17
桜を見て小さな山も通って海。桜も草木もなんだかいつもと違って見えたけど海の水面はあまりにも輝いて見える。
「海ってこんなに綺麗だったっけ? 馬の上だから? ああ。ちはやぶる。ちはやぶるは単に景色の龍歌ではないとはこういう意味なんですね。無理矢理読まされて内容は苦手なんですけど」
ちはやぶる神代もきかずマルム川唐紅に水くくるとは。
紅葉草子に出てくる龍歌。マルム川の一面が紅葉で真っ赤になってしまうなんて、龍王神様副神様の時代にも聞いたことがない。それ程美しく幻想的な景色だ。
マルム川は紅葉草子の主役が初恋の人と出会った場所で、この国のどこの川なのか、それとも異国の川なのか不明らしい。
恋人同士や夫婦で見ることが出来たらより強い絆で結ばれるという川で2人で訪れた川に紅葉を浮かべて見立てたりする。
景色の歌だけど紅葉草子では「私の燃える想いが激しい水の流れを真っ赤に染め上げてしまうほど、龍王神様副神様の時代からと思えるくらいにあなたをお慕いしています」と語られた有名な恋愛龍歌の1つ。
つまりネビーの今の発言は恋をすると景色が燃えるように見えるなんて聞いていたけどこの海の輝きを見るとその通り、みたいなこと。
素敵。ネビーは決しておバカではないと思う。おバカなところもあるけど桜の枝に龍歌に続いてこれとは雅で素敵。
ジエムはこんなことしたことも言ったこともない。比較対象が酷すぎるからネビーの輝きが凄いことになっている。
「かけ落ち準備や練習をしないのかとか根回しは? と私もあまり。同級生は共感していましたけど。私が通っていた女学校の生徒だと私みたいに家の為に結納している子が多かったので」
「ウィオラさんは肝っ玉ど根性娘みたいですからね。つまり家出準備も練習もしていたと」
「そう思っていて憧れの下街生活と思ったら蛙も蛇も恐ろしくて昨夜の有り様です」
海へ向かって桜の枝を伸ばして眺める。この枝枯れないで欲しい。花を2つしおりにしよう。
こっそり2つ並びの北極星。恋を知ったらしてみたいと思っていた贈り花しおりの験担ぎ。片想いが叶う……今のところ一方通行ではない。
2つ作って贈ってお互い持ち続けられたら祝言に至るとかそんなご利益ないかな。
「あはは。お顔に蛙をつけてネビーさぁんってかわゆかったですよ。昨夜はびっくりしたからドキドキしているのかと思ったけどときめいただけでした。胸を打たれたというやつですね。自覚したらそういうことかと納得」
「あのその、愛くるしいとはありがとうございます。ただそのここは外ですし……。いえ聞こえなそうなので良いですけれど……」
私は羽織で隠れた。反応を確認するためかひょいっと顔を覗き込まれるので恥ずかしい。
「てるてる坊主みたいですね。かわゆい」
私は印象の薄いぼんやり顔でお世辞以外で美人とは言われたことはない。愛くるしい女学生だと注目されているのはいつも同級生。
なんとか近づきたいから家を教える文通お申し込みの文を、みたいに男子学生に渡されたこともない。
過去に、特に花街でお世辞と聞き流していた事がお世辞ではなかったとか?
私は人並みには愛くるしかったのかもとは自意識過剰。
「恥ずかしくても褒めます。口説き落とさないと。小屯所に頼んで馬を繋いで浜辺を散歩と思うけどどうですか? この通り人目はあります」
恥ずかしい気持ちはあるんだ。確かに照れくさそうなお顔に見えなくもない。
優しい笑顔でサラッと褒めているように見えても彼も照れている。照れるけど好まれたいからきちんと褒めようとは素敵。素敵祭り。
「は、はい。散歩したいです」
それでその通りになった。降りる時に手を取られて抱っこみたいに降ろされて全身が熱くなった。それからずっと熱い。
触れられたところから発熱しているみたい。そんな文章を読んだことがある気がする。嘘みたいと思っていたけど文学だから大袈裟にではなくて本当ってこと。
無くしたら嫌なのと貝殻を拾うのも良いなと桜の枝は馬の鞍についている荷物入れに差させてもらった。
「ウィオラさんは海に入ったことはありますか?」
「ええ。1回。初めて来た時です。少しだけ。足だけでも波にさらわれそうで怖くて2回目はまだです。でも今日ならネビーさんが助けてくれそうです」
これまで海に来た時と気持ちが全然違う。ずっと2人で並んで浜辺を歩いていたい。それでネビー側の手がソワソワしてならない。ちょんって指で指をつついてみたい。
私は口説かれているので口説き返しても良いはずだ。
(雨の雫になりたいか……。雨粒の気分でツンツンって)
「その格好なので脛当てと足袋を脱いだら着物が濡れない範囲で海に入れますね。凪いでいるから安全そうですし万が一の時は助けます。いやそもそも見張りますか……なっ」
ネビーの左手の手の甲を人差し指でツンツンした瞬間、勢いよくこちらを見られた。私は慌ててそっぽを向いた。
ロメルとジュリーを観劇した時のことを急に思い出す。
出会ったその瞬間にいちゃいちゃ。思い返すと最後まで致している表現。数時間で終わらせないといけない創作物だから省くなあ、他の恋愛系もそうだよなぁなんてイマイチのめり込めなくて衣装や舞台の豪華さに夢中。
今なら違う感想を抱く。私は今いっそ手を繋がれないかなと思っている。
ジエムに対して元服結納前に触るなんて非常識とか、本披露されたら手を握られるとかキスくらいは許さないといけなくなるから最悪と思っていたけど今は逆。
結納前に手繋ぎなんて非常識……。
友人は結納前の付き添い付きお出掛けの時に付き添い人に少し離れてもらった時にコソッとしたと言っていたな。
ジエムに都合の良い話は遮断するか忘れるようにしていたということだ。
「指で触る練習ですか? 気になっていたけど失神したことがあるんですか? 例えばお座敷で規則破りで芸妓に絡んだ男のせいでとか」
ネビーは少々不機嫌そうな顔になった。
「そういう方は払ったり押したり投げました」
「投げた?」
恥ずかしくて顔が見られないので砂浜を見つめながら歩き続ける。
見張りなしで出掛けてくれているし反応が良いから手ぐらい繋ぐか、とはならないみたい。律儀だけど残念。残念だけど素敵。
「合気道を習っていましたので。婚約者に祝言前に連れ込まれたりしたら嫌だったので空き時間に励みました。失神というか何も知らないのに春画を見せられて羞恥心が溢れて固まって倒れました。菊屋の皆に大笑いされました」
「今ので真っ赤なのに固まらないで投げることが出来たとか、合間机の上で演奏して歌って踊って平気とかウィオラさんの頭の中や体はどうなっているんですかね。面白い」
「私もネビーさんは色々面白いです。海、海に入ります!」
流木を発見したので手提げから手拭いを出して乗せて腰掛けた。脛当てと足袋を脱ぐ。隣に立つネビーが股立をとった。それはよい。問題はその次。
「暑いから涼むかな」と着物上を脱いで下に着ている肌着の紐も解いて脱いで上半身裸。袴の紐で結ばれているから服はまたすぐ着れそう。
カチンと固まる。足だけでも「すごい筋肉」と思ったのに上半身もすごい。力持ちな訳だ。
人気火消しや兵官の浮絵の筋肉って大誇張だと思っていたけどわずかに誇張くらいみたい。私が水なら今確実に沸騰した。
「うおわっ! 危ない」
後ろに倒れそうになって支えられたけど代わりに近過ぎる。近い!
「あ、あつ、暑いでしょうけど着て下さい。私には刺激が強過ぎます。み、見たことがあり、ありますけど……。ものごころつくくらいが最後で祖父や父くらいで見た目もこうではないです……」
私は1日何回手で顔を覆うのだろう。
「えっ⁈ あっ! 固まって倒れたってさっき言うていましたね。慣れたかと」
体を起こされたので目を閉じたまま流木を掴んだ。
「慣れる場所なんてありません」
「宴席で脱いで騒ぐ男とか居なかったんですか? 従業員には男もいますよね。今着ています。足くらいは大丈夫ですか?」
「足は慣れる練習をします。そういう気配がしたら退席とか色々。男性従業員は5歩以内に近寄らないでもらう契約で菊屋に住み込み男性はいません。空き時間は稽古が身に染みていたのでさらに。仕事と琴、三味線に歌や踊りに流行りの勉強で1日はあっという間です。あと家事の練習ですとか」
「5歩以内に近寄らない契約ってええ……。そんな我儘というか強気交渉出来るくらいお店に必要とされていたんですか。着ました。着ましたよ。今日の歓迎会前に分かって良かったです。酒に酔ったり暑いと脱ぐ親父達も若衆も多いのでキツく言うし殴って回ります」
私はそろそろと目を開いた。足くらいは慣れようと見つめてまたカチンと固まる。
このくらいなら意識していない男性や緊張感を持って避けたい相手や場所なら何とかなるのにネビーだと違うみたい。えいっと目を離す。
「ご配慮ありがとうございます。夏に皆さんあられもない姿で川に入ると聞いたので夏までに慣れます」
「いや来月くらいから風呂屋より川の方がとか始まるし今だって暑いと浴衣でだらけてるとかそんな奴ばかりですよ」
「……ぬ、脱いで下さい。お脱ぎになって下さい。慣れでしょうから練習します。何事も努力です」
昨夜蛙や蛇と向き合った時の勇気を出して「おりゃあ」とルルみたいな掛け声を心の中で叫んでネビーの胴体を見据えた。もう着てくれたので今は問題ない。問題はここから。
「そんな顔でそんな風に言われたらこっちだってさすがに照れて脱げないですよ! お脱ぎになって下さいって何ですか! 芸事の実力で明らかですし、ルルが昨日震えながら布を使って蛙を掴もうとしていたとかへっぴり腰で棒で蛙や蛇を部屋から出したと聞いて努力家なんだと思っているけど脱いで下さいってそんな練習ありますか⁈」
「僭越ながら失礼致します。他の方は無視したり隠れたり見ないように逃げ回れば良いですがネビーさんには慣れないといけません」
私の口はポンっと変な台詞を吐いた。ネビーのあけすけなさが移ったのかな。
「お、俺には慣れないとって。ちょ、ち、近寄らないで下さい」
「こち、こちらも恥ずかしいのです! そちらに都合が良いことなのですから逃げないで下さい!」
ネビーの着物の合わせを軽く掴んで左右に引っ張ってから「なぜ男性を襲うような行動をしているの?」と自分の支離滅裂さに気がついたのと、彼は肌着をキチンと着ていなかったので見事な腹筋が視界に飛び込んできて停止。
へにゃっと足から力が抜けて体を支えられた。パチリと目が合う。ネビーは困り照れ顔。これをきっとかわゆいお顔と呼ぶ気がする。
恥ずかし過ぎてギュッと目を閉じた。でも目を見ていたかったかも。輝く海の水面よりきらきら光っていて美しかった。
「おかしな行動に出てすみません」
「少々失礼致します」
あっと思ったら抱き上げられて流木の上に座らされてしばらく支えられた。少ししてネビーは私から離れてこちらに背を向けた。
「照れて、俺にというより男慣れしていないから状況に照れて目を閉じたんでしょうけどかなり誘惑的なのでお気をつけ下さい」
「ゆ、ゆうわっ! キ、キスなら結納後にお願いします。まだなので出来れば最初は思い出になるところで。う、海に入ります! 練習はまた次回で! 今は海です!」
またしても私は何を言っているのだろうか。浮かれている。これが浮かれているという感情だ。
「つ、冷たいです! 波に吸い込まれそうです! やはり攫われそうです! まあ貝殻が現れました。また波がきました!」
ネビーは体を丸めて体を震わせて笑い始めた。
「かわゆいし面白いんですけど。思い出になるところでですね。気合を入れて考えておきます。先にすることがあるのでその後でです」
「すっ、することですか?」
「することとはお申し込みとかですよ」
「そ、その通りです! とか? とかってなんでしょうか」
「さあ?」
悪戯っぽい不敵な笑み。こういうお顔もするの。
歌って踊れば落ち着くはず。恥ずかしいし私の言動はおかしいけれど嫌がられてなさそう。今の私はこんなに変なのに変なの。
落ち着くからより楽しいから、嬉しいから歌って踊りたいの方かも。
「う、歌います! あと軽く踊ります!」
「何でそうなるんですか?」
「集中して落ち着けるからです!」
とても笑われてしまった。嘲笑ではなくて屈託のない笑顔と笑い声。
彼も私と生きていくのは飽きなくて面白そうと思ってくれたら良いけど「変な奴」という感想かもしれない。
海にまつわる物語は海蛇王子と歌姫だな。
毎日海辺で歌うお姫様に恋をした海蛇は海の大副神に頼みに頼んで人の形を手に入れて陸に上がった。兄弟海蛇2匹を連れて。
人になった海蛇はお姫様の敵国の王様に拾われたので王子になり2か国の友好を結ぼうと奔走。
2カ国の争いだけではなくて海の国まで巻き込んだ争いに発展するので海蛇王子とお姫様は両想いなのに中々結ばれないけれど最後は大団円。
私は好きだけど知名度がないし舞台をしている一座も知らない。我が家に伝わる物語らしい。
「あなたの姿が違くとも瞳の星空はあなたの空」
瞳の星空か。さっき分かったかもしれない。波打ち際を軽く踊りながら歌ってみる。
ずっと砂浜で踊ってみたかった。波が怖くて出来なかったけどきっとネビーが助けてくれる。三味線を持ってくれば良かったな。
「共に生きたいわ」
人から蛇に戻されてしまった海蛇を見たお姫様は逃げるどころか受け入れた。
「行かないで」
私の気持ちを信じてどうか行かないで。広大な海へ去るなんて、探しに行く私とあなたは二度と会えない。
この国の海は龍神王様が人を憐れんで掘ってくれた海水の巨大湖だけど本物の海はどこまでも広いという。
「行きたいわ」
煌国王都は平和を謳歌しているけれど大陸中央部は戦争だらけで煌国も参加しているという。
なので今ある幸せは永遠には続かないかもしれない。花街へ行かなければ知らなかった話。
「行きたいの」
知識でしかなかった古典龍歌に込められていた気持ちが少し分かった。
昨日の「忘れじの」の気持ちを込めて弾いた時より今の方が良い演奏を出来る自信がある。
龍歌は大袈裟、派手に表現したなんて言うけれど嘘偽りでは大勢の人の心には響かない。花柳界で男も女も色恋をもてはやすのはそのため。
ジエムの初恋に本気の気持ちがあったのなら私の態度やつれなさは彼を傷つけに傷つけたかも。
彼はそれを肥やしに人を惹きつける芸を行い舞台の上で輝きを放つ?
輝き屋の輝き——……。
「生きたいわ」
人生を進んで行くから生きる。行くから生きる。母にそう教わった。だから行きたいの歌詞のところも「共に生きたい」という気持ちを込めるのよ、と。
「ウィオラさんちょっと!」
手首を掴まれて振り返った。海蛇王子に手を伸ばしていたのに邪魔するのは誰……。
「どこまで行くつもりなんですか⁈」
誰ってネビーだ。海蛇王子なんていない。
波打ち際から離れて着物の裾ぎりぎりまで足が海に沈んでいた。むしろ裾が濡れている。
夢中になりすぎると音楽や物語の世界にのめり込んで周りが見えなくなるのは私の悪い癖。
「うおっ! すみません!」
ネビーは私を赤ちゃんを取り上げました! みたいに持ち上げた。次の瞬間、かなり大きめの波がネビーを襲撃。彼は腰くらいまで濡れてしまってその状態で運ばれて流木の上に降ろされた。
「のめり込み過ぎてすみません」
「聴き惚れたり見惚れていてすみません。絞るんで、袴の裾をめくるんで後ろにいます」
「はい」
何もされていないのに背中がくすぐったい。水面をピョンっと魚か何かが跳ねた。
鉛色で太陽の光を浴びて鱗が虹色みたいに光るから小さな虹みたいだなと思った。何回か見られて嬉しい。




