3. たとえファンだとしても
「玉木ちゃん、随分ご機嫌だね」
鼻歌を歌いながらキーボードをたたく彼女に、彼女の同期の九条くんが声を掛けた。
「彼氏でもできた?」
「九条くん。それセクハラ」
「ごめんごめん。で、彼氏できたの?」
二人の会話を僕は斜め前のデスクで、モニタを見つめるふりをして苦々しい思いで聞いている。九条くんは彼女のことを狙っている――以前から僕はそう思っていた。
「いつも言ってるでしょ。彼氏なんてほしくないって」
「じゃ、どうしてそんなにご機嫌なの?」
「うふふ。実は私、推しができたんだ」
その台詞に高速でタイピングする僕の指もつい止まった。
「推し?」
「うん。これ見て」
モニタの隣に飾る写真立てを彼女が持ち上げる。
「猫、だねえ」
「そう。猫だよ。名前はハナちゃん!」
あれから三か月、彼女は週末のたびに僕の家にやってきていた。朝から晩まで居座り続け――彼女のハナちゃんへの熱はさらに高まっていたのである。
「ああ、写真を見ているだけでも癒されちゃう……」
はふう、と頬に手をあてた彼女がため息をもらした。
「この猫、玉木ちゃん家の?」
「ううん。……っと」
斜め向こうに座る僕の視線を感じたようで、彼女がとっさに口元を押さえた。危ない、危ない。その目は確かにそう言っている。
「ところで九条くんは私に何か用?」
「あ、うん。今晩のこと、あらためてよろしくって伝えたくて」
うん?
今晩のことってなんだ?
「じゃ、定時後にまたここに来るから店には一緒に行こうね」
そう言って去っていった九条くんの足取りはとても軽い。よっぽど今夜が楽しみなんだろう。よく見れば九条くんのジャケットはいつもよりスタイリッシュで、ちらと見た彼女の耳元には普段はつけないような大ぶりのピアスが光っている。それに僕の胸がやけにざわついた。けれど理由は自分でもよくわからなかった。
*
そして翌日、土曜日。
「……玉木さん、どうしたのかなあ」
すでに十時、なのに彼女が来ないのだ。こんなことは今までなくて、僕は念のためと交換していた彼女の電話番号に初めて電話をかけた。
呼び出し音が十回鳴ったところでようやく電話がつながった。
「あ、玉木さん? 何かあった?」
返事が、ない。
「玉木さん?」
「……その声、室井先輩ですか」
少し気だるげな男の声は知っている人間のものだった。
「九条、くん?」
「はい。九条です。おはようございます」
「お、おはよう」
混乱しながらも律儀に挨拶を返す自分に不思議な感覚を覚えた。
「玉木ちゃんならまだ寝てます。昨夜遅かったからもう少し寝かせてあげてください」
「……は?」
「じゃ」
プツン。
「……どういうことだ?」
ソファに座りこみ、スマホを握りしめ――僕は長い間放心した。みゃあ、とハナちゃんが僕の足にすり寄ってきて、それでようやく現実に戻ってこられた。
「あ、ハナちゃん。ごめんね。よしよし」
ハナちゃんの頭をなでてあげながらも、僕はかなり混乱していた。というか、結論は出ていた。ただその結論を受け入れられなくて、それで一人であがいていただけだった。
「……ね、ハナちゃん。僕、失恋しちゃったみたいだ」
彼女が好きなのはハナちゃんで。彼女が会いたいのもハナちゃんで。僕ではなくて。わかっていた。わかっていたけれど……気づけば僕は彼女に強く惹かれていた。彼女のことは前からいいなと思っていたけれど、あの頃抱いていた感情はもっとふんわりとしたものだった。
だけどこの三か月、ハナちゃんを通して、僕は彼女のいろいろな顔、いろいろな面を知った。猫好きに悪い人はいないと思っていたけれど、彼女は僕の予想をはるかに超えた素敵な人だった。
でももう、彼女を好きでいるわけにはいかない。
「九条くんと玉木さん、お似合いだしなあ……」
かたや、爽やかな正統派イケメン。かたや、強面のインドア派。僕に勝ち目なんてもとからなかったのだ。
「はは。なぐさめてくれるんだね」
膝に飛び乗り僕の頬を舐めだしたハナちゃんは本当にいい子だ。その優しさがたまらなく嬉しくて……苦しくて。胸いっぱいにハナちゃんのにおいを吸い込む。ああ、こんなにも幸せなのに……。
と、スマホが震えた。
『連絡遅くなってすみません。今日はファン活はお休みさせてください』
初めてもらった彼女からのメッセージは泣きたくなるほどそっけなくて――考えなくても指が動いていた。
『彼氏がいるのに他の男の家に行くのはよくないよ。たとえハナちゃんのファンだとしても』
『どういう意味ですか?』
『十時頃に電話したら九条くんが出たんだけど』
これに対する返事は来なかった。
だからそれこそが真実なのだと知った。
*




