35
楼主と応接室で軽く話をして数日では特になにもなくて安心。1夜でなにがあるか分からないのがこの街だから。
遊楼内を好きに歩いて帰って良いと言われたのでなるべく近寄らないようにしていた客取り部屋近く以外を回ることにした。
最初は格子窓。コソッと挨拶。私を毛嫌いしている遊女もいるので1番話しかけたかったユラに話しかけた。彼女は格子窓から店内の方へ来てくれた。
「物見遊山とはお嬢様は気ままで羨ましいことで。見覚えのある新人兵官さんは護衛の下っ端雑務ですか? 是非浮絵になって……お兄さん浮絵になっていませんか?」
ユラはネビーに近寄って彼の顔をジロジロ眺めた。その後は上から下まで眺めて色っぽい含み笑い。
それで彼女はネビーが私の帯に繋がる縄を持っていると気がついて顔をしかめた。
「まるで連れ戻された遊女だね。酷い折檻をされるよ。それか売るために連れてこられた女。そのお顔に年増だからこの店へは売れないけど」
「突然拐われたら困るとこうなりました」
「そう。ねえ、お兄さんお名前は?」
「ネビーです」
「……やっぱり。夕霧姉さんが新人兵官さんを見つけたって買ってきたの」
ユラは馴染み客が多いから店内で多少自由行動をしても叱責されない。平日のまだ19時頃なので混む前というのもある。
夕霧花魁は月のものがひどくて今夜はお休みだから行こうと言われて夕霧花魁のお座敷へ移動。
知らない遣り手がいて「私の見張り兵官が去った?」と心の中で呟く。
この廊下を通る時はそういう声がすることがあるので歩き方がギクシャクしたけどまだ早い時間なので何もなさそうでホッとした。ネビーはずっとすまし顔をしている。
夕霧花魁のお座敷についてユラが彼女の名前を呼ぶと遊楽女の夕霧ふぅ子と夕霧ひぃ子が部屋から出てきた。
「ユラ姉さん。夕霧姉さんは休んでいます。ウィオラ姉さん! 連れ戻しですか? 売られたの? ウィオラ姉さんはもう家に帰れるから帰ることになったのになぜですか?」
「ウィオラとの話は後で。夕霧姉さんに浮絵の新人兵官さんが仕事で来てついでにお見舞いしてくれると伝えて来て。ウィオラはお菓子くらい持ってきたわよね?」
「もちろん。絵飴があるから夕霧さんにお話したらおいで。他の花魁の楽ちゃん達もここの部屋前に来られるなら呼んでくれるかな」
「あい。分かりました」
夕霧ひぃ子はいそいそと他の子を呼びに行って、夕霧ふぅ子は襖を閉めた。昔の数字の数え方にちなんで遊楽女は基本ひふみ呼び。
お店によって名称が違うらしいけどそこまでは詳しく知らない。
夕霧ふぅ子に「どうぞ」と声を掛けられたので入室。夕霧花魁は窓際に座って肘掛けにしなだらかかって煙管を吸っていた。
「あらあんた出戻り? 実家に追い出されたの? それで何で新人兵官さんと居るの。客引きして働かせて下さいって頼みにきた? 印象無しのババア年でこのお店の新人になるのは普通は無理だけどあんたには色春なしの腕だけで得たご贔屓が結構いるからね」
「夕霧姉さん、憎たらしいことにのんびり海や南地区観光をしてこれから帰宅ですって」
見下ろして話すと嫌がられるので腰を下ろした。何かを察したネビーも正座。
ユラはネビーの隣にしなっぽく座り彼の腕に両手を添えてニコニコ笑顔。見たら睨みそうなので無視。
「こちらの方は実家が煌護省にお金を払って派遣した護衛の方です。この店を出たのに帰らないからこのように強制連行。その前にもう1度ご挨拶に来ました」
ふぅ、と夕霧花魁に煙を吹きかけられた。
「ずっと嘘つきのろくでなし娘。お嬢様の護衛が男な訳ないじゃない。ユラはそんなことも気がつかなかったの?」
「気がつきませんでした。でもウィオラは帰ると言いましたよ。今もです」
「まあこの新人兵官さんを見てお座敷へ連れてくるのは良くやったわ。ふぅ子、おいで」
夕霧花魁は夕霧ふぅ子になにやらヒソヒソ話をした。「あい」と返事をした夕霧ふぅ子が部屋から出て行く。
「……お嬢様? そういえばいつのまにかお嬢様……」
お嬢ちゃん、箱入りちゃん、冷やかし娘に傲慢女と色々呼ばれていたけど気がついたらお嬢様呼びが増えていた。
実家で「ウィオラお嬢様」と呼ばれ慣れていたから無頓着だったようで今さら気がついた。気がつくのが遅い。
「黙っていろと言われていたけど遣り手に紛れてあんたの見張りがいたよ。何も知らないお嬢様。私達を冷やかして面白かった?」
チラリとユラをみたらニコッと笑顔を返された。……。彼女も知っていたのか気になったけど気にしないで見なければ良かった。ネビーから離れて欲しい。
「ええ。自力で歩いていると思ったのに歩行器付きの世間知らずのお嬢様でした。芸の肥やしにさせていただきます」
「花柳界も色恋飛び交う魔境よね。事情は知らないけどここに連れ戻されたってことはここでまだまだ稼いでいろってことよね?」
実家へ帰ると言って去ってこの姿でこの店へ来たから何やら誤解されている。
またしても夕霧花魁に煙草の煙を吹きかけられた。私が苦手だからとよくある行為。軽く説明しようとしたら夕霧花魁が先に口を開いた。
「嘘つき娘が喋らなくて誰も知らないから楼主や内儀すら事情は分からないけどまたここでカゴの中の鳥? 女学校の先生はどうしたのよ。太夫が追い出したのに出戻りだなんて」
「太夫? 太夫が私を追い出したのですか?」
……。
「聞いたぞ、君は区立女学校の講師になりたいそうだな」と私は馴染み客にそう話しかけられて贔屓を頼むことにした。
あのお客はそうだ。太夫のお客で芸だけ欲しい時もあるからと私を呼ぶようになった。それすら太夫? そうなの? なぜ?
「ぼんやり娘を掌でころころするのも手練手管と呼ぶのよ。頭が回るようでも抜けてる所詮は箱庭お嬢様。あんたがいると色々邪魔だからだよ。追い払ったのに連れ戻しとは」
「置き屋所属になればあたしらに虐められないのに頑固者の変な女だって皆そう言ってたよ。女学校の講師になるなんて嘘なのか地蔵だったし。でも本当の気持ちもあったのか出て行ったからようやく地蔵はやめたんだなって思ったら連れ戻しか」
「梅園屋が住まいまで用意したはずなのにどういうことよ」
「ウィオラ姉さん。皆来ました」
戻ってきた夕霧ひぃ子に声を掛けられたので絵飴入りの瓶を渡した。
「部屋の前に集まってくれた皆でね。珍しい瓶はお稽古部屋にお花を飾るのに使うと良いですよ。皆のもの」
「あい。ありがとうございます。ウィオラ姉さんとお話は出来ますか?」
「ええ、もちろん。今はお姉さん達と話しているから後でね」
「あい!」
「みぃ子も行きなさい」
「あい、夕霧姉さん」
嬉しそうな夕霧ひぃ子が部屋外へ出て行った。隅で大人しく座っていた夕霧みぃ子も夕霧花魁に浮絵を差し出してから部屋の外へ去った。
「荒稼ぎ出来るからここで捨て奉公人? でも見張り付き。それにあんたは借金無しで街の出入り自由。色々腑に落ちないのよね。答え合わせをして頂戴」
「ずっと帰宅するなと言われていて今度は帰って来いです。実家へ連行です。でも就職の話をして予定通り女学校で働くつもりです。こちらの方は護衛兵官です。男性なのはお金とコネと空き状況の都合です」
「ふーん。この嘘つき。薄情者の裏切り者」
「夕霧姉さん」
ユラは顔をしかめてくれたけどその通りなので何も言えず。
「ねぇ、浮絵になっている新人兵官さん。他にも話をしたいけど……あら太夫さん。ご機嫌ようです」
振り返るとほとんど音も無く襖が開いた。そこに立つ太夫が私を冷めた目で見下ろす。彼女は次にネビーを見てから縄に視線を移動させた。
「太夫、出戻り連行かと思ったら実家へ連行だそうですよ。本人は女学校の講師になるから実家に挨拶をしたら戻ってきて働くと。家に逆らって家出なんて大嘘ついて講師になるって言って地蔵だったからまた嘘でしょうね」
家に逆らって家出なんて大嘘……クララが知っていたように夕霧花魁も何か……太夫も?
捨て奉公人と思われていたみたいだからそっち?
太夫はスッと移動して夕霧花魁の隣へ腰掛けようとした。そそそっと夕霧花魁が膝掛けから離れて少し端へ移動。太夫は私の目の前に腰を下ろした。
「先程女学校の講師は太夫のおかげだと教わりました。ありがとうございます。来月頭から働くので店を出た日から新しい場所で生活の練習をしています」
「観光して実家に連行って言ったそばからそれとはこの街の住人らしく嘘つきねぇ。ねぇ太夫さん」
「その縄でどの口が。傲慢高飛車菊屋荒らしは今度はどこを荒らすのやら。そちらの新人兵官さんもどうせ何も事情を知らないのでしょうね。私兵とは権力者に金を積まれて理由も分からずおままごとを見張ったり自由に飛ぼうとした鳥の羽を容赦なく切り落とすからねぇ」
太夫が夕霧花魁の煙管をそっと奪って煙草を吸ってネビーに煙を吹きかけた。彼はそれでもすまし顔をしている。
分かりやすくないこの表情は多分仕事用のお顔。花街に入ってからネビーはこの感じだ。
私は自分への誤解をどうしたものかと悩み中。ネビーが何を考えているのかも気になる。
「お兄さん。この店でしばらく遊び放題とそれなりの金色を積んであげるから白鳩の羽を切らずに逃してやってくれない?」
しばらく遊び放題? 金色はお金のこと。白鳩?
「太夫さん? 私は裏切り者です。薄情者なので自分の人生が大事でもう十分だと目を閉じて背を向けてこの街を出ました。楼主と内儀に偽善で理を破壊すれば逆になると説明されて徐々に納得です」
太夫にプイッと顔を背けられて無視された。
「お兄さん、この娘がかなりのお嬢様なのはご存知?」
太夫は艶やかな笑顔をネビーに向けると夕霧花魁が使っていた肘掛けにしなだれかかった。
はだけ気味の肩周りや胸元が今日も今日とて美しく真珠のように輝いている。
「ええ、そのくらいは存じあげています」
ネビーは顔をしかめて目も閉じてしまった。
「家から叩き出された捨て奉公人なのに稼いだ大金を家に貢ぐし腕や知恵で自由になると言いながらお金を湯水のようにこのお店に落として素知らぬ顔。最初から虐められているのにお地蔵さん。地獄にせっせと華を咲かせようとして自らは枯れていく。だから追い出したのに出戻りなのか実家に連行なのか女学校の講師の肩書きをつけて南3区花街へ殴り込むのかなにをするやら」
なぜか分からないけどかなり誤解されている!
「お、お、お見合い結婚します! じ、実はこち、こちらの方と秋から文通をしていてついに結納お申し込みをされました。なので実家へ挨拶に行って帰ってきて裏切り者の薄情者として南地区の下街でぬくぬく私欲を肥やします。観光も単に彼との浮かれお出掛けです」
太夫が煙管をパシンッと掌に叩きつけた。
「嘘か誠か知らないけど虫唾が走るあんたの悪癖はそういうところだよ! 花形兵官を利用して街自体に殴り込みかい! 薄情者っていうのはあんたが地獄から逃しても何にも気がつかない間抜けや文の一つも寄越さないアホンダラを言うんだ! 裏切り者って言葉は恩を与えられた者に対して使う言葉よ。あんたがいつこの店や女達に恩を与えられた!」
「ずっとここが私の居場所でした。多くを学び、慰められ……。太夫さんが就職先の斡旋を手助けしてくれたのもそうではないのですか? 知らなくてすみません」
「お黙り! あんたみたいのはどこにでも家を作れるんだよ! 楼主達の口に乗せられて店の格上げに利用されて縛られて、店の仕組みを破壊する邪魔者になったからやんわり追い出し。目が腐っているし頭も狂っているから腹が立って頭が痛くなってくる」
数日といえど通りがかりなので具合が悪くなった知人がいるとか最悪亡くなった者はいないか気になったのと、遊楽女達にせめてお菓子くらいと思ったらロクに話したことのない太夫からこのお説教。
私は通り道だから寄っただけ。わざわざ来た訳ではない。なぜ?
それを伝えれば良いのか。
「あのー、つまりウィオラさんは稼いでこのお店の方々の借金返済をしていたということですか? 退職金を半分置いていったという話は聞きました。半分は自分のために使う分だと」
話をしようとしたのに横入りされてしまった。ネビーは目も口も開いたけど太夫と夕霧花魁から顔を背けて私の肩を見つめてた。
「保身第一で過剰な分だけです。新人遊女達だけになるとか楽ちゃん達が働かずに店から去り続けたら店自体が潰れて受け皿が無くなり結局逆に多くの者を不幸にすると学んでやめました。救援破壊は一心一体という当たり前のことにも気がつかない浅知恵の偽善者で志もないから己可愛さに店を去っ……」
「それだよそれ! 納得して出て行ったと思ったら数日で出戻り。どうせ誰かがあまりに悲惨なら貢いでいこうくらいだろう。それでお兄さん、本気でこの狂女を手に入れるつもり? のこのこ連れてくるバカに渡す気はないよ」
太夫は夕霧花魁が手に持つ浮絵を奪った。
「真っ赤なお顔にかなりの動揺と嘘つきの時に出る目元の小さな痙攣だからウィオラから見て恋仲なのは本当でしょうね。残念ね夕霧。花咲女が残した退職金で檻から出られるから屯所へ行こうなんて言っていたのに」
ひらひら、ひらひら、太夫は夕霧花魁の前で浮絵を揺らした。私からはどのような絵なのか見えない。
「夕霧さん、店を出るのですか? 楽ちゃん達がいるからって……。それで……」
夕霧花魁はにこにこしている。宴席でネビーの隣にいたのは誰だっけ?
入れ替わり立ち替わりの後は皆ほぼほぼ固定していた。私は彼がお気に入り、というように。格下で負ける者はともかく夕霧花魁はこのお店の3番手だから絶対にその夜に目を付けた相手の……えっ?
「ああ、思い出しました。仕事をもう辞められるから人生で初めて花街から出るって。知識はつけてあるけど自立は不安。予想外の若さだから身請けで不自由な目に遭うより自分で道を切り拓きたいって。俺に世間は怖い? って聞きましたよね? 顔は覚えていないけど声はなんとなく」
ふーん。そうなの。あの夜夕霧花魁はネビーに張りついていたの。
「この私を忘れるなんて本当に釣れないわね。美女と喋っているだけで至福。羽織りに香りがつくのが嫌だから離れて下さいとか誘惑されるのは困るので着物はしっかり着て下さいだから男色家かと思ったらウィオラの男って本当?」
夕霧花魁にも冷え冷えネビーだったのか。へえ。そうなの。
「あらまぁ。私にうんと気がありそうだから店を出たら住まいを南3区の6番地にするとか、頼られたいみたいに言われたから屯所通いをしてあげようかしらとか言っていたのに」
「そりゃあこの夕霧に氷のような態度を取るなんて腑が煮えたから絶対に跪かせて我慢出来ないからどうか抱かせて下さいって泣かせようと思って」
夕霧花魁に睨まれて鼻を鳴らされた。ネビーは2人を見ないで私に向かって苦笑いしている。
「まあお兄さん、遊び回る花形兵官なのが気に食わないしおまけにバカみたいだからそちらの地獄華は渡せません。よければ夕霧をどうぞ。自慢になるし床は楽しいし浮気しようが遊ぼうがそんなに気にしないので。ご愁傷様。楽達、おやりなさい」
地獄華ってなに? えっ?
振り返ったら太夫のふぅ子とひぃ子が部屋に入ってきて着物の帯をほどき始めた。
「新人くらいなら私の勝ちよお兄さん。知らぬ場所で騙され堕ちるのは仕方ないけどこの店から離れられないならこの華を散らす訳にはいかないわ」
「ちょっと待った! 本人が余り浮き金で何をしようが勝手です。貯金してあると言うていました。彼女が恩のある人達を見捨てるのが心苦しいのならいっそ一緒にお金を落とします。店破壊にならない範囲で。結納祝言したいので難癖は困ります! ウィオラさんすみませんが失礼して触ります!」
急に抱き上げられたと思ったらネビーは素早く太夫と夕霧花魁の後ろへ移動して障子を開け放った。強い春風が部屋の中へ吹きつける。
「彼女に自分のことを大事にして欲しいということなら今教えてもらったので気をつけます。そもそも家出経緯からしてそういう性格なのも少し理解しています。足りない分は知っていきます。退職金を半分だけ置いていくみたいに自己保身をしっかりする方なので問題無いです!」
狭い露台へ出るとネビーは太夫達と向き合った。
「こちらも後ろ盾は煌護省と中央裁判所とこれまでの調査報告書が大量にあるので難癖に負けない自信はあります。誤解で対立は困ります。遊び回ったことはないし今後もそのつもりは無いです」
ネビーは露台の柵を越えて屋根の上へ移動。
「通り道でしたし心配事があるようなお顔だったので一緒に来ました。幼女の裸は見たくないのと話が十分ならこのままこちらの出口から逃げます。ウィオラさん、今夜の俺は逃げます。まだ話があれば帰り道にまたどうぞ」
「いえあの、薄情者の裏切り者なのでもう目を閉じて見ないフリをしていこうと。私はお人好しではないので。今夜みたいに近くを通る時や不意にどうしても気になった時にお菓子を配るくらいにしようと。生きていくにはお金が必要ですしこの街で現実を思い知らされました」
「あらまあ素早くてド派手な兵官さんだこと。バカは撤回するわ。ウィオラ、半年もよく隠していたわね。正直者でお顔に出やすいのにたまに嘘が上手いのは不思議」
私は微笑む太夫に向かって首を横に振った。
「また嘘をつきました。彼とは夕霧さんと同じ夜に出会って引っ越したらまさかのお隣さんです」
「楽達。お下がりなさい。もういいわ。ありがとう。あらあら、それで? 男に触られると青ざめてえずいていたのに平気どころかその紅葉みたいなお顔。必死そうなお兄さんといい少しは真実味があるわ」
「あの晩気になって次の日に突然お隣さんとして現れたので口説いて良いかと聞いたら誠実になら口説いて良いと言われたので彼女の実家にご挨拶をして結納を勝ち取って本格的に口説き落とす予定です」
この発言に太夫は声を出して笑い始めて夕霧花魁は顔をしかめた。
「そう? さらに残念ね夕霧。同じ日に出会ってこの格差。しかもお隣さんですって。まあ、あの夜地獄華に見惚れていたのは見ていたわよ。何人かいたわ。お兄さんはその様子だと清純とか清楚がお好みなのね。それでその縄はなにかしら? 誤解の原因の縄」
「夜ですし逸れたり攫われたら困るからです。業務上色々知っていますから過保護です。本人はイマイチなんて言うけど俺としてはかわゆい美人なので日銭稼ぎと間違えられたりその他も怖いです」
んふふ、と太夫は艶やかに口角を上げた。抱き上げられているのが恥ずかしいのに人前でまたこのあけすけなさ。ネビーは照れ顔ではなくて真剣な眼差しをしている。
「そうなのよ。誰に自尊心を踏みつけられてきたのか知らないけど平凡よ平凡。見る人によっては愛らしいから触れなくても客がどんどん増えたのに自覚がないの。滅多に喋れないのに熱心に通う若い紳士もいたのに見向きせず」
「えっ? そのような方はいたことありませ……いましたか? 私はどうやら家出して5年経過しても言動や仕草がお嬢様のようでそういうのが珍しいとか良いと思う下街……下街? このお店に来られる若い方はそれなりの身分の方です」
業務上の褒めはお世辞ではなくて本気も混じっていたってこと……。
ジエムに自尊心を踏みつけられて、ジエム贔屓の女性達にバカにされていたからということかな。
「悔し涙で私や他の女を抱いた男もいたわよ。まあそう仕向けたんだけどね。やはり腹が立つ女だねあんたは。私らが絶対に手に入れられない物を持ってるのに無自覚や自己卑下。芸の方は自信に溢れていて気持ちよかったわ。まあ少し気がついたみたいだから許してあげる。ある意味残酷な鈍感箱庭お嬢ちゃんも少しは成長ね」
「結納ねぇ。夕霧に横取りされないようにね」
「勝てない試合はしません。私の武器とウィオラの武器は真逆ですしお兄さんのそのお顔で分かります」
誤解は解けた?
それなら部屋で落ち着いて話をしたい。しかし見上げた先にあるネビーの顔に「難癖が怖いのでこの店に入るのはもう拒否」と描いてある。でも聞いてみよう。
「ネビーさん。誤解が少し解けたようなので部屋へ戻りたいです」
「油断しないことにしているのでこのまま帰ります。怖いから仕事でも2度とどの店の中にも入りません。ウィオラさんの付き添いで来るなら屯所へ寄って女性花官に預けて自分は屯所で待ちます。いきなり強姦魔にされるところだった。しかも幼女。俺が特に大嫌いな犯罪の濡れ衣なんて最悪です」
申し訳ないことをしてしまった。ネビーは心底不機嫌というかかなり嫌そうなお顔になっている。
「話をしたいならすみませんが帰り道に今告げた方法で。これは拒否されても譲りません。あとさらにすみません」
えっ? と思ったら片腕で子どもを抱っこみたいな格好にされた。ここは3階なのに器用に降りて店の前。力持ちだし降りられたことにも驚き。
露台から太夫と夕霧花魁に遊楽女達がこちらを見下ろしている。
私は地面に下ろされて立たされた。ネビーに軽く会釈をされて「すみませんが行きます」と促された。でも私の足は動かない。
「太夫姉さん! ウィオラ姉さんが攫われました!」
「花官さん! 人攫いがいます!」
遊楽女の叫びにネビーが「ええっ」と軽くうめいて振り返った。露台を見上げてブンブンと首と手も横に振っている。
「楽ちゃん達、逆ですよ! 違います!」
「ウィオラ! 私はしばらくこの店で遊んでいるからこれまでの分たまにお喋りに来なさい! 楽達がうるさいのよ。いつか見捨てるからと部屋に閉じこもって芸に逃避。花芸妓に頼んで外に連れ出させたら少しはマシになったけどあんたが思うより私らは自由よ!」
太夫は両腕に遊楽女を招いた。彼女達はいつかあの優しい腕から離れないとならない。引き離される。私はその現実を変えられない。
この街にはこの街の規則や救済があって仕組まれた世界を破壊すれば地獄だけではないこの街が混乱して良いところも失われる。残酷で理不尽なのに美しさもある世界。
だから私は逃げ出した。
「あの夜の曲にどんな気持ちを乗せてくれたか私達なら分かるよ! バカは気が付かないけどね! だから格下維持女は上に昇れない。その兵官さんに客を連れて来させてね。私もまだここで遊んでいるつもりだから。ちょいとあれこれ裏切ってでも欲しいと思った男はあんたに取られたみたいだからまた探すわ! ここまで昇ると下界より男を漁れるのよ!」
太夫と夕霧花魁にひらひらと蝶のように手を振られた。ユラはしかめっ面で私を見つめている。
「ウィオラ! 寂しいから行かないで! 実家で新しい道具にされるのかと心配したけど違うって信じるからまた近いうちに来て本当だと教えなさいよ! その人が本当に恋人ならカヤハン様に私を売り込んでもらって!」
店を去る時に「傲慢女が去るなんてせいせいする」って言わなかった?
ユラはみるみる真っ赤な顔になって泣き出してしまった。
「2度と金を過剰にばら撒くんじゃないよ!」
「ウィオラ姉さん! まだお話してないです!」
「新しいお稽古もお話もつまらないです!」
「お菓子は要らないから帰ってきて下さい!」
「楽達には私らがいるから気にしないで行きなさい。それで店荒らしにならない程度にまた来たり日銭を落として頂戴。私もいつでも自由に裏切るからあんたもこの店を出たように好きに自由に生きるのよ。またそこに華が咲くからね」
「そこにいると客取りの邪魔で目障りだから早く行きなさい。話が本当なら帰り道、昼間に来なさい。そちらのお兄さんも一緒でまた楽達にあそこのあんみつね。お披露目広場で道芸をしてお金を集めて寄こしなさい」
太夫と夕霧花魁、ユラにもしっしと手で払われた。格子の向こうの遊女達はすまし顔。
気がついたらお店に背を向けて歩き出して早足になっていた。世間知らずでニブイのはずっとだったみたい。
説明されて色々分かった。こうなると私は振り返ってお店に飛び込んでまた閉じこもる。
でも結局優しい世話焼き太夫に追い出されるだろう。多分太夫1人ではない。
「ウィオラさん好かれてたんですね」
「思っていたより……」
「ウィオラさんは触られるか触られそうになると青くなってえずいていたんですか」
「合気道で護身です……」
「地蔵だったのですね」
「多少です」
「俺が卿家になると合法的脱税が出来ます。説明が書いてある書類を読みましたよね? 売れるか知りませんけどあぶく銭の浮絵代くらいはあの店に落としても良いですよ。俺は店に入りません。ウィオラさんが宴席を設けてお喋りでもして下さい。昼間にお店であんみつに同席なら安心なのでよかです」
ずっと後ろを歩いてくれていたけどネビーは私の隣に並んで顔を覗き込んできた。この困り笑いの意味はなんだろう。
これは嫌だけど私のためならこれはしても良いという提案に胸が痛む。辛いのとは逆。代わりに後ろめたさがどんどん押し寄せてくる。
目を閉じてこの街から出て浮かれてさらに忘れていたのに苦しい。
「親父や母ちゃんに妹に譲らないで半分にしなさいって言われていました。そんな風に過剰でなければ良いみたいですよ。真の見返りは命に還る。幸せを祈られたから沢山笑いましょう。その泣き顔は好みません」
彼は羽織を脱いで私の頭の上から被せた。
「匂いは移っていませんか? 制服に色香は困るというか嫌で。ウィオラさんの匂いになりますように。おりゃあ」
羽織の上から頭を撫でられた。少し雑というか乱暴な手つき。でも優しい。うんと優しい。
私のせいで失礼なことをされたのに怒りもしないで先程の提案。
「そういえば買った女ってわりと何をしても良いんですよね? 店によっては暴力も」
「ええ」
暴力? ネビーはしない。短期間で確信している。お金で女買って乱暴に扱うなら貧乏性だから寄ってくる女を無料で使う。それで乱暴はしない。無料で使うことすらしない理由はちょこちょこ聞いている。
「俺達も夕食をとるから楽しくお喋りしてくれる方を呼んだらどうですか? 昨日話した特定の女性との交際費が貯まりに貯まっているのでその範囲なら。俺はお人好しではないし貧乏性なので予算内ならです。あの行かないでって方、最初に話しかけたから特別親しくしていたんですよね?」
私は羽織の内側で目を丸くした。これをお人好しと呼ばなければ何をお人好しと呼ぶのだろう。
「彼女は昨年の今頃にお店に来て八つ当たりで殴られた私の為に怒ってくれました。あと私にたかりません。自分でもしていましたけど追い払ってくれました。片親でその父親が足を痛めたから家計のために身売りして格を上げて店を変えて……」
「借金登録者ではないから出て行かないと。足が動かなくても手が動くなら働き先はありますよ。その話が本当なら。誰でもは無理でも贔屓する理由があれば別です。まあ少しは交流しないと分かりません」
「それって……」
「彼女だけとか恩着せとか偽善とか難しいことは考えないで友人に会いに来たとか友人の力になりたいと思えばよかですよ。身分や立場や経済状況などあれこれ気後れするのは少しは分かります。嫌なら向こうから縁切りされます。どうしますか?」
首を振ろうとしたけどやめて首を縦に振った。
「このままは行けません。でもネビーさんの気持ちを尊重したいからお店には入らせません。彼女にもう少しネビーさんを紹介したり話をしたいから私が買います。自分で払います。彼女が嫌だと言わなければ彼女の生活環境を助けて欲しいです」
「ない袖は振りません。高級な装飾品より嬉しそうな気がするからその代わりです。あと先程の方々を怒らせますし。なので夕食代をお願いします。天ぷらがよかだな。大海老とたけのこ」
天ぷらって今私達の左手側にあるお店のことだ。菊屋から近いので許される距離だろう。
ネビーの地区本部兵官という立場で足抜け幇助をしたらクビどころか死罪なのであっさり許可されそう。
彼に提示されるまでこういう発想は無かった。知識はあるのに使いこなせないおバカ。来た道を戻る彼について行く。
「あのネビーさん……」
「どんな時間を過ごしていたのか俺も気になります。八つ当たりで殴られたか。女性なら平手打ちですか?」
「まあ、はい。たまにある話です。鬱々としている方からしたら腹の立つ立場でしたから」
「それでも置き屋には逃げなかったと。ご実家にはウィオラさんを帰宅させられない理由がある気がしてきました。見張りをつけていたなら色々筒抜けです。ウィオラさんがお姉さんにあれこれ隠したとしても」
そうかもしれない。私は視野が狭かったと今夜もまた思い知らされた。そうして私達は菊屋へ逆戻り。
見世番に声を掛けて店の前で楼主と交渉。ネビーに提案してされて有している知識で考えた通りあっさり許可された。
先程鐘が鳴ったばかりなので次の鐘まではユラはネビーのもの。
身分証明書で確認が取れたのと、そもそも先日来たのを覚えている地区本部兵官だから馴染み客ではないけど近くのお店に連れ出し可。
見世番がお店に迎えに来るので不在だったら煌護省へ通報。
私はこうして夜初めてユラとお店の外で食事をとった。




