
「嬉しいからなるべく毎日作ります。余裕や時間があるときっと張り切って凝ったものにします」
「なるべく毎日は期待以上の言葉です。良し。次はこのまま髪型をちょこちょこ変えて欲しいです。あの横流しのなんでしたっけ? 縄編み? あのやたらかわゆい髪型。あれは定期的に見たいです。そう変わらないのに女性は大変というかそんなに気にするか? と思っていたけど俺はバカでした」
確かに出会った頃に足元のお洒落は男は見ないから転ぶなら草履と言っていたけど昨日は足袋先までかわゆいとか、下駄は良いとか言っていたな。
「三つ編みですね。どの三つ編みでしょうか」
髪型を変えると褒められるから調子に乗った私は同じ日にさえ髪型を変化させたのでどの髪型か分からない。
「デオン先生のところへ行った時の髪型です」
あれはネビーから見ると「やたらかわゆい髪型」だったのか。
「はい。褒められて嬉しいのでまたします」
「なので小物屋へ行って髪型を変えるのに使える物を買いたいです。なんか色々ありますよね? 俺から見たら使い道のよく分からない物。ある程度整えたら十分なのにあれこれあるのはなんなんだと思っていたけどこれも俺がバカでした」
俺から見たら使い道のよく分からない物。そうなんだ。なんなんだってその意見こそなんだろうと思う。
小物って眺めるだけでワクワクするけど男性と女性の感性の違いかな。
「いただいた簪を使うので他のものはあまり。簪を使わない髪型もあるので持っているものを使います。あとは髪型研究をして必要なら自分で買います」
「ダメです。一緒に選んだら楽しそうだし俺が買って俺が買ったやつだとニヤニヤ見たいから俺が買います」
自然と目が丸くなった。私は彼に貢がれるの?
ニヤニヤ見たいから買いますって男性が女性に貢ぐ心理ってそういうこと?
「同じ理屈で着物一式も買いに行きたいです。あと袴。袴姿を見たいです。中央区に遠出して煌龍服。あとリルに作らせるんでワンピース。露店で買えそうですけど早い方が良いので作らせます。あれは外に着ていってはいけません」
なんかどんどん出てきた。
「袴は持っています。勤務服は袴でその袴は制服です。ワンピースもあります。暑い日の寝巻きでワンピースとズボンがあります。あれは恥ずかしくて見せられません」
「学生だけではなくて先生も袴なんですね。恥ずかしいっていつか見るんですから早々に見ます。すぐ隠れて良いので俺に見られる練習をして下さい」
「練習……はい。小物も着物も自分で買いますけど買いたいんですか?」
「はい。6年分の貯金で買いまくりたいです。逆は特に。欲しいものは全く無いです。物欲よりも優越感? 感激? なんだ? よく分からないウィオラさん欲です」
うんうん、と頷かれて困惑。私欲ってなに。本人も分からないなら私に分かるはずないか。
「私もなにか贈って使ってもらいたいですけど何も無いですか?」
「大事にしていても職業柄と性格上失くすので……ああ鉛筆1本。勉強が捗りそう。鉛筆よりも教え上手そうなので勉強のコツを教えて欲しいです。興味が沸かないというか理解出来ない分野や暗記下手で学科の偏りが酷くて。あと勉強中に演奏も気になっています。良い影響がある気がしています」
鉛筆1本⁈
小物を買いたいに着物一式を買いたいなのに鉛筆1本……。
「着物。着物を買います! 簪が嬉しかったので結納記念として」
「要りません。いや結納記念……なんかあったな。なんだっけ。えーっと……婚約指輪! そうでした。確かそう。以前セレヌさんに聞いて覚えておくかなと思って忘れていました。ああ、セレヌさんは旅医者の方であちこちの文化を知っています。買いましょう」
「婚約指輪? 結納をしたらお相手の男性に指輪を贈るのですか? どちらの文化ですか?」
「逆です。この女性はもう予約済みですみたいな。どこの文化かは分かりません。ヨハネさんが結納した時にお相手に婚約指輪を贈るなら、みたいな話が出ました。流行っていないし知られていないけどウィオラさんが結婚済みだと勘違いされた方が俺的に得です」
また買ってもらう話になってしまった。
「流行っていないし知られていないのならネビーさんもどうですか? お揃いですし私もネビーさんが結婚済みだと勘違いされた方が得です」
「おお。お揃い。確かに」
「カニだけに?」
縁起カニに助けられたし私がカニと遊んだことはネビーのお気に入りみたいなので手でカニを作ってみた。くだらないけど笑ってくれそう。
恥ずかしくて前を見つめていてお顔が見られないけどずっと笑ってそうだからさらに笑ってくれそうが正しいかな。
「ここに美味しそうなカニがいる」
突然首筋と頬にキスされてカチンと停止。抱きしめられるのは少し慣れてきた気がしていたけど逆戻り。
「お揃いの婚約指輪か。親父に作ってもらいたいな。よかですか? たけのこが竹になるみたいに次の段階にいけますように的な。たけのこの飾り切りにリルがそういう説明をしていたことがあります。いつだっけかな。意匠は相談するとして」
ありますとかいつだっけってつい最近の話だ。長屋での宴会時。もう忘れ気味なんだ。
「は、は、はい……。それ、それは一緒に買いたいです……。半額ずつ……。仕送り代を返却されるそうなので着物も記念に……。2人で似たような柄かなにか……」
「結納記念……物欲もありました。俺は記念とかお揃いに弱かったのか。知らなかった。しかし困った。寝ないといけないのに眠くない。でも寝ます。明日中には言おうと思っていた話が出来ましたし早朝出発ですからお休みなさい」
そう告げるとネビーは私から腕を離した。思わず振り返る。手を繋がれて歩き出したのでついていく。
恥ずかしいから足元を見ていたけどゆっくりと顔を上げた。暗いけど少し見える表情は微笑みだ。
離れの前に送られて再度「お休みなさい」とご挨拶をされたけど名残惜しくて部屋に入れない。
「鍵を閉めたところを見ないと不安です」
「……名残惜しくて扉を閉められません」
「……」
しばらく沈黙。俯いたけど気になってチラッと確認したらネビーは横向きにした両手を目の上で重ねて少し上を向いていた。
「あの」
「戻ります。戻ります! また昨日みたいに嫌だと避けられるのはキツいです。嫌ではなくて照れだと確認出来て安堵だけどへしょげ気分になるので」
へしょげ気分?
落ち込むってことかな。落ち込む?
失礼しますと言われて部屋の中へ押されて扉を閉められた。昨日みたいに嫌だと避けられる……避けた記憶はない。
……なにか誤解が生まれている!!
扉を開いたけどもう彼の姿は無かった。




