彼の手
〇 ○ ○
目覚めたナダに、周囲はゆっくり過ごす時間をほとんど与えなかった。
体の検査、外界で過ごした八年間についての聞き取り、よく分からないけどいろんな会議、それに“適性検査”のようなものもあって、とにかく忙しくした。おかげで「キースに帰ったら話をしよう」という約束が果たせないのだけど、それはそれで安心している自分がいて苛立つ。もう曖昧で楽な方へ流れちゃいけないと決意しての約束だったのに、簡単に流されそうになっている。
ナダとろくに顔を突き合わせない日が続いたある日、わたしはその日もナダに会う気力よりも眠気の方が勝って、焚き火に背を向けて毛布の中でまどろんでいた。深みに沈んでいく眠りを、不意に良く知った手つきが留めた。
「……立場が与えられるって難しいな。俺の立つ瀬をどこにするかで、周りのいろんな立場たちのあり方もまた変わってくる」
ナダが何か難しいこと言ってる……眠気でポンコツ化したわたしの脳みそは、そんな簡単な感想しか導けなかった。
ほんの僅か瞼を持ち上げてみる。視界にナダは映らない、背中側に座っているのだ。わたしを起こさないように静かな声でベイと話しながら、ゆっくりとわたしの髪を撫でている。前より少し低くなった声は耳に優しく、手はとても温かい。
「俺はそういう立ち回りが得意じゃないっていうのにな。……ここに来てまさか、ガラクトでの経験とか、ガナンを相手にした経験とかが活きるとは思わなかったよ」
「ガナンの時は何とか取り繕えてたが、それは短い時間だったからだ。この先それでやっていけんのか?」
「耳が痛ェ……でもやるしかねえんだよ」
髪に指が潜り込んできて、指の腹が地肌に届いて緩慢な動きでゆるりと撫でた。その淡い刺激がぞくりとうなじを震わせ、背筋を伝い、指が動く度にお腹の奥で蓄積されていく。
(んッ……ヤバい、バレちゃう……)
唇を噛み締めた。毛布を握りしめてその刺激を逃がそうとした。
指はそのままするりと髪を一房掬い上げた。絡めて弄んでいるみたいだ。指の主はふっと笑むような息を漏らして言った。
「お前ら二人が思ってる以上に、俺は二人のことを大事に思ってるよ。この先お前らがいつどこにいても、どんなに時が経っても、それは絶対に」
「なんで俺も入ってんだ」
「あっ……イコ悪い、起こした?」
わたしが瞼を開けているのにナダはようやく気付いた。ピタッと指の動きが止まった。くすぐったさを堪えて大変だったのに、止むとそれはそれで残念な気がした。
「なんかむずかしいはなししてる」
「そんなに大事な話じゃねえよ。眠いだろ、寝てていいよ」
「んー……」
嘘だ。絶対大事な話してた。でもわたしからは眠たい声しか上げられなくて、諦めて目を閉じた。瞼に何か触れた、多分ナダの指の背が撫でてきている。
「起こしてごめんな。おやすみ。また明日」
「……おやすみ……」
睡魔の誘惑には抗えず、そのまま深い眠りに落ちていった。
焚き火の爆ぜる音とナダの手の感触がただ心地よかった。
――この時の会話をちゃんと聞いていたら、その意味を問い質していたら。
わたしはあとで後悔することになる。
+ + +
キース族の部署の一つ“司書院”は、他の部署の天幕や工房が連ならぬ場所に、その拠点を設置する。ここ旧マルヴェル村の廃墟群においてもそれは同様である。理由は他部署や議会、個人と必要以上の癒着を防ぐため、また保管している記録の損傷を防ぐねらいもあるためだ。
昼時が近付いて、勤めを中断した者たちが昼食を求めてあちこちの天幕から出てくる中、アドラーは司書院の執務を行う天幕から少し離れたところで立っていた。懐に入れた懐炉はまだ温かいが、そろそろ体の芯が冷えてきて、温かい飲み物を貰いに行こうかなどと考え始めた頃だった。
「――……では残りはまた午後に。……アドラー」
動く気配のなかった天幕からナダが出てきてアドラーを見つけた。
携えていた紙束を隣の男に押しつけて駆け寄ってくる。
「待っててくれたのか」
「取り込み中だったろう、すまない」
「ちょうど休憩に入るところだった。体冷えたろ、飲み物貰って歩きながら話そう。昼は? もう食った?」
「後でイコと食べる約束をしている。今はよそう」
「じゃあ飲み物だけ貰おうか」
羽織るだけにしていた外套の前をきちんと合わせるナダは、目元が腫れぼったい。冷たい空気に何度も瞼を瞬かせて、遂に大欠伸をして小さく謝った。
「眠気覚ましになればいいなあ」
「それよりもしっかり眠った方が良かろう。まさかその顔でイコに会うとるのか?」
「夜に顔見に行くので精一杯。お前やリエラには世話になり通しだ、有難うな。――ああミツカおばさん、温かい茶を二人分くださいな」
勤め中の者らに向けた炊き出し用の天幕に声を掛け、ナダは木製のマグを二つ受け取った。砕いた木の実が飾りに浮く、素朴な味のスープだ。
アドラーはナダを誘って、少し小高い場所へと向かった。そこにはかつての民家が立っており、風化した家の前には遊具やベンチの残骸がある。
「ここは穴場でな。見ろ、周囲の山が一望できる」
「おお……綺麗だ」
「こっそり長椅子も直して座れるようにしたんだ。ここにエリックと二人で座るのが好きなんだが、今回は特別にお前に座らせてやる」
「はは、じゃあ有り難く」
冗談めかした笑みを見せて腰を下ろしたナダの隣に、アドラーも座った。マグの中身を一口飲むと、体の内側からじんわりとほぐれていく心地が広がった。
隣のナダも飲み物を飲んでいる。盗み見る横顔は幼い頃の面影も残していながら、すっかり色素を失ってしまった。昔は麦色だった髪も、つやつやした肌も真っ白になってしまって、瞳も子供の頃より色を薄くしている。
「ガラクト地方の町でお前に会った時にな、私は心底安堵した。あの時お前は明らかな暴走を起こした後で、酷く寝込んだ後ではあったが、それでも息災だったことが何よりの良い知らせだった」
青灰色の目がこちらに向いたので、アドラーはやや視線を落とした。ちょうどマグを持つナダの手元を見る形になった。細く見えはしても、骨が張って皮が厚い手は、否が応でも外での苦労を窺わせる。その苦労の跡を見つめながらアドラーは続けた。
「……お前が外で負ってきた苦労は、本当ならば私が負うはずだったものだ。私が森で妙ちきりんな金属に手を伸ばさねば、あれは私に牙を剥かなかったろうし、自分で避けられていたら……バーバラとお前が私を力ずくで突き飛ばしてくれたから、代わりにお前が犠牲になった」
「アドラー。でもあれは」
「あの箱にお前が飲み込まれた光景は忘れられん。お前を飲み込んだ途端、物凄い勢いで森の奥へ行ってしまってな、追いかけようにも恐ろしゅうて体が動かなかった。……情けない話だ。私は助けて貰ったのに、それを仇で返す真似をしたのだ」
ナダから口を開く気配はしたものの、言葉は返って来なかった。ナダは昔からこうだ、勢いで何か言い返そうとしたところで、不意に冷静さを取り戻し言葉を反芻した後、結局何も言わずに終わってしまう。
その癖を知り得ているのをいいことに、アドラーは自嘲的に笑んで自らの言葉を続けた。
「ガラクトで謝ってもよかったのだがな。記憶の欠けたお前にとっては謝罪たり得ぬと考えた。今ならば良かろうな……本当にすまなかった。感謝もしている」
「悪いがアドラー、謝罪も感謝も受け取れんよ」
アドラーは驚いてナダを振り返った。言うなれば彼女はナダの隙をついた謝罪と謝意を送ったのであり、すぐさま言葉が返されるなどとは予想だにしていない。ましてや拒否されるなど考えもしなかった。
そんなアドラーを、ナダは可笑しそうに目を細めて眺めた。
「苦労したのは否定できんが、女子の身ならば余計に要らぬ苦労も増えたことだろうよ。男の俺でよかったんだ。むしろ俺の方が謝らねばなるまい」
「何故……」
ナダは外つ人らしくニヤッと笑った。
「そりゃあお前、大好きなエリック兄さん独り占めされて悔しかったろ?」
「バッ――馬鹿か! そんなことはッ……」
「そんなことは?」
「……ある」
「あはは、だろ? まあ……あの施設は苦い思い出ばかりだけど、父さん母さんと過ごす時間が増えたし、イリヤさんもエリック兄さんも独占出来た。外の世界も沢山見られた。そんな機会をお前から奪ってしまって、俺の方こそ謝りたいよ」
だからおあいこだ、とナダは締め括ってスープをぐいと飲み干し、ひと息ついてまた続けた。
「まだ十分に話を聞けてはいないが、俺たちが捕まったことで、たくさんの人が様々傷を負っていたのは分かった。お前だって外の世界は怖かっただろうに、俺を探しに来てくれたんだな。ありがとう」
「私は……エリックが戻ってきたからな」
「今でも外は怖い?」
「何とも言えん。依然、恐ろしく感ずる時もある」
相槌を打つナダの声は穏やかで、それに促されるようにしてアドラーはぽつぽつと先を語る。
「エリックと旅をして初め、恥ずかしいことに怖くて眠れなかったんだ。だが山頂で過ごしていたある夜、エリックが私を外に連れ出して、景色を見せてくれた。……驚いた。背後の空には無数の星が瞬いているのに、眼前の遥か地上では町の明かりが幾多も灯って明るいんだ」
「大きな町だったんだな」
「ああ。人は夜、こんなに明るく賑やかに過ごせるのだなと……キースは夜、夜番の篝火を焚くほかはしんとして静かだし、日中もなるたけ騒がぬよう気を付ける。だから……」
アドラーは気付かない。自分がどれほど目を輝かせて、楽しそうに話しているのかを。
それを黙って眺めるナダが、どんな顔をしているかも。
「あの市場の活気も、酒場での喧騒も、とても目新しい。色を残したままの大人たちも驚いたものだし、しわの寄ったご老人も初めて見た。知らない料理にも出会えた」
「食べ物はどれが一番好き?」
「チーズ。ピザにたっぷり載っているのが良い。乳臭い味のするものも嫌いではない」
「酒のつまみにピッタリなんだ。酒飲めるなら、今度やってみたらいいぞ」
「それからチョコレートだな。あれは極上の甘味だ。カカオは暑い地域でしか採れぬと聞いたが、どの町でも目にする菓子だ、つまりは流通網が安定しとるということなのだろうな。情勢の落ち着いた近年ではガラクトでの栽培も試されているそうだ」
「チョコひとつでそんなことまで調べたのか……凄いな。俺、甘いのはそんなに好きじゃないけど、孤児院で作ってもらうお菓子は大好きだったよ。アップルパイとか、名前の難しいケーキとか」
「是非食べたい」
「パドフさん喜ぶよ」
穏やかに笑った後で、アドラーは密やかにため息をついた。
「皆が私と同じく在れば良いのにな。同じキース族とて……やはり人の集合体なのだ」
「うん」
「私もエリックも、為せる努力はすべて為したつもりだ。が、やはり人の心は複雑だ。時間も足りなかった。この期に及んでまたお前に助けを求める私は……昔と変わらず弱虫のままだ」
“泣き虫アドラー”は泣かなくなった。
けれど涙を見せないだけで、本当はいつも泣きたい心地でいる。
「十分やってくれたよ、アドラー。お前は心の優しい奴だ。強い人だよ」
ナダは声色を変えずに、けれど僅かに重みを増してそう言った。
「いいよ。ここからは俺の役割と心得ている」
「――……」
「謝らないでくれ。俺が望んですることだ」
「……分かった」
空になったアドラーのマグを取り上げて、ナダは「先に戻る」と言い残して坂を下りていった。ベンチに一人残ったアドラーはミトンを嵌めた手で顔を覆った。
「きっとそう言うだろうと思ったよ……ナダ兄」
分厚い手袋に染みが広がる。ひっそりと涙を流した後で、アドラーも鼻を啜りながらベンチを後にした。
――その様子を、風化して屋根の崩れた民家から見守っていた男がいた。
黒いトレンチコートのポケットに差し入れていた手を抜き、首元の白いマフラーを巻き直して、自らもゆっくりと坂を下って行ったのだった。
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