離別への布石
○ ○ ○
――正直、複雑だ。
ナダと会わない日が続いて、しかもナダのお母さんは危篤状態が続いているらしい。その事実はひどくわたしの嫌な記憶を揺さぶる。
ナダに会えれば、もう少し一緒に過ごせる時間が多ければ、嫌なことを思い出さずに済む。でもまとまった時間が出来てしまえば、それはそれでナダと交わした「約束」を果たさなければなくなる。
ナダとの関係性にキッチリと名前を付けるその時が来るのが、わたしは怖い。
ナダの成人の儀が一週間後に執り行われることに決まった。
キースの人たちは大忙しだ。食材を採りに行ったり獲りに行ったり、道具や服装を準備したりと、静かにせっせと支度を整えている。
「暇ねえ……イコの衣装合わせも終えてしまったし」
今日の散歩の相手はリエラだ。うーんと伸びをする彼女は今日も妖精のように美しい。伸びをしているのに美しいとはどういうことだ、けしからん。
「お祭りの準備、わたしも手伝えればいいんだけど」
「何だか申し訳ないわ、折角の訪いを退屈にさせてしまって」
「いろいろ難しいのは分かってるよ、大丈夫」
「……ねえ、あそこにいるのはナダかしら」
リエラがふと向こうの方を指さした。遠くからでもわかる、あれはナダだ。
ひょろ長いナダは誰かと連れ立って歩いていた。自分の腕に誰かを掴ませて、ゆっくり慎重に足を進めている。
「……リーシャさんだわ」
「あれがナダのお母さん?」
「ええ。今日はお加減がよろしいのね」
明るいセリフとは裏腹に、リエラの顔は僅かに曇っている。わたしから見て僅かなのだから、それは大層良くない顔だ。
どうしてかと尋ねようとした時、ナダがわたしに気付いて手を振ってきた。
「行ってあげて、イコ」
「いいのかな」
「きっとリーシャさんもあなたと話したいでしょう」
リエラに背を押されて、わたしは頷いてナダたちに駆け寄った。
二人に近づくにつれ、心臓がどきどきと鼓動を早める。今胸にせり上がるこの感情が何なのか、それは考えてはいけない気がする。
「イコ。散歩中?」
「まあね。この人は……」
「うん、俺の母さん。母さん、さっきも話したイコだよ。ここまで一緒に旅をしてくれたんだ」
ほっそりした体は、弱々しくも上品さを纏っている。
ナダは母親似なのだ。目の細め方、微笑み方、投げかけてくる視線の感じがとてもそっくりだ。
「初めまして。とは言うても、息子からあなたのお話を沢山聞いたものだから、初めて会った気がしないの。おかしいわね」
「あはは、実はわたしも。女装したナダとそっくりなせいかな」
「おいイコ余計なこと言うな」
「まあ、女装? 是非後で拝みたいものだわ」
ナダが頭を抱えるのを見て、わたしとリーシャさんで顔を見合わせて一緒に笑い声を上げた。
「寒いけど中にいなくていいんですか?」
「外の空気を吸いがてら、息子とデヱトすることにしたの。あなたも嫌でなければいかが?」
「そんな、お邪魔じゃないかな……」
「イコ」
わたしの肩をナダが引き留めた。
そしてリーシャさんに聞こえないギリギリの低い声で耳打ちしてきた。
「一緒にいて。……頼む」
「…………」
耳がくすぐったい。
でもそれを言うのは何だか憚られて。
「……しょーがないな、ナダがどうしてもって言うから付いてってやるよ」
「ありがと」
結局行くことになってしまった。
「――そうしたら次の日、薬を作りに来てくれた人がね、『お子さんに口説かれちゃった』って。会う人皆口説いて回ってたのよ」
「うっわ、ちっちゃい頃のナダ超タラシじゃん」
「母さんもうやめてくれ……いつの話してんだよ……」
焚き火の焚かれている広場にはベンチがあって、そこにナダが持ってきた温かいクッションを敷いて三人で並んでおしゃべりに興じていた。
さすがナダのお母さん、生まれる時からナダが育つまでのあらゆる話をしてくれる。産声を上げず産婆さんがトントン背中を叩いたこと、夜泣きでよく炎を出して敷物を焦がしたこと、リーシャさんは蛇が嫌いなのに振り回して遊んでいたこと。
今は男女問わず「かわいいね」「だいすき」と言っては抱き着いて回っていたという話をしてくれている。
「なるほどね。ナダのストライクゾーンはかなり広いってわけだ。ゆりかごから墓場まで」
「意味違うだろそれ。んもー、さっきから俺のしょうもない話ばっかしてくるじゃねえか……」
「あらいいじゃない。イコちゃんの笑顔を見られたのだから。ね?」
悪戯っぽくくすくす笑ったリーシャさんは、一つ息をついて柔らかい目をわたしに投げかけた。
「ねえイコちゃん。息子によくしてくれて、本当に感謝しているわ。ナダは私の知らぬところで沢山人に助けて貰っていたのね。母親としてこんなに嬉しいことはないわ」
色彩の薄い冬景色の中でもひときわ目立つほど、リーシャさんは白かった。
その白さは残酷に、雄弁に語っていた。余命なんてもう少しも残っていないことも、最後の一端を気力で繋ぎ止めているだろうことも。
肌の下がむず痒いこの感覚は、本能的な忌避感情だ。漂う濃密な死の気配に顔をしかめてしまいそうで、少しも気が抜けない。リエラを始め何人もが言った「リーシャさんは長くない」とは、病気だからとか、体が弱いからとか、そういう理由ではなかったのだ。
これは……ベルゲニウムは、人の体を細胞の内側から壊す。
確たる根拠もデータもないけれど、リーシャさんのたおやかな手がそれを示すかのようだった。その手を握るナダの手も白くて、不意に「こいつも長生きしないんだな」と感じてしまった。
俯いて両手に力を籠めた。こうでもしなければまともに話せない。
「今度はわたしの番ですね。ナダのお母さんが知らないナダの話。ホントもう衝撃的なファーストコンタクトだったんですよ。真冬の公園のベンチで寝てて、まあ雪降らない地域だったからよかったけど、バイトで疲れすぎて家のベッドと勘違いしてたんですよ」
「その節は世話ンなりました」
気まずそうに、でも軽口を叩くような調子でナダから言葉が返ってくる。
「その節どころか、しばらくナダの胃袋を世話したけどね。でもナダって、安いごはんでも失敗した料理でも、ものすごくおいしそうに食べるんだ。それ見てたら、わたしが今食べてるものはおいしいものなんだなあ、って実感湧くの」
パンはスポンジ。肉はゴムの塊。野菜は草だし、塩や胡椒は砂だし、調味料はどんなにかかっていても味覚情報としてしか捉えられない。口に詰め込むものにいちいち感情が伴わない。生命維持に必要な行動だから、食べる。ただそれだけ。
けれどベンチで一晩過ごしたナダをモーニングに連れて行った時、初めてファミレスのオムレツが「おいしい」と思えた。高級レストランよりも上等な味がした。その時向かいの席には、バカみたいな皿数を空にして幸せそうにしている男子がいた。
「あのね、リーシャさん。ナダはわたしに助けられたかもしれないけど、結構わたしも助けられたんですよ」
──たとえこの後、ナダとの関係にどんな名前がつくとしても、この事実だけは変わらない。
口には出さずそう締め括って、ベンチから立ち上がって手を差し出した。リーシャさんは少し驚いた顔をして、けれどすぐに嬉しそうに破顔して、手を取って立ち上がった。
「よかった。……私、今とても幸せよ」
震えそうになる唇に無理やり力を入れて、顔面の筋肉を総動員して笑みを形作った。
手のひらに伝わるリーシャさんの感触はどこまでも柔らかくて、力がなかった。
歩き疲れたリーシャさんを医療班のテントまで送った。
薄っすら頬を上気させていたし、看護師のような人も「楽しそうね」と声を掛けていたから、わたしとナダとの散歩を本当に楽しんでくれていたみたいだ。
わたしは今、ナダと並んで歩いている。前までは少し見上げればそこに顔があったのに、今は頭一つ分も背丈が違うから、こうして歩いている状況では顔を見るのも一苦労だ。
けれどわざわざ顔を覗き見るような真似は出来なかった。ただ無言でぶらぶらと通りを二人でうろついている。白い人々からは、一瞬気遣わしげに視線がやられ、即座に逸らされて、わざとらしくない程度に道をあけられる。
陽が傾いてきてグッと冷えてきた。住居帯からは炊事の煙が細々と立ち昇って、それを見ていると心細いような気分になってくる。
「……そろそろ帰ろうぜ。風邪ひいちゃうしさ」
地面を見つめたまま促した。頷く気配がした。
「ん、オッケー。こっちで合ってたかな――うわっと」
突然手を引かれて、崩れた廃屋の陰へと連れられた。そこはもうほとんど日が差し込まず、夜のように暗い。
「え、なに。近道……じゃないよね、行き止まり……」
「…………」
「ナダ?」
わたしの手を掴んだまま、ナダは黙っている。見上げても顔は見えない。
と思ったら、廃屋の石壁に背を付けてしゃがみ込んでしまった。手を離さずにしゃがんだナダに巻き込まれて、わたしとナダの距離がぐいと近づいた。
「わ、わ、ちょっと……」
「ごめん」
「いやいいけどさ。大丈夫? 人呼んで来ようか。やっぱ連日おかしいぐらい忙しかったもん、少し休まなきゃ体もたないよ」
「……ごめん」
ナダの手の力が強まる。手袋から指先が抜けて、ナダが必死で手袋に縋っている図になってしまった。
分かっている。ナダは別に具合悪くなんかない。原因も分かる。けどここで崩れられたら、
「ごめん……ホント、ちょっとだけ……」
――ねえアドラー。
わたしは頼まれるほど強い人じゃないんだけどな。
観念して、半分脱げた手袋から手を引き抜いた。肩を震わせたナダの隣に腰を下ろして、ナダの手から手袋を取り上げて自分の指を絡めた。
「あんた頑張ったよ」
「うん」
「わたしも超頑張った。……あのさナダ、思ってることはちゃんと言った方がいいよ。バーバラもリエラもアドラーも、キースの人たちもみんな、あんたを心配するのが下手くそなんだ」
発する言葉はとてもキースらしいのだと思う。けれどその言葉は、今のナダには明後日の響きを持って届いてしまうし、“外”の生活を通して変な我慢強さを獲得したナダは、その明後日な優しさからくる痛みをじっと堪えてしまう。
わたしは優しい奴じゃないから、今どんな言葉を掛ければナダを泣かせられるか、手に取るように分かる。今この場に於いてナダを泣かせられるのはわたしだけ。泣いたナダに寄り添えるのも、きっとわたしだけ。
寄り添うわたしはきっと、とても人間らしいはずだ。
「お母さん、もっと長く一緒にいられたらいいのにね」
「……ッ、……」
「死に目に会えてよかったけど、そうじゃないよな。もっと元気なうちにさ、いろんなこと出来たらって思うのに、諦めのいいキースの人たちは大人だね。とっても哀しい大人だ」
「もう黙ってくれよ。なんなのお前……ん、」
トントンと肩を叩いてようやくナダは顔を少し上げて、目だけ覗かせてきた。
「……何?」
「ほら。来なよ」
わたしは両腕を広げた。ナダは面食らった。
「え、いや……さすがにそれはよろしくない……」
「ガタガタ言うなって。胸くらい貸してやるってことさ、相棒」
「は……あはは」
笑おうとして、ナダは失敗した。
泣き笑いでくしゃくしゃに顔を歪ませて。
「お前本当、かっこいい……」
それだけ言ってナダは肩口に顔を埋めてきた。背中に回された腕には力が入らないようだった。時折わたしの髪を弄ぶのを、気付かないふりをしてじっと堪えながら、わたしもナダの体温と鼓動を感じていた。
存分にこうしていれば、今日の夢枕に血だらけのお母さんは寄り付かない、そんな気がしたから。
そうして二人で震えた。
死にそうな母親と、もう死んだお母さんを、それぞれ思いながら。
それから二、三日後、リーシャさんは亡くなった。
暴走するほどの体力すら残っていなくて、朝になって看護師が様子を見に行くと既に息を引き取った後だったという。
わたしと一緒にその報せを聞いたリエラは、真白になった唇でこう呟いた。
「死ぬ直前、病人は急に元気を取り戻すのよね」――と。
○ ○ ○




