2. 彼女のような人となら
「先輩! おはようございまーす!」
「……朝から元気だね。今、何時か分かってる?」
パジャマがわりのスエット姿、寝ぐせのついた髪。僕の恰好は明らかに寝起きだ。だけど彼女はまったく気にしていない。
「はい、ジャスト九時です! おじゃましまーす!」
あれから彼女は毎週末、必ず僕の家を訪れている。
「先輩、今日は新しい猫じゃらしを持ってきました」
「おー、ありがとう」
乾いた声で返事をするのは、もうどうやったって彼女の突撃を止められないことがわかっているからだ。
「ほら見てください。かわいいでしょ? 今度ぜひ使ってみてくださいね」
「……玉木さんが使えばいいのに」
「めっそうもない! ハナちゃんが遊んでほしいのは大好きな先輩なんですから!」
僕の提案に彼女が胸の前で手を振ってみせる。それに伴いねこじゃらしのピンクの毛が右に左に揺れた。
「そ、そう?」
「そうですよ!」
「でも玉木さんはそれでいいの?」
たとえば前のように猫吸いをしたくならないのだろうか。
「けっこうです。私はハナちゃんと同じ空間にいて、ハナちゃんのためになることが少しでもできたら、それだけで幸せなんです」
「……ファンってそういうものなの?」
「そういうものなんです。あ、ではまたここに座らせてもらいますね。失礼しまーす」
そう言って彼女が陣取ったのは、初めてここに来たときに座ってもらったダイニングのチェアだ。座るや、テーブルの上に水筒やカメラ、その他もろもろを並べていく。
「では今日も私にお気遣いなく過ごしてくださいね」
彼女がにこっと笑う。
「う、うん」
これに僕が若干遠い目になるのもいつものことだった。
なんか思ったのと全然違う――と。
*
僕が彼女のことを気にしだしたきっかけは二つある。一つは彼女の私物の多くが猫柄だったことだ。手帳の表紙には優雅にほほ笑むペルシャ猫、マグカップにはサバトラと三毛猫のイラスト、社員証のストラップには肉球のチャーム付き。猫好きには悪い人はいない。
もう一つのきっかけは、彼女の会話を盗み聞きしてしまったことだ。
その時、僕はカフェスペースで自販機の側面に背を預け、窓の向こうで散る桜をなんとはなしに眺めていた。彼女と彼女の友人はその後やってきて僕の死角となるソファに座り、唐突に恋愛話を始めたのである。
話の大半は彼女の同期による愚痴だった。自分のことを第一に考えてくれない恋人と別れたのだ、と。
『たとえばさ、飼っているトイプードルのことが気になるから泊まりで旅行はしたくないとか言うんだよ? 普通、恋人だったら旅行くらいするよね?』
不満はもっともだった。でも元恋人の言い分ももっともだと僕は思った。僕だってハナちゃんをおいて旅行に行こうとは思わないからだ。家族や友人に預けるとか、ペットホテルを使うとか、確かに手段はある。けれど、どれほど好きな相手と一緒だろうと、ハナちゃんのことが気になっては心から楽しめないタイプなのだ。
それまでの僕は幸いなことにハナちゃんを長い間ひとりで待たせなくてはならないような状況に陥ったことはなかった。職種的に泊まりの出張や残業はなく、週の半分は在宅で働けていたから。そして恋人もいない。ただ、二人の会話を聞いて僕はこれから起こりえる悩みについて考えざるをえなかった。これからもこの顔では恋人ができる見込みはないけれど、ハナちゃんをないがしろにするような恋は絶対にしたくないな、と。
だがまあ、そんなことで悩む未来は僕にはあり得ないか。つい自嘲したところで、彼女がこう言ったのだった。『ペットを大切にできない人が恋人を大切にするとは思えない』と。
『えー、それどういう意味?』
『そのまんまの意味。ペットは家族なんだから』
『でも人間と動物は違うでしょ』
『だったら家族と恋人、どっちが大切なの?』
『それは……さすがに家族じゃないかな』
『でも恋人とは結婚の話もしてたんでしょ?』
『う、うん』
『結婚したら恋人だって家族になるんだよ』
『そうだけど……』
『ね。同じ家族同士、生まれたときから一緒にいる人と、結婚という契約で結ばれた人、どっちを大切にすべきだと思う?』
少しの沈黙の後、『なーんて、そんな質問、私は無意味だと思ってる』と彼女が続けた。
『私、優先すべき相手はその都度変わると思うんだ。繋がり方によらずに。でもって、ワンちゃんに無理をさせてまで旅行できないって飼い主が判断したなら、それはなるべく受け止めてあげなくちゃいけないと思うの。同じ繋がる者同士としてね』
この時思ったのだ。
彼女のような人となら僕も恋ができるかもしれない、と。
そして今、僕はそんな彼女とプライベートで急接近している。
ただ、彼女はあくまでハナちゃんのファンという立場を貫いていた。それはもう強固に。一切のブレもなく。彼女の考えるファンの定義はあまりに崇高で……だから恋愛経験のない僕には現状維持の一択しか選択の余地はなかったのである。
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