おわかれ②
○ ○ ○
「違うだろ、イコ。俺が望むことをとか、そんなことこれっぽっちも、お前は考えてない」
低く落ち着いた声でキッパリと否定されて、微かな戸惑いの声がわたしの口から漏れた。どうしてそんなことを言うんだろう。わたしは、だってわたしは、
――わたしはどうしてそんなことを言ったんだろう?
「どうして“そんなに好きじゃない奴”の意に沿うようなことが出来る? お前の本心は違うはずだ」
ナダの問いかけが、不意に湧き上がった疑問に同調するかのように流れ込んできて、血と一緒に全身を巡って、心臓を包み、脳を支配する。わたしは首を振った。抗った。ナダの言うことは嘘だ、これがわたしの本心だ。
けれど否定すればするほど、わたしの中で何かがどんどん乖離していく。広がっていくその隙間にナダが入り込んで、「ほうら見ろ」と嘲笑っているようだ。
「命を預ける相手を間違えたよ、お前。俺よりずっと学もあって頭いいだろ、だったら気付いてんだろ、なあイコ」
「なに……何が、何言って……」
わたしの脆い目論見は外れてしまった。ナダが言おうとしているのは、核心の一言だ。いやだ、見たくない、聞きたくない、けれど白い両手が頬を包んできてそっとナダの方を向かされた。
「俺を見ろ、ちゃんと見ろイコ」
視界いっぱいにナダが映る。わたしの世界がナダで埋め尽くされる。
どくりと脈打って、ぱちりと全身淡く弾けて、ざわりと胸が騒いだ。ナダの青と灰を混ぜた目に捕らわれて、視線を外すことも敵わない。――ああ、逃げられない。
「俺はお前の母さんの仇だよ」
やめてよ。
「きっとキース族は緩んでた。だから俺らは見つかった。キースが見つからなけりゃ、お前の父さんは研究に引きずり込まれることはなかった」
だってそんなのどうしようもない。
誰も悪くない。
悪いのは見つけた奴らだ。
「見つかったばかりか、俺らは捕まった。俺らが捕まらなけりゃ、“お母さん”は死なずに済んだ。ザッケスを利用する蔓に使われることはなかった」
…………。
「“お母さん”が殺されたのは、俺たちキース族が元凶だ、そうだろ。キース族さえこの世にいなければ……俺が研究施設であのまま閉じ込められていれば、お前は普通の女の子でいられたんだよ」
何も、何ひとつ、言い返せない。
どこかに違和感を感じても、ずっと倦んで溜まって燻っていた一つの感情がじわじわと広がって、冷静な思考を奪っていく。その間もナダの声が追い打ちをかけてくる。
「世界は本当に狭いなあ、イコ。“お母さん”は目の前で殺されて、父親は帰って来ないし、不気味な狙われ方して叔母さんとも断絶。そんなときにたまたま拾った奴がちょうどいい居場所になったってのに、まさかそいつが全部の元凶なんて、まったく良く出来た巡り合わせだよな」
両頬に添えられていた白い手が、片方ゆっくりと降りてきて、喉を緩慢な動きでするりと撫で、緩い力で添えられた。脳みその端っこが未知の感覚に焼き切れて、散った火花が倦み広がる感情に飛び火して、全身が震えた。
「っ、ひ……」
喉から漏れ出た微かな悲鳴で悟る。怖い。ナダの目がぐっと色を濃くして間近から覗き込んできて、中にまで入り込まれるような、いや逆に吸い込まれそうな引力が、ただただ怖い。
「俺だってそうだ。お前の父さんがいなかったら、それともあいつに妻子共々連れて逃げるぐらいの意気がありゃ、実際にキース捕まえて研究しようなんて段階に至らなかった。俺らがあんな目に遭うことにも、限界迎えて大勢殺す羽目にもならなかった」
「ああ、でも」とざらりと低い声で付け足して、ナダはわたしの首にかけていた手をまた上に持って行った。今度は指の背でうっとりと頬を撫でてくる。その、羽で撫でるような感覚が、背筋をぞくぞくと震えさせてくる。
「俺は決してお前が憎いんじゃないよ。イコの居場所になれて俺はとても嬉しい。自分の足で歩いてるふりして、俺に依存してるイコは、俺が今までに見たどんな奴より人間らしくて綺麗だ」
「……い、ぞん……なんか、してない……」
「してんだろ。朝起きて俺とメシ食って、俺の味付けで舌作られて、俺の出した水飲んで全身潤して、俺の炎で体あっためて、夜は俺の隣で眠るんだ。それってもう、イコのほとんどが俺で出来てるってことだろ」
ぐるり、とおなかの奥が疼いた。それは恐怖なのか、別の何かなのか、よく分からない。分からないから怖い。その未知の感情も感覚も、ナダに揺り起こされたものだという事実が、堪らない。
指が顔の輪郭をなぞり上げ、次いで髪に潜り入って。低い声のざらつきが耳元で摩擦を起こして、脳みそが痺れていく。
「髪、俺が切ってからまた伸びたよな。俺は長い方が好きだよ、梳かすとふわふわ靡いて光って、とても綺麗なんだ」
痺れた脳みそに、ナダの声だけが染み入っていく。
耳の端をつつとなぞるぴりっとした感覚と共に、ナダはざらざらと一番の言葉を注いできた。
「綺麗な髪だなあ。お前の“お母さん”も、きっとこんなに綺麗な髪だったんだろうな」
その一言は――ずっとずっと何年も、長い時間をかけて封じ込めていた感情を、叩き起こした。
「触んな」
白い手をはねのけた。体をつき飛ばそうとした。けれど手を突いた胸板は思いのほか頑丈で、微動だにしてくれない。
「離れろ。近づくなよ。気持ち悪い」
わたしから発せられる声も、感情も、きっと目線も、どす黒い。けれどもう戻せない。わたしを保っていた白いものはこの一瞬にして、内側から真っ黒に染まってしまった。
湧き上がる衝動に任せて、手の当たるところを無茶苦茶に叩いて突き飛ばした。早くこの白い手を消したい。
お母さんの髪を愛でる奴に消えてもらいたい。
だから、自分が何を口走っているのか気付いていなかった。
ナダが静かな声で「分かった、消えるよ」と言った、それを聞いてようやく我に返った。
「何驚いた顔してんだよ。今のがイコの本音だったわけだ。アリカさんのところからずっと聞けてなかったけど、今ようやく聞き出せた」
「……え、は……?」
茫然とナダを見つめ返す。息が荒い。喉がヒリヒリするし、全身がとにかくカッと熱い。それに手や腕のあちこちが痛いし、見れば爪の間に血が詰まっていた。
頬に傷を作ったナダがわたしの手を取って、現した水で血を洗い落とした。
「俺の血に触らせるつもりはなかった。すぐ洗ったし、体内に入った訳じゃないから何ともねえとは思うけど、もし体が変に思うようなことがあったら、すぐ誰かに言えよ」
「…………」
「前にさ、俺のこと『そんなに好きじゃない』って言ったろ。けどそんなもんじゃない。お前は俺のことが大嫌いなんだよ。大嫌いな奴とずっと一緒にいて、命のやり取りも潜り抜けてきて、そういう好き嫌いを感じる神経が麻痺してたんだ。今の反応が正しい。それが普通だ」
指先に水が触れる中、徐々に思い出す。
そう――わたしはナダに叫んだのだ。「消えろ」「いなくなれ」「どっか行け」と。
「この前の約束通り、お前のことはちゃんと守るよ。キースから安全に出られるよう取り計らう。上も俺の我儘くらい聞いてくれるさ」
水をひゅるりと引っ込めたナダは、それ以上わたしに触れてくることはなく、半分過呼吸状態のわたしに寄り添うでもなく、立ち上がってテントの垂れ幕を捲り上げた。
「じゃあなイコ。お別れだ」
涼やかな声でそれだけ言い残して、バサリと垂れ幕が落ちた。
手に入った力が抜けない。握りこぶしを解けない。どれだけ息をしても、どす黒い感情が消えてくれない。何より……これを晴らしてくれる縁を失ってしまった。他でもないわたし自身が突き飛ばしたのだ。
「うぅ……ぅ、あ、あああ……」
蹲って敷物の敷かれた床を叩く。血まみれの脳みそを覗かせたお母さんが寄り添ってくる。ごめんお母さん、心配かけてごめん。そう呟きながらもまだ蹲って動けないでいると、後からやって来たベイが、お母さんと一緒に背中を撫でさすってくれた。
「力抜け。ほら、もう大丈夫だ。ゆっくり吐け、全部吐ききっちまえ」
武骨で大きい手が乱暴に髪を撫でてくる。さっき向けられた丁寧に愛でるような白い感触が、ベイの浅黒い手に掻き消されていく。わたしの中からナダが消えていく。
安堵してわたしは目を閉じた。どす黒くてどろりと生暖かい、そんな感覚が全身を満たして、昏くて心地よかった。
+ + +
「報告申し上げる。イコの籠絡には失敗しました」
夜だった。議会の天幕には明々と篝火が灯され、総勢二十名ほどの面々が連なる中、末席でナダは特に感情を見せることなく、淡々と作戦失敗を告げた。
だが落胆の声を上げる者はいない。誰もが目を伏せ、沈黙を守るだけ。
「予め願い申した通り、外つ人の二名を外界へ送り戻していただく。手数を煩わせ相済みませぬが、各部署におかれましては何卒ご対応のほど」
「無論、そこは約束通りに為そう」
ナダの声と同じだけ静かに、族長ジルが頷いた。
「しかしナダ、忘れるな。お前の我儘を聞いてやる代わりに、以前申し伝えた例の任に就いて貰うぞ。良いな」
「承知しとります。能力で人を殺めた過ちは、自らの行いで償う所存」
「うむ。……心労も溜まっておろう、今日はもう休め」
ジルの言葉に胡坐を解き、一礼と共にその場を辞するナダ。
天幕を出ようとしたその背を、不意にジルの声が留めた。
「ナダ」
「はい」
「……お前、大丈夫か」
ナダは薄く笑った。キース族らしい、薄っすらと唇を上げて、目を細める笑い方を見せた。
「案外平気だ。全力を果たして燃え尽きたんでしょう」
ではこれにて、と再び頭を下げ、ナダは今度こそ天幕を後にした。
後にはただただ、静けさが残るだけだった。
天幕から少しく離れたところで、バーバラが木にもたれて雪を避けていた。
報告を終えたナダを見るやに「此方だ」とある方向へ先導した。
「容体は」
「すこぶる悪い。漸く目を覚ましたが、もう良うはならんだろう」
「……なのに“外”なんかへ出ていたのか」
バーバラに追いついたナダは目を伏せて唸った。背の低いバーバラから手が伸ばされて、ぽんと背中を軽く叩いた。
「落ち込むな。光栄に思えよ。残りの時間をお前のために割いてくれたのだ」
「……うん」
「そら、この中だ」
二人は医療班の天幕が連なる一体に来ていた。少し煙たいぞとナダに注意を促しながら、バーバラがその一つの天幕を捲り上げると、確かに独特な匂いの香が二人の顔にかかった。
火を入れる炉、敷物の上に積まれた予備の掛け布、天幕の骨組みから吊るされたポプリ、日用品の入った籠。最小限の広さの空間で、それら最小限の備品が隅の方に寄せられ、残りわずかな空間を残すほかは寝具が敷かれている。
「ナダ。声を掛けてあげてくれ」
寝具の傍で膝をつくアドラーが、喉の詰まったような声を上げた。
ナダが近くへ寄ると、少し腰をずらして場所を空けた。先ほどまでアドラーが握っていたであろう病人の手、それをそっと包み込んでナダは静かに呼び掛けた。
「エリック兄さん。俺だ、ナダだよ」
ひと呼吸、ふた呼吸、掠れるような呼吸音を聞かせ、白い瞼が持ち上げられ、翠色の目がナダを捉えた。
「ただいま。……少し時間がかかってしまったよ。ごめんな」
エリックが億劫そうにゆっくりと起き上がった。寝具に肘をついたところで一旦動きを止め、アドラーの手を借りて体を起こした。その弱々しさにナダの口元が歪む。
「兄さん――」
「ナダ」
すっかり枝のようになった真っ白な手が、ナダの頭に載った。
「よう帰ったなあ。よう頑張ったなあ。ここまで、本当に、大変だったなあ」
「……っ」
「お前はほんに、立派な男だよ」
ゆっくりと間延びした弱々しい口調に、キース族の古めかしい訛りは、皮肉なほどによく似合っている。ナダは声を詰まらせた。詰まった声で何とか言葉を振り絞った。
「こんなになるまで……っ、隠してたのか」
「大きゅうなったお前を見て、安心したらしい。俺とてな、ここで斃れるなど、何と口惜しいことかと思うよ」
すっかり白くなったナダの短髪を、エリックはまるで幼子にしてやるように撫でた。ナダの顔が耐えきれずにくしゃりと歪んで伏せられた。
「なあナダ。俺はお前に謝らねばと思うてな。あの時お前一人逃さず居れば、お前はこの八年、両親と共に在れた。俺がお前から父と母を奪ったんだ」
「そんなことを……! 俺がっ、考えるとでも思ったかよ! 俺の暴走肩代わりして……そればっかりに、こんな……」
エリックの手を握りしめたまま、ナダは慟哭した。泣き続けるナダの頭を、エリックはそれでも撫で続ける。
「いいんだナダ。いいんだよ」
「……いいわけあるかバカ野郎」
「きっとお前が俺と同じ立場ならそうしたろう。俺はさ、ナダのことも、勿論バーバラも、アドラーも、本当の弟や妹が出来たみたいで可愛かったんだ。家族を亡くした俺の家族になってくれた。それでもう十分と思ってしまった」
意識のあるうちに伝えられて良かったと、エリックは柔らかく目を細めて笑った。
そして、両腕を広げて三人を抱きしめた。ちょうど幼かった時分の三人にしたように。
「……ジゼルさんのことだけが心残りだ。あの人の傷は、俺でも、リーシャさんでも、如何にも出来なかった」
エリックの柔らかい声が掠れる。
「済まない、本当に……どうかあの人を頼んだよ」
翠色の目がナダを見た。バーバラとアドラーもナダに視線を注いだ。
袖で涙を拭ったナダは頷いた。眦が上がり、目の奥に力強い光が灯っているのを見て、エリックはただただ安堵したように――同時に悲しそうに、笑った。
+ + +
書きだめのストックが尽きました。しばらく更新をお休みします。
なるべく早く再開できるよう頑張ります……!




