1. いいもの吸わせてあげる(イラストあり)
オフィスビルの玄関前では今年も桜があふれんばかりに咲いている。ひらひら、ひらひら。薄桃色の花びらが柔らかな風に舞って散っている。例年と変わらない光景だが、それでも心奪われずにはいられない瞬間だ。
「春だなあ……」
思わず感慨深くつぶやく。そんな僕の視界の片隅に、力なく揺れるレモンイエローのシフォンスカートがうつりこんだ。
「あれは……玉木さん?」
ふらふらと歩く女性は後輩の玉木さんだった。
正直、驚いた。その姿はいつもの溌剌とした彼女とはまったく違っていたから。
ただ、同じ開発部の人間として僕は知っていた。所内でひらかれる年一回の研究発表会のために彼女が連日残業続きだったことを。そして今日、本番で致命的なミスをおかしたことも。
肩を落とし、危なっかしい足取りで歩く彼女。これから地下鉄に乗るのだろうか。ちゃんと家に帰れるだろうか。……帰宅後、必要以上に落ち込まないだろうか。
「玉木さん、お疲れ様」
このまま見なかったふりをして通り過ぎるなんてできなくて、勇気を出して声をかける。
「先、輩……?」
おそるおそる振り向いた彼女は、僕だと知るやおびえた顔になった。ちなみに彼女が僕に苦手意識をもっていることは前から察している。いや、彼女だけでなく、老若男女、誰もが強面の僕に恐れを抱いている。でも、目つきが鋭いとか、黙っていると怖いとか、言われ慣れているので傷つきはしない。
「あの……何か御用でしょうか」
「これから暇?」
「……え?」
彼女がぽかんとした表情になった。同じ部とはいえほとんど話したこともない男に急にこんなことを言われたら彼女がどんなふうに思うかは察せられる。でも意を決して続けた。
「これから僕の家に来ない? いいもの吸わせてあげるから」
「い、いいもの? 吸う?」
「うん。最高の気分になれるよ」
今日まで頑張ってきた彼女を少しでもいたわれたらと思っただけなのに。邪な気持ちなんて一切なかったのに。その瞬間、彼女は半分白目をむいて倒れそうになった。
*
「せせせ、先輩!」
「あ。やっぱり玉木さんも好きなんだね」
「はいいい……! 大好きですう……!」
さっき失神しかけた彼女は大きな勘違いをしていた。非合法なクスリの類を僕が強要してきたのだと。この顔のせいで、学生時代に「ヤクザの友達いる?」とか「どこかのチームに所属してる?」とよく訊かれたけど、まさか社会人になってまで誤解されるとは。
ちゃんと事情を説明したら、彼女はそれはもう嬉しそうに僕についてきた。そして彼女は吸った。もちろんヤクの類ではない。猫だ。猫の名はハナちゃんという。
「あのう。もう一回吸ってもいいでしょうか」
「ハナちゃんに訊いてみよう。いいかな? あ、いいって」
五年も一緒に暮らしていれば、僕にはハナちゃんの言うことが手に取るようにわかる。
当のハナちゃんはソファに寝転がっている。ちょっとおでぶな三毛猫でお腹の毛は真っ白だ。そこに彼女が「失礼しまーす」と再度顔をうずめた。これがいわゆる『猫吸い』だ。
「ううーん。幸せー……」
「だよねえ」
人間よりもちょっと高い体温。滑らかな毛の感触。えも言われぬ匂い。一つ一つが尊いのにすべてが掛け合わされることで天にも昇る心地を覚える。猫好きを容易に昇天させるこの行為――猫吸いはまさに究極の癒しの一つだ。
「はふう。ありがとうございました」
十分すぎるほどハナちゃんのお腹を堪能し、彼女の頬はすっかり上気している。
「ものすごく癒されました。最高に幸せでした!」
そのハナちゃんだが、彼女が離れた途端、仕事が終わったとばかりにキャットタワーに飛び乗った。そしてさっそく頂上でうつらうつらしている。
「あああ! 香箱座り! 半目からの糸目! 全部が最高!」
ハナちゃんをうっとりと眺める彼女の前に、僕はホットミルクを入れたマグカップを置いた。
「しかし、玉木さんの私物は猫柄のものが多いとは思っていたけど、まさかここまで猫好きだとはね」
苦笑しつつも愛猫家としてはとても嬉しい。
「私も仕事に慣れたら猫ちゃんを飼いたいって思ってるんです」
マグカップを両手で抱える彼女は上機嫌だ。
「社会人として一人前になったら絶対に夢をかなえます!」
ブイサインを作ってみせる彼女はすっかり元気を取り戻している。
天真爛漫で、明るくて。入社二年目の彼女は我が開発部でも非常に人気がある。そして僕も彼女のことは以前から少し気になっていた。肩の上でくるんとカールしている栗色の髪は、朗らかな彼女の気質をよく体現している。今日のレモンイエローのスカートも彼女によく似合っている。……でも今日家に招いたのは純粋な善意によるものだとあらためて公言しておく。
「ちなみに先輩はどういう経緯でハナちゃんをお迎えしたんですか? 参考に教えてください」
「ブリーダーをしている知り合いに譲ってもらったんだ」
「ブリーダーさんですか」
「うん。そこで売れ残ってたんだよね。長足だからって」
ハナちゃんはマンチカンという猫種なのだが、マンチカンは同じ猫種同士でも足の長さがだいぶ違う。短足は犬でいうダックスフントのような足の短さで、ちょこまかと動く姿が愛らしい。だからマンチカンは短足の方が高値で取引される。マンチカンといえば短足、長足はただの猫――そんなふうに言う人間もいる。
「……なにそれ! 信じられない!」
事実を伝えただけのつもりが普段柔和な彼女を怒らせてしまった。
「足が長いのも含めてハナちゃんの愛らしさなのに! 失礼しちゃうわ!」
「なんで玉木さんがそんなに怒るの」
「これが怒らずにいられますか!」
ぷりぷりとする彼女は本気で怒っている。
「私、猫ちゃんを愛する会の会長なんです」
「そんな会、聞いたことないなあ」
「私が勝手に作っているだけです」
訊けば、十歳で会を発足したのだそうだ。
「でもなかなか猫ちゃんになついてもらえないのが悩みで……。私の体、何か変なにおいがするんでしょうか」
彼女がくんくんと自分のにおいをかぎ出すものだから「そんなことはないと思うけど」とフォローする。でも声が小さすぎて当の本人には聞こえなかったようだ。
「実は私、こんなに猫ちゃんを堪能させてもらったことがなくて。猫吸いも初めてさせてもらえてすごく感動しました。ハナちゃん、とっても優しい子なんですね」
「あ、わかる? そうなんだ。ハナちゃんはほんといい子なんだよ」
僕が初めて飼った猫はハナちゃんで、他の猫のことなんて全然知らないけど。でも一緒にいたらわかる。ハナちゃんは世界一やさしくてかわいい、最高の猫なのだ。
「私、ハナちゃんのファンになりたいなあ……」
「ファン?」
「はい! 先輩、こんな私でもハナちゃんのファンになってもいいでしょうか?」
両手を組んで祈るように見上げてくる彼女には一切の邪気がなかった。少し極端な愛猫家のようだが。
「うん、まあ。いいよ」
「やったあ!」
ハナちゃんのすばらしさを分かち合ってくれる人が増えたことは素直に嬉しい。……とはいえ。
「で、ファンって何をするの?」
返答次第ではファンになることをあきらめてもらわなくてはならない。いくら彼女とはいえ、ゆるせることとゆるせないことはある。それが飼い主というものだ。
「それはですねえ……」
彼女の目がきらきらと輝き出した。
*




