少年の帰郷
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「……顔色ヤーバいね」
俺を一目見た村医者アレンの、開口一番の一言がこれである。
「昨日もあんまりよくなかったけど、今日はピカイチで悪いよ。大雪前の曇り空とおんなじ色してるよ」
「俺の顔色の解説はいいから、さっさと道案内してくれないかな、先生」
「ああごめん。もちろんだよ。じゃあサーシャ、それにアリークとセリカ、先生は“入り口”まで送ってくるから。この三人とはここでお別れだ」
後ろを振り返ると、サーシャと双子が三人で手を繋いで立っていた。俺たちが今日発つことを知った双子は、朝一番に学校へ駆けて行って休むと言い残してきたという。そこまでするなら学校に行こう。
双子はぼろぼろ大粒の涙をこぼして、お揃いのマフラーをしっとり濡らしていた。二人の肩に手を添えてやるサーシャは、やはり薄い表情で俺たちを見ていた。
「ばあちゃんの時とは違う。また会えるよ」
「う゛ん゛っ」
鼻水でずびずびのアリークはベイにぎゅうっと抱き着いた。その後ろからセリカも泣きながら近づいてきて、ベイの上着をつまんで引っ張った。
「あの、あのねベイさん、耳かしてくれる?」
「ん、何だセリカ……んッ!?」
耳を寄せようと屈んだベイの頬に、セリカがちゅっと口づけて、はにかんだ。
「えへへ……またね」
「ああ、またな」
ベイの黒い目に一瞬、ほんの一瞬影が走った。しかしそれをすぐに掻き消して、大きな手でセリカの頭をぽんぽんと撫でてやった。
「イコちゃんとナダくんも、またね。またおはなししようね」
「うん。恋バナしよう」
「俺も混ざって良いならな。アリークも、……きっと元気な男になれよ」
「う゛ん゛っ」
アリークに手を差し出すと、少年は笑い泣きでぐちゃぐちゃの顔を離してハイタッチしてきた。ベイの上着からびよーんと粘っこい液体が伸びた。
「ああアリーク、鼻水付けてはいけないだろう? すまないね、これを使ってくれ。なあナダ」
「うん」
俺に呼び掛けてきたサーシャから、言葉にならなかった靄が二つ、立ち昇った。
色の薄い睫毛が伏せられた。
「……いつか、きちんとあちら側に挨拶したいと思っている。食べ物などいくらでも差し出す、何ならこの村に住まうてくれても構わない。ここは老人ばかりだから、若い人や新しい人が増えてくれるのは、村の人も皆喜ぶだろう」
サーシャの目がふわりと優しく細められた。口元が覆われていても、それが笑顔だとはっきり分かるくらいに、優しい顔をしていた。
「伝えてくれ。ヴォドラフカ村は旧い隣人をいつでも歓迎すると」
「……分かった。必ず伝える。世話になったな、本当にありがとう。アレン、行こう」
「診療所の留守は頼んだよ」
アレンの後を追って、三兄弟に背を向けて歩き出した。アリークとセリカのかわいい送り声が、どこまでも追いかけてきた。
「向こうの村」への旧道は、サーシャが言った通り山の隙間のような場所だった。
果ての見えない岩壁に、人が五人くらい並んで歩けるほどの亀裂が入っていて、そこを道としていたようだ。かつては整備されていたであろう跡がそこかしこに見られた。
想像よりも道幅があるように感じたが、アレンは「閉所恐怖症になりかけたから気を付けろ」と忠告してくれた。予定外の往診は出来ないからと村に残ったアレンに見送られ、道に足を踏み入れてすぐ、医者の言は確かであったと気が付いた。
左右に延々と壁が続き、風はほとんど通らない。岩壁にはところどころ苔が生えている。雪は積もっていない、高い壁は僅かに傾斜が付いているらしく、自然と屋根の役割をしているらしかった。そんな環境だから、足音や息使い、動きに合わせて揺れる荷物の音がすべて耳に届く。
そして何より薄暗い。曇り空であるためと、天然の屋根が日光を遮り、岩に反射した光が射しこむだけだからだろう。初めはあまり気にならなかったが、二時間ほど歩いたところでイコが「ちょっと待って」と俺の背の荷物を引っ張った。
「ナダ、ザックにぶら下がってるそのカンテラ貸してくれない?」
「もちろん。悪い、気が付かなくて――ッ、ぁ」
一度荷を下ろして、カンテラの蠟燭に火を灯そうとして、体の芯をピリッと電気のようなものが走った。
「ヤバい?」
「……まだ大丈夫。マッチ使おう。今能力使うのは……」
「そっか。体は平気?」
「いいのか悪いのかよく分からん。体じゅうずっと痛いし、今は少し頭が痛い……いろんな情報が入って来てうるさい」
「超人も大変だね。お、ついたついた。結構暗かったね、見やすくなった」
俺は夜目が利くからあまり気にならなかったが、イコには暗かったようだ。火が灯るとホッとしたような表情を浮かべて、しかしすぐに緊張に顔を強張らせた。
「……ねえあのさ、今って追手とかの目も耳もないって思っていいかな」
「俺はいいと思うけど。ベイは?」
再び歩き出しながら呼び掛けると、振り返ったベイは目で頷いた。
「大事な話か?」
「出来ればキースに着く前に話した方がいいかなって……昔お父ちゃんに押しつけられた暗号の話」
「そういえばあったな、そんな話。すっかり抜け落ちてたぜ」
本当は少し気にはなっていたが、わざとおどけて言ってやると、イコは緊張した面持ちで小さく笑って俯いた。
「わたしにしか解けないって話だけど、全然糸口が見えなくてさ。お父ちゃんに会っても何も思い出さなかった……そもそも何を示す暗号なのかも分かんないんだ。ただのアルファベットと数字の羅列にしか見えない」
「アナグラムとかでもないのか?」
「違うと思う。ていうか、お父ちゃんとそれらしい会話一度だってしたことないし。だから……だから、あのね、考えたんだけど……そもそもお父ちゃん、別にわたしに何か託したんじゃなかったのかもって」
イコの声が震えた。
「ここまで来て……ずっと守って貰ってきたけどさ……ホントはわたし、関係ない人なんじゃないかな。みんな誰かに騙されてるんじゃないの? アドラーたちは『研究者の娘なら利用価値がある』って考えたからわたしを招いたんでしょ? わたしが何も持ってないって知れたらどうなるかな」
「その時は、『ナダの命の恩人』って名前になるだけさ」
岩壁に体を預けた。全身から冷や汗がどっと噴き出て、力が入らない。
「水筒取ってくれるか? キツくなってきた……」
「大丈夫かよ」
「――なあイコ、公園のベンチで声かけてくれてありがとうな」
水筒の中身を呷って、俺はイコの目を見てそう言った。
イコは虚を突かれた顔をした。
「え……何、急に」
「あの町はここよりずっと暖かい場所だったけど、さすがに冬の日に外で眠りこけてたら死ぬところだった。たくさんメシ屋にも連れて行ってくれてさ。実はさ、俺はバイトをするばっかりで、あの店のハンバーガーちゃんと食ったの初めてだったんだよ」
体は動かせないのに、体内で血液が沸騰しそうに暴れまわっているような感覚だ。呼吸でそれを必死に鎮めながら、俺は今口にすべきことをひたすら、成る丈大きな声で並べる。彼らに届くように。
「ずっと俺の足になってくれてありがとう。お前が無理やりにでも、荒い運転でも、ずんずん突っ切ってくれたおかげで、もう故郷が目の前になっちまった。いつ帰れるかなんてわからなかったのに」
「……なんで今そういうこと言うんだよ。死ぬみたいな言い方すんなよ……」
俯きそうになったイコの肩を掴んで、唇に人差し指を当てて見せた。
「……?」
「ベイも。ミズリルのことがあったのに、ここまでついて来てくれて感謝してるよ。俺一人じゃどうも頭が足らないし、本当お父さんみたいに面倒見てくれたよな」
「子供二人持った覚えはねえんだがな。まあ……ミズリルのでっかい借りが出来ちまったし」
「貸した覚えはないぜ」
「俺が勝手に借りたと思ってるだけだ」
ベイは視線と耳がピクピク動いている。さすがだ、やはり気が付いている。
「ねえナダ……?」
「二人とも俺の恩人だよ。もし二人が困ったり、傷ついたりすることがあれば……」
――近い。ここだ。今だ。
「……俺は必ずや二人の味方をしよう。約束だ」
強くそう言い切った時、辺りをつんざくような高音が響いた。
高く長い音が一度下がり、最後にまた高く跳ね上げる。「位置を知らせろ」という合図の指笛。
研究施設で吹いたと同じように、俺も指笛で応えた。今度は一度目で鳴らせた。気配はすぐさまこちらへ近寄って来て、着地した。
袖のない外套が遅れてその身に覆いかぶさった。深い森に紛れるよう、濃い碧色をまだらに染め合わせた色をしている。立ち上がると外套は膝丈までも覆う長さで、同じ色の頭巾が髪を覆い隠している。
頭巾が取り払われた。この暗がりでもわかるほど、透き通った白い髪。
「ナダ。……久しいな。息災で何よりだ」
低い声、男だ。齢は俺より少し上くらい。
痛みと厭な全能感で支配されつつある脳みそを必死に漁るが、何ということだ、彼が誰だか分からない。
「ごめん誰だっけ」
「なッ……貴様ァ、わしァ即座に分かったというのに、従兄の名も忘れたというのか!?」
「ああ何だ、バーバラか。声変わりしたから気付かなんだ」
父方の従兄、名はバーバラ。互いの父親が双子だから、普通のいとこよりも血が近い。
バーバラは俺の傍にやって来て、脇から抱えこんで俺を支えて立たせた。
「すまぬ、客人。想定よりもナダの状態は深刻でな、準備に一晩必要だったのだ。急ぎ連れて行く必要がある。悪いが挨拶は後回しだ」
「大丈夫。ナダを優先させてよ」
「よし来た。さあ行くぞ、ついて参れ」
そう言ってバーバラは俺を支えたまま、えっちらおっちら歩き出した。
微妙な空気が流れた。
「……急ぐんじゃなかったっけ」
「急いどるよ」
「いやなんか……キリッと決めたもんだから、てっきり便利アイテムでもあるのかと。上から降りてきたよね、乗り物とかあるんじゃないの?」
目が泳ぐイコに、バーバラは「そんな馬鹿な」とでも言いたげに鼻で笑って見せた。
「乗り物だと? 斯様なものを我らが持っているわけなかろう」
「え。じゃあ何で上から来たのさ?」
「こんなギザギザ道をちまちま歩くより、山を真っ直ぐ走った方が速かろ?」
「あれナダ、もしかしてキースって脳筋一族?」
イコ、俺に話題を振らんでくれ。
もう喋るのも結構しんどいんだよ。
「ナダ見てりゃ大体想像つくだろ。こいつァ思考力持ったフリした脳筋だぜ、大元のキースが脳筋集団でもおかしくねえ」
お前が俺を何て思ってるのかはよう分かった、ベイ。
後で覚えとれよ。
「バーバラと言ったか? 俺がそいつ背負う方が早い、荷物持ってくれ」
「む……しかし」
「能力の暴走防ぐのはお前頼みだ、そこは頼む。おいナダ、どうせ分かってんだろうが何人かキースが来てる、うっかり能力ぶちかましてももう安心だ。あとはお前がくたばらねえように踏ん張れ」
ぐうっと体が持ち上がって安定した。ベイの広い背に背負われたのだ。
力がもうちっとも入らないから、歩くのに合わせて手足がブラブラ揺れている。感覚は徐々に遠くなってきていて、痛覚すらももう麻痺して、ただただキースの能力が伝える第六感のようなものだけが感ぜられる。俺の体なんて最初からどこにもなくて、この広い山で生きる一つの小さな生命体で、俺は山の一部、いや世界そのものであるような――。
「ぁ、あ……」
違う。飲み込まれるな。
声を出せ、無理やりでも痛みを感じろ。
「あー……お前ら、まだそこにいんの……?」
くぐもったように声が聞こえる。何と言っているのかは聞き取れない。
まだイコはそこにいるのだろうか。ベイは俺を背負ったままなのか。
「俺さあ、消えたくて堪らなかったんだよ。ただ死ねば死体が残るから、死体の残らない死に方を考えてみたりして、でも俺はバカだから、画期的な死に方なんて思いつかなかった」
あ、今バーバラが噴き出す音が聞こえた気がした。
「画期的な死に方」という言葉がツボに入ったらしい。
「でも今は……分からない。今俺が死んでも、俺の死体はキースの皆が灰にしてくれるだろう。けど思うんだ……ここで死んだとして、誰かの道になれるのかって」
イリヤさんは俺を逃がすために、フィーはベイを前に進ませるために、それぞれ灰になって散っていった。
ならば俺はどうだ?
人が死ぬのは悲しいことだ。ならばせめて、その死が誰かや何かのためであればいいとは、根っからのクズでもなければばきっと誰でも願うこと。
俺がここで死ぬことがどう作用するのか。もしかするとイコとベイはずっとキースに捕らわれたままかもしれない。意見の食い違いが激化して、キース内部で分裂して、ガラクトのような紛争が起きてしまうだろうか。それとも生きる場所を求めて、外へと流れ出て行くのだろうか。
俺が灰になる時は、たくさんの血が流れる道にはしたくない。
まだ死ねない。いろんな借りを返せていない。
「案ずるな、ナダ。お前はそう易々と死なせん」
ハッキリとバーバラの声が聞こえた。力強い意志をもった声で、バーバラは俺の耳元に話しかけた。
「なあナダ。お前に話したいことが山ほどある。酒は飲めるのだろ? お前からも是非いろいろと話を聞きたいものだ。……ッと、仲間が近い。客人、ここから先は楽が出来るぞ」
ピィーと鳥の鳴き声のように指笛が鳴った。
二人、三人、いや五人ほどがこの先で待ち構えている。更にその向こうに大勢の気配を感じる。
渾身の力を使って瞼を持ち上げた。キンと冷たい色彩が朧気な視界に映った。雪の白さと、凍てつく空気と、暖をとる焚き火を感じた。
「……マルヴェル……」
「然様。我らは三百年の時を経て、偶然にもこの地に辿り着いた。……おかえり、ナダ。お前はよくやった。よく還って来てくれた」
抑えた声でバーバラは言った。
それを聞いて確信した。
還ってきた。
俺は故郷に還ってきたのだ。
次話から第8章です。
7月4日18時からカクヨム・ノベプラ3サイトと一斉に連載開始しますので、どうぞお楽しみに!




