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Voice -君の声だけが聴こえる-  作者: 貴堂水樹


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24/25

3-9

 月曜日。


 創花高校はどこもかしこも神宮司隆裕と草間千佳が逮捕された話題で満ち溢れ、授業が始まってもなおただならぬ空気が漂うほどの異様な光景が学校中に広がっていた。

 考えてみれば、それも仕方のないことなのかもしれない。同じ高校の生徒が三人も殺され、それを犯したのもまた同じ高校の生徒だというのだから、もはや小説や映画の世界である。こんな経験、したくてもそう簡単にできるものではない。


 そんな中、詠斗はただひとりいつもと変わらぬ高校生活を送っていた。事件についてはほぼ当事者のようなものだったし、犯人が捕まった瞬間にも立ち会った。今更騒ぐことでもなければ、一緒になって騒ぐ相手もいない。詠斗にとってこの事件はすでに過去の出来事だ。土曜日のことを思い出しても気が滅入るばかりで、何の得にもなりはしなかった。


 その日の昼休みも、詠斗は屋上でひとり穏やかなランチタイムを過ごしていた。先週よりも少しだけ暖かさが増し、こんな感じですぐに夏がやってくるんだろうな、などとぼんやり考えながら、遠くの空にゆったりと流れる薄い白雲を眺めていた。


 傑に聞いた話によれば、神宮司隆裕と草間千佳はそれぞれ素直に罪を告白したらしい。

 神宮司が美由紀と猪狩華絵撲殺に使用した凶器は自宅にあったレンガで、庭に埋めたとの供述通りに発見された。

 千佳が仲田翼を刺したのはペティナイフ。こちらもまだ処分される前で、千佳の自室に隠すようにして保管されていた。勢いをつけて心臓をひと突き。なかなか勇気のあることをしたものだと詠斗はうっかり感心してしまった。

 今後、二人がどのような道を歩むのかはわからない。この先の人生ではその道を踏み外すことのないようにと祈るばかりだ。


 最後の一口を食べ終え、ふぅ、と一つ息をつく。

 結局、証拠らしい証拠は二人が罪を認めた後で出てきたのであって、あの時シラを切られていればこうして事件が無事幕を下ろすことにはならなかっただろう。そもそも、殺人の被害者である美由紀の証言を使って自白を引き出すなんてナンセンスなわけで、今回は運が良かったとしか言いようがない。

 つまるところ、今回の事件を解決したのは美由紀なのである。自分が殺された事件の犯人を自分で挙げた。前代未聞もいいところだ。

 彼女の声が聴こえていなければ、事態は膠着こうちゃくしたまま時だけが過ぎていき、詠斗がこの事件に関わることもなかっただろう。考えるだけ無駄なのだろうけれど、つい「どうしてこうなったのか」と思ってしまう。


 それに、考えることなら他にもある。

 こちらのほうが詠斗にとっては大きな問題だった。


『こんにちは』


 包みに弁当箱をしまい終えたタイミングで、美由紀の声が聴こえてきた。


「こんにちは、先輩」

『ありがとうございました、事件を解決してくださって』


 いきなり事件の話を振られ、詠斗は少々面喰らってしまった。


「俺は何もしてないですよ。先輩のおかげで解決できたんですから」

『そんなことはありません。あなたがいてくださらなければ、私はいつまでも行き場を失ったまま、叶わぬ願いを抱えてこの世を彷徨さまよっていたでしょうから』


 少し引っかかる言い方をした美由紀に眉をひそめ、詠斗はそっと立ち上がった。


「先輩……」

『さて、詠斗さん』


 詠斗が言いかけるのを遮り、美由紀は詠斗の名を口にした。


『先日の問いの答えは見つかりましたか?』


 う、と詠斗は言葉を詰まらせる。

 これこそが、詠斗にとって一番に考えるべき問題だ。――何故自分は、美由紀のことを強い人だと思うのか。

 時間を見つけては何度も考えてみたけれど、美由紀の求めていそうな答えはついに見つけられなかった。考えれば考えるほど美由紀のことを強い人間だと思った自分のことがわからなくなって、すっかり袋小路に入り込んでしまっていた。


『あらあら、困りましたね』


 黙ったまま突っ立っていると、美由紀が苦笑を浮かべるような声で言った。


『あなたの答えを聞いてから旅立とうと思っていたのに。これでは気持ちよく天国へ行けないじゃないですか』


 え、と言ったつもりが、声にならなかった。


 今、美由紀は何と言っただろう。

 天国へ、行く――?


『お別れを、言いに来ました』


 呆然としている詠斗に向けて、美由紀はそう静かに告げた。


『あなたと会うのは、これが最後です』


 確かに耳に届いた声に、詠斗は言葉を失った。


「……っ」


 おかしい。

 聞きたいことが山ほどあるのに、息が詰まって声が出せない。


 いつだったか、美由紀は言っていた。この先のことは天命に従うしかないのだと。

 犯人が捕まって事件が解決し、美由紀の願いは叶えられた。

 もう今までのように、誰かを求めて叫び続ける必要はない。

 この世を漂う理由がなくなった。だから、美由紀は次の行き先へと導かれていくのだ。


 ――ということは。


「……待って」


 自分の声すらよく聴こえないこの耳でも、ようやく絞り出した声が震えていることは理解できた。


「待ってくださいよ、先輩」


 あぁ、どうしてこんなことを口にしているのだろう。

 こんな日が来ることくらい、とうの昔にわかっていたはずじゃないか。

 いつまた音を失ってもいいようにと、覚悟を決め直したばかりだというのに。


「ねぇ、待って」


 それなのに、どうしてこの口は美由紀を引き留めようとしているのだろう。

 もはやこの世のものでなくなってしまった美由紀の魂は、天国へ行ってしかるべきなのに。


「待ってよ」


 わかっているのに、溢れだす想いを止められない。


 お願い。

 行かないで。

 ひとりにしないで。


「いやだよ、俺……!」


 先輩の声が、聴こえなくなるなんて――。


『詠斗さん』


 はっ、と詠斗は顔を上げた。

 そして、目の前に広がる光景に息を飲み込んだ。


「……美由紀、先輩……?」


 そこにいたのは、紛れもなく美由紀だった。

 ふわりと宙に浮いていて、きらきら輝く綺麗な微笑みを湛えている。


『もっと、聴かせてください』

「えっ……?」

『あなたの声を――あなたが心の中に閉じ込めている、本当の声を』


 つやのある長い黒髪が揺れる。

 本当なら自分よりいくらも小さいはずなのだろうけれど、浮かんでいるからまっすぐに目が合う。


『あなたが私の声を求めるように、私もあなたの声が聴きたい。あなたの心を、秘めている声を聴かせてください』


 詠斗は息を飲み込んだ。

 見つめられれば見つめられるほど、言葉が出てこなくなる。


 俺は。

 俺の心は、何を秘めているのだろう。

 本当は、何と言いたいのだろう。


『怖いのでしょう?』


 優しくて、温かくて、慈愛に満ちた美由紀の声が、詠斗を包み込んでいく。


『私が天国へ行ってしまえば、またあなたは音のない世界で暮らしていかなければならなくなる。そんなの、怖いに決まっています。だからあなたは私を呼び止めた……そうでしょう?』


 美由紀の手が詠斗の頭に伸びてくる。幽霊なのだから触れられている感覚はない。けれど、何故だろう。とても温かい、優しい熱が伝わってくる。


『あなたの気持ちを、言葉にしてください。私がすべて受け止めますから』


 美由紀は目を細め、詠斗はその瞳をじっと見つめる。


 あぁ、そうか。

 怖いんだ。

 先輩の声が聴こえなくなることが怖いんだ。


「…………っ」


 あの時もそうだった。

 いつも聴こえてきていた声が不意に途絶えた屋上で、とてつもない恐怖を覚えた。


「…………ぁ」


 それでも、口にしてはいけないと思っていた。


 怖いとか、悲しいとか、そういう言葉を口にすることは許されないのだと。


 ただでさえ他人に心配をかける存在なのだから、余計な気遣いをさせちゃいけない。

 自分の足で立って、歩いて、普通の生活ができている姿を見せていなくちゃいけないって、そう思っていた。


「……怖い」


 でも、違う。


「怖いよ、俺…………!」


 本当は、ものすごく怖かった。

 誰の声も、何の音も届かないこの耳で生活することは、真っ暗な鉄の檻に閉じ込められているようで。


「ぅわああああぁ――――ッ!!」


 詠斗は泣いた。

 声を上げて。


「もうイヤだ! こんな生活、もうたくさんだ!! なんで俺だけ!? どうして俺には何の音も聴こえないんだ!!……怖いよ、ずっと怖かったんだよ!! 何にも聴こえなくて、いつもひとりぼっちで……ほんとは……本当は……ッ!」


 この痛みは誰にもわかってもらえない。だから心に閉じ込めてきた。

 でも本当は、わかってもらいたかったんだ。誰かに受け止めてほしかった。


 ひとりでいれば自分が傷つかないなんて嘘だ。

 この心はいつだって、とてもとても、痛かったんだ――。


『――詠斗さん』


 その時。


 ふわり、と美由紀の体が詠斗を包んだ。

 さっきと同じで、抱き寄せられるような感覚はない。それでも、美由紀のぬくもりを感じることはできる。


『つらかったですね』


 耳元で聴こえる美由紀の声。優しい吐息まで、そのすべてがこの耳を通じて伝わってきた。


『我慢しなくていいんです。泣いていいんです。怖くて当たり前なんです。……あなたは、ひとりじゃありません』


 温かい。

 こんなにも温かい場所にいられるのは、どれくらいぶりのことだろう。


「ぅわあああ、ぁあああ―――……ッ!!」


 もう、止めることなどできなかった。

 何年分の涙が、今流れているのだろう。


『あなたには、あなたの想いを受け止めてくれる人がそばにいます。あなたに寄り添われることを待っている人がいます。……あなたには、帰る場所があるんです』


 美由紀の声と、美由紀の言葉と、美由紀の胸のすべてを借りて、詠斗はしばらくの間泣き続けた。

 五分か、十分か――。気の済むまで泣いた頃には、随分と時間が経ってしまっていた。


『私、思うんです』


 涙を拭った詠斗ともう一度まっすぐ向き合って、美由紀は柔らかい笑みを浮かべた。


『本当の強さって、飾らない自分でいることなんじゃないかって』

「飾らない、自分……?」


 はい、と美由紀は頷いた。


『自分の弱さに蓋をして、強がって生きていても、自分で自分を傷つけてしまうだけ。大切なのは、弱い自分を認めてあげること。弱くてもいいから、ありのままの姿で一生懸命前に進んでいこうとすること。本当に強い人は、自分の弱さと向き合える力を持っている人なんだと私は思います』


 今までに聴いたことがないほど、美由紀の声には強い力が込められていた。

 女性らしい、線が細くて綺麗な声。しかし今は、誰の声よりも高らかに、大きく詠斗の胸に響き渡る。


『つらいときには泣いてもいい。時には誰かに頼ってもいい。頼れる人がいるということは、自分に優しくできるということです。自分のそばにいてくれる人がひとりでもいるなら、それはあなたが幸せだという証なのではないでしょうか』


 その言葉のままに、詠斗はひとりの顔を思い浮かべた。おそらくは美由紀が言う『誰か』と同じ、その人の顔を。


 誰よりも幸せになってほしいと、心から願う人。

 幸せになれる場所へ、大きく羽ばたいていってほしいと願う人――。


「……ダメです」


 ぽつり、と詠斗は俯きながら呟いた。


「アイツは……アイツには、もっと広い世界でいろんな人と出会ってほしい。俺のもとにいたって、苦労をかけるばっかりで……」

『それはあなたが決めることじゃないでしょう?』


 え? と詠斗はもう一度顔を上げる。


『何を幸せと思うかなんて、他人には決めようのないことです。紗友ちゃんの人生なのですから、紗友ちゃんの心を尊重してあげないと』


 男らしく、と美由紀は胸を張って付け加えた。その姿があまりにもまぶしくて、詠斗は思わず目を逸らした。


『幸せになってください』


 美由紀は優しくそう言った。顔を上げれば、今までで最高の笑顔を浮かべる美由紀の姿がそこにあって。


『私も天国で幸せになります。さわやかイケメンを捕まえて』


 ふふ、と楽しそうに笑う美由紀。『あ、可愛いネコも飼いたいですね』と、また一段としまりのないことを口にしている。

 ごしごし、と詠斗は乱暴に目もとを拭った。最後くらい、ちゃんと笑っていなくちゃいけない。


「……もっと早く」


 それなのに、また涙が溢れてきて。


「もっと早く、先輩に出会いたかった」


 これでお別れなんて、どうして受け入れることができるだろう。


『私もです』


 涙でぐしゃぐしゃの顔をした詠斗に、美由紀はそっと微笑みかけた。


『生きているうちに、あなたと出会いたかった』


 その笑顔が何よりも綺麗で、ずっとそばで見ていたいと思った。

 それが叶わないことが悔しくて、どうにかして美由紀を繋ぎ止めておきたくて。


 ――もっと早く。

 もっと早く、先輩に背中を押してもらえていたら――。


 どこまでも無力な自分に腹が立って、また涙が溢れてくる。


 でも、と美由紀はからりとした声で言う。


『そうなると、強力なライバルと戦わなくちゃならなくなっていたんですよね』

「ライバル?」

『そう……残念ながら、私にはまったく勝ち目がなさそうな相手です。だから、これでよかったんですよ』


 ふふふ、と屈託のない笑みを浮かべて、『さて』と美由紀は詠斗から離れた。


『そろそろ行きます。あなたも授業がありますしね』


 言われるがまま携帯で時刻を確認すると、ちょうど始業五分前のアラームが振動したところだった。


「先輩……」

『大丈夫です』


 また美由紀のことを呼び止めようとした詠斗に、美由紀はひとつ頷いた。


『またきっと、ふらりとどこかで会えますよ。いつか誰かが言っていました――別れは出会いの始まりなんだって』


 美由紀の姿が、どんどん薄くなっていく。きらめいた残光が、美由紀の笑顔をより一層輝かせる。


『強い人になってください。次に会った時に私ががっかりするようなことのないように』


 約束ですよ? と美由紀は右手の小指を立てた。泣きながら、詠斗は力強く頷いた。


『あなたと出会えて良かった』


 その言葉を最後に、美由紀の姿は見えなくなった。

 すっと通り抜ける春の風が、詠斗の髪を静かに揺らす。


「……俺もです、美由紀先輩」


 誰もいない空を見上げてそう言った詠斗の声は、美由紀の耳に届いただろうか。


 突き抜ける青が、そっと微笑みかけてくれたような気がした。

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