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女学校へ向かう途中からロカが友人達に混じったのでそこからはネビーと2人きり。手提げ以外の荷物は彼が持ってくれている。
女学校の校門前に到着して特に経路も時間も問題なさそう。仕事開始までこの練習はしていきたい。
出産後の様子が思ったよりイマイチな方が休みを延長するのでその代わり。
年の途中からの臨時講師かつ音楽担当としての試験採用なので私はあれこれ準備や生徒のお出迎えなどを開始する9時からの勤務ではない。
代わりに少し安い給与になる。貯金を少しずつ崩して近くの琴門に素知らぬ振り、独学ですと入門して南3地区の琴門関係の仕事を得られるようにする。
花街周りは花柳界系ばかりみたいなので女学校の講師になれたらその地区の通える範囲の琴門で下っ端になるつもりだった。それは仕事に慣れてから開始。
でもかめ屋で芸妓の道があるならそこから置き屋に引き抜きとかありそうなので、どこかの琴門で下積みはしなくて良いかもしれない。
「へぇ、兵官みたいに8時間固定とかではないのですね。それから先をしっかり計算していて感心です。まあ、でないと家出して縁者なしから5年は難しいか。」
「女性しか働いていないので月のものが酷いとか妊娠出産子育てがあるので色々な時間帯の方が混じって仕事も必ず2人以上で担当するそうです。代わりにこれだけでは食べていけないので皆さんご結婚されているとか他の仕事もしているそうです」
「ウィオラさんも結婚の方ですし俺は稼げるのでまあやりたい事を好きなようにというか、まぁ……」
嬉しはずかし!
女学校の講師は月のものが終了するくらい年配になって家庭の事情が許せば9時から16時までで月曜日から金曜日まで全担当となり指導監督係みたいになるそうだ。他の区立女学校や私立女学校は知らない。
給与は契約時に決まった日給を出勤日数で月末最終日に前日分まで支払われる。
区立女学校講師は公務員で臨時講師も凖公務員扱いなので残業は基本禁止。残業しないように上司が采配してくれるそうだ。
15時までは授業があってそこから1時間は16時の鐘の音が鳴らなくても任された仕事が早く終わっていたら帰って良い。
上司の采配も過剰に贔屓はされなくてある程度基準があるので定められている最低業務が出来なければ容赦なくクビになる。日々記録されて監査されるらしい。
「へえ、区立女学校の先生って公務員だったんですね。ロカが通っているのに知らなかったです。自分に必要な事ばかりでいっぱいいっぱいなのでダメだな俺は」
「私もダメダメなところ、世間知らずさをどんどん発見しています。上司は女性中級公務員だそうです。学校長になるには女性上級公務員試験です。私は初級を取得しました。それで基礎講師認定と音楽担当認定になっています」
「おお。働きながら資格を取ったと言うていたのはそれですね。女学校在学中はそういう試験は受けないものですか?」
「はい。元服後からなのと試験月が1月末なので皆卒業後です。私の通っていた学校だと家業関係でお手伝いとか働くので誰も受験勉強をしていませんでした」
「ウィオラさんはしていたのですね」
「ええ。婚約破棄で大踊りしてその年の公務員試験は受けず。失敗です。区立女学校の採用試験はその地区に1年以上暮らしていないといけないので家出2年目から挑戦です。下調べで自分の先生達に確認したら私立はさらに贔屓採用世界。何も知らない方からむしり取りだそうです。なのでそちらの採用試験には挑戦すらしていません。お金の無駄です」
今日のネビーはずっと私側の手で荷物を持ってくれているのでツンツン触る練習はしづらい。お風呂前なのもある。
具合が悪い以外でお風呂に入らないで寝たことは初めてだったので恥ずかしいし汚い気がしてしまうので私も彼から少し離れている。
毎日お風呂に入れるのは贅沢なことなのはもう知っているけどこの価値観はうんとお金に困らなければ中々変えられなそう。
ネビーは「徹夜で飲んだので目を覚ますのも兼ねて鍛錬前と後に川に入りました」らしい。この時期の水温には慣れっこで風邪を引かないらしいけど心配。
私と逆で大貧乏で男で体も丈夫な方で長屋の近くに川があるからお金が増えても風呂屋は贅沢というか「行かなくても済むなら行かなくても」という価値観。
家に風呂を作って家が長屋の側なら家族の後ならどうぞとお金をむしり取るちび風呂屋もあり、とネビーは笑った。家の中ではなくて離れみたいに外に作るとか。
それで2人ともお金がある時も無い時も分かるから色々模索出来ますねと言ってくれてトキメキ。
「家出準備を前々からってかなりその元婚約者が嫌だったのですね。なぜか聞いてもよかですか?」
「私としては非常識だからです。あとは乱暴者だからです」
「乱暴? まさか殴られたことがあるんですか? それでも婚約継続?」
ネビーは顔をしかめてくれた。
「強く握られて腕とか手首にあざが出来たとか顔を掴まれたくらいというか、私は両親に文句を言って父に対応すると言われたけど効果なしです。犬に守ってもらったりとにかく付き添い見張り付きを徹底です」
アニは元気かな。前々回の手紙には元気と書いてあった。姉が拾って姉に1番懐いているし旅先で何があるか分からないから家出には付き合わせなかったけど連れて行くかかなり迷った。
「くらいってくらいじゃないですよそれ。あざが出来るって。すぐ怒る男ってことですか?」
「まあ、怒っていた気がします。地蔵というか右から左に聞き流したり雑な対応をしていたので。芸の肥やしになるから色事をさせろ的なこととかとにかく年々嫌いになりました。歩み寄らなかった私も悪いのかなと思いましたけど思い出してもあれは無理です」
ジエムと過ごした日々が蘇ってイラッとして見つけた小石を軽く蹴っ飛ばす。
「うーん。それでも無理矢理結婚させたかった……。そういう両親ですか? 味方はいませんでした? 手紙をやり取りしているからお姉さんですか?」
「祖父が軽く反対してくれていました。両親は彼にそういう所を直させるようにするからと。だから必ず付き添いありです。姉はその件はなにも。私も勝手に家出準備で相談してなかったから悪いです」
「相手は相手で破談でもよかだったってことですか? いくら格上相手でも結納は契約です。事業をしていれば評判も関係ありそうですけど」
「彼は私より私の才覚が欲しいみたいな感じだったので婚約破棄は嫌なのか向こうの家か彼の常識くらいまでの要求だから、みたいに一応まぁ大人しかったです。役者だから経験が大事だとあちこちで女性遊びしていました。未成年だと向こうの家でも非常識なのに嘘つきです。私が難癖婚約破棄しないようにか向こうも途中から見張りをつけました」
「あざが出来るのは大人しいとは言いません。うーん、家や門下生のためだからそれは言わなかったですか?」
「まあ、はい。相手の家の常識程度は受け入れたり歩み寄りなさいと言われたくなくて。私に合わせてと主張して怒らせてむしろ1回殴られないかなくらいに考えていました。そうなったらさすがに婚約破棄になります」
つまり私も悪いなこれは。
「ウィオラさんも悪いですね。世界が狭くてどうしたらよいか分からなかったとはいえ。でも子どもは助けてと言い難いものだし親の期待には応えたいし……。親というか家族も悪い。付き添いだか見張りもなんだかな。難しいな。相手もここまでなら横柄でも平気みたいな強かさがありそうだし。皆悪くて悪くないってよくある話です」
「相手の要求だった女学校卒業後に祝言ではなくて4年後の20歳の予定だったとか色々腑に落ちないので何か隠し事をされている気がします。私も姉も弟も両親に大事に育てられてきました。家出して色々知って身にしみています」
相談したりもっと助けを求めたり疑問を抱いたりするべきだった。今も昔も子どもみたいだ、という話もする。
「家のジンは捨て奉公人なんですよ。あいつの親、金はたまに無心してくるけど逆は無いしほぼ会いにこないし手紙もなし。でも奉公に出す時は評判の良い店を探して3日間も土下座したり孫が生まれたら会いにきて泣いたりよく分かりません。長男が横柄なのと割と出来が良かったジンを嫌っているみたいで板挟みなのかなんなのか」
「捨て奉公人? ああ、奉公に出してそれからは捨てたくらいの扱いということですね。ジンさんはそのような人生を歩まれているのですか」
明るい姿しかまだみていないけど彼は捨て奉公人なのか。奉公は12歳からだからその頃から親と離れて頼れる者もいない中生きていたということになる。
この単語を初めて知った私はやはりまだまだ世間知らず。
捨て奉公人でも家庭を持って子どももいて幸せそうに見えるとは花街の地獄側から脱出出来た者みたいなことなのかな。
「私には密かに見張りがいた疑惑ですがジンさんは頼れる方もいない中ですか……。12歳からですよね?」
「ひくらしの大旦那さんは大変人柄が良くてジンみたいな真面目な頑張り屋をうんと大事にします。捨て奉公人かもと思ってからはかなり気にかけてくれてあれこれ世話焼きしてくれたと。今は我が家の男なので大旦那さんのその優しい手は他の子に差し出されています」
「まあ。それを聞いたら私はそのお店から買いたいです。お父様やルカさんとジンさんの奉公先というだけで贔屓しますけどさらに」
ネビーはこの話を言いふらしてひくらしというかヘンリ・ロブソンの評判上げをしているそうだ。
ひくらしは祖父の代からそうやって徐々に大きくなり腕に対して安月給でも売り上げからの割合も分かっているのでこのくらいならまだロブソン家のために残る、みたいな奉公人にも支えられている。
レオもその1人。大貧乏時代に引き抜き話があっても断ったという。逆に「お前になら無利子で貸す」とか「家計が変な気がするけど借金をしていないか?」と気にかけられていたとか。
商売の基本のき。こき使い系の大商家はいずれ潰れる。客も奉公人も離れるし、下手すると「悪い事をしている商家」と役所に告げ口されて報奨金獲得とか利用される。
我が家も同じなので基本のき、は祖父母両親から叩き込まれてきた。
「両親とジンの関係にジンの現在の人付き合いだと何かあってももう実家に帰ることはないから今は仕送りしていないのでほぼ縁なしです。でも1度やめた手紙は送っています。孫に会いにきておめでとうと泣いてくれたからと。返事はないです。両親が同じ親でも分からんって」
彼の知っている話で「愛情があるのかないのか分からない親もいるみたいだ」と私に伝えたいのだろうか。
「実家へ帰ったら何か分かると思っています。1人でしたら怖くなって門の前で周り右だったかもしれないので今回の件は有り難いです。何があるか分かりませんがよろしくお願いします」
返事がないので俯くのをやめてネビーを見上げた。こちらを見ていたようでパチリと目が合う。
微笑みなのでキュッと胸が痛くなった。嫌な痛さではなくて真逆。
今日もネビーは「ネビーさん」とか「よおネビー」みたいにご挨拶をされるけど彼と会話を始めそうな人は今のところいない。
「悪い理由があってもジンが我が家の家族になって両親が息子と呼ぶようにウィオラさんも大丈夫です」
この言葉を伝えるためにジンの話をしてくれたのか。ひくらしの評判上げもあるし、私に知り合いが出来たら広めて欲しいのだろうし、あとはもしかしたら家族になる人のことだから?
「俺と上手くいかなくても世話焼き両親に世話焼き妹達。帰って来いって言うてくれたという菊屋に梅園屋もありますし女学校でもきっと。思いやりのある真面目な努力家は誰かが見つけて助けてくれます。自分なりに誰よりも大事にしますし乱暴は絶対にしません」
家族や親は全てではない。ジンの両親のように何かしらの理由があって愛情と事情の板挟みかもしれない。そう伝えてからこれって嬉しさで胸が苦しい。
「ネビーさんに乱暴をされたら私はどんなに優しそうに見える男性でも全く信じなくなります。短期間でもうそのくらい信用しています。5年かけてここまで男性に慣れたのが逆戻りどころではないです」
「ふーん。それなりには男性と交流があったと言うことですね」
ネビーは前を見据えて少し顔をしかめた。ヤキモチ?
「お話するだけのお客様とか菊屋の当主や働く方などです。八百屋や魚屋の方と話すのと同じです。ネビーさん達も私に話しかけてきたので話しましたけど、あの程度も最初は無理でした」
「俺もそうだ。話しかけました。それで触られたりしたら合気道か。結納したらその分くらいは触るつもりなので心の準備をしておいて下さい。あざとか許せん」
その分くらいってどのくらい⁈
ぼぼぼっと顔が熱くなった。体も熱いかもしれない。それでお風呂屋に到着。ネビーに店前の長椅子で試験用の本を読んで待つからのんびりどうぞと言われた。
預けていた荷物と自分の手提げを持ってお風呂屋で早めを意識しつつ髪も洗った。
暖かいからわりと早く乾くだろう。しっかり拭いてデオンの家までに乾くか不明なので前髪ごと編み込んで片側へ横流しの三つ編み。
手鏡を見ながら薄化粧をして「そろそろ前髪を切ってもらいたいな」と思いながら身支度終了。なぜが他のお客にジロジロ見られたけど気にしないことにする。
「お待たせしました」
私がネビーの前に立つと彼は本を閉じて立ち上がった。
「雰囲気が違います」
「乾かなくても失礼にならないようにしました」
秘密の話みたいな手や体勢をされたので何かと思って耳を寄せたら「好みです。かわゆい」という褒め言葉だったので嬉しはずかし!
ジエムは私が学校の流行りの髪型の練習をしても「なんか今日お前はよりブサイクだな」だったので「貴方のためにしていないから」と心の中で毒づきながら「そうですか」と聞き流ししていたのに相手が変わったら素敵なことばかり。
出会った頃、結納前は乱暴や暴言は無かったけどいつから始まったんだっけ?
たまに考えて「私が無自覚になにかして傷つけたせいかな」と悩んで思い出そうとしても特に思い出せない。今日は思い出さなくていいや。
恥ずかしいけど素敵。ネビーはまたしてもかなり照れ臭そう。彼はそっぽを向きながら草履で道を左右に撫でている。
「髪なのか肌なのかなんだか良い香りがしました。高級品の中の高級な石鹸とかですか? ルーベル家には安めらしい石鹸があります。我が家は実とかで代用。貧乏性継続ってやつです。しっている石鹸と匂いは違います」
「私も高いし合わないので石鹸は使いません。肌に合っているから米糠です。髪や肌の艶や自分の気分のために薄めた蜂蜜や椿油に香水を混ぜた物を髪や肌に使うと良いと教わって合っているようなのでその贅沢はしています。顔がイマイチなので他はしっかり手入れしようかなと」
「肌……手がしっとりしていたのもそれですかね。喋るなって口を覆われた時に思いました。指先が割と固かったのは努力の結果としても他が」
彼が歩き出したのでついていく。さり気なく荷物を持ってくれた。
「まあ顔がイマイチとは誰が言ったのか知りませんけどさっき言うた通りなので。ルルをブサイクとか人形みたいで怖いとか苦手な顔とか言うやつもいますよ。俺の横幅2人分以上でないと女として見られないとかもいます。女性も多分そう。俺は俺をイマイチだと思うけど職業を知られてなくてもモテる時があるので」
「はい。ありがとうございます。人生の嬉しさの数が足りなくなってしまいそうです。あの、職業を知られてなくてもとはどのような時ですか? か、か、格好良い時なのでしょうから見ることが出来るなら見てみたい姿です……」
気になる。とても気になる。本日初の両手で顔隠し。ただ半分で済んでいる。成長した?
「剣術大会とか誘われた火消し行列に参加時です。結納後に稽古を見てもらおうと思っています。乱暴はしないと言うたけど仕事上乱暴をするので怖くないかとか嫌じゃないか確認してもらおうかと。俺の仕事は人を守るために人を傷つけるので」
今日もネビーが人から好かれる理由がどんどん分かっていく。彼は基本的に気遣い屋さん。仕事柄多くの人達に接しているからか視野も広そう。
嫌いな人は嫌いだろうな。眩しい人は妬まれ、僻まれ、足を引っ張られる。人は生まれながらに悪なので仕方ない。
お人好しを利用してやろうとか自分が楽をしたいから背中におんぶとか狙われる。多分ネビーはそういう事も理解していそう。
過剰なまでに女性を避けていたのがその証。現に美人局被害に合って裁判に発展した過去がある。
そういう事件だと男性は女性に泣き寝入りし易いのによく自分の正しさを証明したなとも思う。
「必要な暴力もあるというか誰かがしてくれないと理不尽に傷つけられる者が沢山いるので兵官さんがいないと皆さん困ってしまいます。どのような危険があるのか理解していませんが危険なのは分かります。なので怖いではなくて心配です。稽古を見学させていただいたら安心するかもしれません」
ネビーはしばらく無言。照れ臭そうな笑みを浮かべながら頬を指でかいた。
「良いところを見せようとして張り切ってすっ転んだりしないようにします。いや見せた方がよかなのかな。自分を飾っても無駄です。良く見せる努力はするけど俺は俺です」
「見惚れて倒れないように部屋の隅にいるようにします」
ポカポカした春のひだまりの中で気温やそよ風と同じような散策とお喋りで幸せだなと感じた。




