見えない顔で微笑んで①
○ ○ ○
――もう一週間を過ぎた。
ナダはまだ戻らない。
ようやく能力放出が終わったとは聞いた。ナダの放った能力を交代制で相殺していたチームがぞろぞろと戻って来て、テントに入っていくのを遠目に見たけれど、彼らの顔色はそれはもうひどかった。バイトの激務で疲弊しきっていたナダと同じくらい、つまりかなりヤバい顔色である。
「や、正直な、これだけ溜め込んでよくぞ正気で居れたなと感心したよ」
わたしのテントでお昼ご飯を一緒に食べながら、バーバラは何度も頷いた。
「末期でもあれほどの者は居らんかった。若いから溜め込めたのか、ナダが特別な体質なのか、その辺はこれから研究班が解明しようがな。まあ真相は誰にも分かるまい、キースには別に特殊な器具などがあるわけでもなし」
「ナダもそうだけど、対応してた人たち、ちゃんと体調戻るのかな」
「なァに、わしらは山の民。体力は有り余っとるから心配ない」
その時遠くの方から、
「嫌じゃあーまだ起きとうないー」
「寝かせェー」
「もうちと寝たいー」
……という呻き声が数人分聞こえた。
「……有り余ってる人たちのセリフじゃないよね」
「幻聴だろ」
「ええー……」
「食うて寝りゃすぐに良くなる。茶のお代わりは?」
「……じゃあいただきます」
外は相変わらず極寒だけれど、キースの外套で身を包んで散歩をし、冷えた体を温かい飲み物で溶かすと、これはこれでいい心地に思えてくる。お茶は乾燥させた何かの植物で淹れていて、ほのかに甘い味がしておいしい。
お茶を楽しんでいると、「入るぞ」という声と共に誰かが幕を捲り上げた。
「よおヘザック、お前が研究班の天幕から出るたァ珍しいな」
入ってきたのは初対面に最悪な印象を与えてきた研究班・ヘザック。細い肩にかかる布鞄からは巻紙が幾つも覗いている。そういえば長のジルさんに「大好物」と言われていたっけ。
ヘザックは少し顔をしかめた。
「俺も時には外に出る。早くお前の耳に入れたいことがあってな」
「イコに聞かれては拙いか?」
「差し支えなかろう。……ジゼルさんが戻った」
──バーバラの纏う雰囲気が、ピリッとしたものに変わった。
「然様か」
「ナダの方はあと一息だ。其れ迄はお前の働きに掛かっとる。均衡を崩すなよ」
「無論。万に一つもお客人らを巻き込む事があっては、ナダにどやされるのみでは済まなかろうて」
ヘザックは頷いて、わたしに一瞥くれて去っていった。やっぱり嫌な奴だ。
けれど今の会話はどういうことだろう? ジゼルさんはナダのお父さんだから、バーバラにとって叔父にあたる人のはず。なのに今のはまるで……。
訝しむわたしに気付いたバーバラが苦く笑って、張り詰めた空気を掻き消した。
「つまらん事を聞かせたな。あまり気にするな」
「でも……」
「わしらも色々と複雑なのだよ。ハア、まっこと面倒くさい。ナダの治療に斯くも時間が掛かるとは思わなんだ」
バーバラは額を覆う飾りをカリカリやって呟いた。
「ナダが如何なる男に成ったか、確かめる迄は動けぬというに。やり難いものだ」
「あのさバーバラ」
「ん?」
ざわりとした違和感がずっと胸の辺りを撫でている。最初から感じていたものだけれど、時間と共に無視できないほどに強くなっていた。
けれど。
「あー……やっぱ何でもないや。気にしないで」
その違和感を口にしかけて、やめた。ここで下手に勘繰るような真似を働くのは良くない。わたしはあくまでお客人なのだ。
幸いバーバラはさして気にした風はなく、サラリと流してくれた。
「然様か? さて、リエラは何処に居るのかな。最初に決めた割り当てが全然機能しとらん、わしはベイの兄貴に着いとるはずだろうが」
「今来たわよ。リーシャさんの様子を見ていたの」
今度はリエラがテントに入ってきた。整った顔を険しくさせている。
「すぐそこでヘザックのあんぽんたんとすれ違ったのだけど。まさかあいつ、私のイコにまた何かしたんじゃないでしょうね」
「イコはお前ンじゃなかろう。わしに用があっただけだ。聞いたか、ジゼル叔父貴が戻ったそうだ」
「そのようね。リーシャさんも少しは楽になるかしら。報せを聞いて目が輝いたから」
美しい顔から険しさが消え、代わりに心配そうに瞳を曇らせた。
リーシャさんとは確かナダのお母さんだ。体が弱い人だと聞いていたし、ナダと生き別れる直前には血を吐いていたというから、今生きているのは奇跡だと思う。
「大丈夫なの、ナダのお母さん」
「正直なところ、危ない状態が続いとるのよ。ナダももう少し頑張ってくれないかしら。あまり長引くと死に目に間に合わないわ」
「死に目って……」
「その気になればいつでも楽になれるというのに。きっとナダを一目見たいがために、気力でもたせているのだわ」
(――楽になれる……)
口にしたリエラも、傍で聞いていたバーバラも、その歪さに気が付いていない。その様子がますますざらざらと心臓を舐めてくるようだ。
二人――いや、キース族にとって生とは苦しみで。
唯一の解放手段が死で。
かといって、生を完全に諦めきれないから、“治療”などという手段が存在するわけで。
ナダにも少なからずこういうところはある。この煮え切らなさがわたしは嫌いだ。
けれどもしかしたら、この歪みにナダは気付いていたのかもしれない。ヴォドラフカ村で過ごした短い間でナダは急に顔つきが変わった。故郷に還れるかもしれないという希望から、何か責任のようなものを負ったように。
(……バーバラと合流した時、ナダは変だったよな。あれって……わたしとベイを守るために……?)
突然の謝辞。
あれはわたしたちに向けられたものというよりも、近くに来ていたキース族に聞かせるためのものだった……?
「イコ? 顔色が優れんな。どうした?」
バーバラが気付いて呼び掛けてきた。でも顔を覗き込むような真似はしてこない。そう、彼はいつだってわたしやベイの傍にいながら、必要以上に踏み込んでは来ないのだ。
「大丈夫? どこか気分が悪いの?」
傍らに寄ってくるリエラも、わたしには触れて来ない。かけてくる声も言葉も温かいのに……何だか薄ら寒い。
「ごめん、二人とも……ちょっと一人になりたいかも」
「気にしないで。そういう時もあるわ。さあバーバラ、久々にデヱトでもしましょうか? 探索班から聞いたのだけれどね、向こうの滝で凄まじい氷瀑が見られるのだそうよ」
「……や、お前がそれでいいのなら構わんのだがな……」
氷瀑眺めて何が面白いんだ、とバーバラはぼやきながらテントを出て行った。アドラーに聞いた話によると、二人は近々結婚する仲らしいから、その情報を得た後だとぼやきすらかわいらしいものに思えてくる。
焚いてもらった焚き火の横で膝を抱えて丸まった。外は極寒でも中はとても暖かい。適度に空気が外に流れるから、息が苦しくなるようなこともない。
けれど底冷えするような空虚感がずっとわたしを襲っている。わたしは誰かさんみたいに絶対的な記憶力を持っていないから、数日顔を見ないだけで簡単に顔を忘れてしまう。
(……ちょっと気分変えないと)
こうして丸まっていると、気分まで丸まって落ち込んでしまう。
アドラーやリエラがいない今、外を歩くことは出来ないけれど、テントの周辺なら問題ないはず――誰にともなくいい訳して、外套にすっぽりと身を包んで天幕の外へ出た。
○ ○ ○
冬至が近いことと、随分と北の方にいるせいだろうか。時刻はまだ夕方に差し掛かった頃だというのにもう暗い。
空気が寒さに張り詰めて、キンと冷たく澄んでいる。直に吸うと肺が凍りそうになるけれど、ここにきてわたしは初めて「空気がおいしい」という感覚を知った。
「――外の子どもか」
「んぎゃっ」
突然声を掛けられて跳び上がった。
テントの裏手を男の人が通りがかったところに、ちょうどわたしが出てきたらしい。口元を押さえるわたしを見て、その人はふっと目元を和らげた。どこかで見た顔……長のジルおじさんに瓜二つだけれど、彼のような人好きのする朗らかさまでは窺えない。
「あ……もしかして“ジゼルさん”? ナダのお父さんの」
「ジルと見分けがつくとは、大した娘だ。その通り、俺はジゼル。息子のナダが世話になったようだ」
言い回しがとてもジルさんに似ている。双子だから見目もそっくりだ。
けれど纏う雰囲気がまるで違った。ベイが予想を立てていたような、「ジルはリーダー、ジゼルはカリスマ」という、まさにその通りで、ジルさんのようなたっぷりした余裕というよりかはスマートな感じのする大人だ。
……ちょっと大分かなり、めちゃくちゃカッコイイ。
ナダをもっと男らしくして、「大人の余裕」というやつをプラスして、色気を掛け算した感じの人だ。目を合わせただけで心臓が暴れ出して変な汗が出てくるし、逃げたいのにこのままここに居たいような、変な感じがする。
「ここは寒かろう。体を壊してはいないか」
「わっ、わりとだいじょーぶです。このコート借りてるんですけど、めちゃくちゃあったかいですっ」
「丈夫に作られた毛織物だ。風を通さず、寒さからよく守ってくれる。気に入ってくれて嬉しい」
そう言ってジゼルさんは、柔らかい視線を投げかけてきた。
途端にぶわっと体じゅう沸き立つ感覚が広がった。
(うわ何これ……なにこれ、ふわふわする……)
ダメだ。視線をジゼルさんから外せない。
多分わたしは今、顔を真っ赤にしているだろうし、みっともない表情をしていると思う。だから逸らしたいのに、ジゼルさんの淡い青をした瞳がそれを許さない。
何より、所作のところどころにナダがちらついていけないことをしているような気分になる。っていやいや何をナダに義理立てすることが……
(――うん?)
唐突に異物感が湧き上がった。
異物感は即座に冷静さをもたらした。これほど強い印象を与えてくるこの人が、急に怖くなってきた。
「あー……えっと……」
浮足立ったような興奮と、冷や水のような恐怖が、同時に襲ってきて眩暈がする。
ダメだ。早く逃げよう。よく分からないけど、自分の中で鳴り響くこの警報を無視しない方がいい気がする。深呼吸をして冷たい空気を肺に取り込み、それっぽい言い訳を見繕った。
「わたし、あんまり一人で外にいない方がいいっぽいので、そろそろ入ります」
「…………」
ジゼルさんは少しの間、何も言わずにただわたしを見ていた。その視線はとても蠱惑的だった。淡い色が視界に強く焼き付くようだ。
それにじっと耐えているうち、ようやくふっと目が伏せられた。
「そうか。済まない、足を止めさせたな。僅かでも君と話せてよかった」
「へぁっ……はい」
「また機会があれば。では」
口の端をほんの少し和らげる笑みを残し、ジゼルさんは着ている黒いトレンチコートを翻して通りの向こう側へ去って行った。キース族の服ではない、外界の上着とシンプルな服で、洗練された雰囲気を醸している。それはキースから浮いていながらにして、やはりキースの人だと思わせる空気感だった。
わたしはテントに入った。混乱していた。心臓が苦しいほどにバクバクと胸を叩いてくるし、車酔いのような眩暈がする。落ち着こう、焚き火で体を温めれば少しは楽になる。
「戻ったぞ。……イコ?」
ほどなくして戻ってきたベイが、体を丸めるわたしを見て怪訝な顔をした。
武骨な手が額に押し当てられた。わたしはまだ顔が赤いようだ。
「熱……はねえな。どうした?」
「ベイ。ジゼルさんに会ったよ」
「……どうだった」
「なんかあの人……いや、そういう人なのかなあ」
「あァ?」
例えばリエラのような美貌を持っているわけではない。なのに、目を惹き付けて離さない。静かな声は耳に心地よく、その声で紡がれる言葉をもっと聞いていたいと思うし、あの淡い瞳にいつまでも自分を映していてほしい。
……初対面の人にそんな感覚を抱くのは、絶対普通じゃない。
「うーん、何て言ったらいいかな。無自覚タラシ?」
「なんだそりゃ……まあ、お前のその状態見て、何となくどんな奴か察しは付いた」
憂いを含む溜息をついたベイは「もう寝ろ」とでも言わんばかりに枕をぽんぽん叩いた。また子ども扱いだ、口を尖らせて見せはするけれど、実はそんなに嫌ではなかったりする。
掛け布団を肩まで引きずり上げると、武骨な手が今度は頭に乗った。
「聞いた話だと、ナダは順調に回復してるそうだ」
「ほんと?」
「だがなんせ連日不眠不休で能力使ってたからな、爆睡中だってよ。目が覚めりゃ後は早いだろうって」
「そっかあ。ナダなら大丈夫だね」
「ああ。もう少しの辛抱だ」
ベイの野太い声は鋭さが引っ込んで、子守歌のような穏やかさが揺蕩っている。
頭を撫でられながら眠りに落ちる寸前にふと、この声も撫でる手も、かつてミズリルの子たちに向けたものだと気が付いて、胸の奥がツンと引きつった。
その夜、久しぶりに夢を見た。
潰れたザクロのようになった頭部。くすんだブロンドの髪が肉片と血でまみれ、アスファルトの地面にべったりと張りついている。こちらにむかって伸ばされた手は痙攣して、自らの血だまりを不規則な動きで広げている。
ぐるんと顔がこちらを向いた。
虚空を映す生気のない目でわたしを捕えて、言った。
――お前は本当にお母さん似だねえ。
○ ○ ○




