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Blank-Blanca[ブランクブランカ]  作者: 奥山柚惟
第7章 大人になるまで
81/97

此方の村、彼方の村②

  □ □ □






 いつも夜半に見張り番を交代しているサイクルが身についてしまったらしい。まだ日も覗かぬ午前三時、早々に目を覚ましてしまった。

 階下に降りると、サーシャが静かに出かける準備をしていた。着古された丈夫な上着に、ファーで覆われた帽子をかぶり、分厚い手袋を嵌めるという完全装備ぶりである。「早起き者の特権を味わいに行こう」というサーシャの誘いに、俺も乗ることにして、手早く身支度を整えて一緒に外へ出た。


 ほんの薄っすら、空が明るくなっている。しかし辺りはまだ真っ暗で、サーシャはカンテラに火をいれて掲げて歩いている。

 だだっ広い畑の間に真っ直ぐ道が通っている。雪の積もったそこをサーシャについて歩いていく。土ごと凍り付いているので、足の裏に伝わる感触はザクザクとして堅い。


「寒いだろう」

「小さい頃は馴染み深かった空気だ。……俺のいた場所は多分もっと寒かった」


 とはいえ八年も暖かい場所で過ごしていたから、素直に寒い。ガラクト育ちのベイなどは体を壊さないか心配だが、ベイは適応能力がオバケらしい。全然堪えている様子がない。

 吐いた息に睫毛を凍らせながら、サーシャが静かに問うてきた。


「訊いてもいいかい? どうして君は一人、あの真白い人らとは別に暮らしていたのか」


 少し躊躇って、簡単に俺の辿ってきた道を話した。捕まっていたこと、逃げ出したこと、それから町を転々として生きてきたこと。


「苦労してきたのだね」

「もっと苦労してる人はいるだろ」

「でも、君が味わったものがすべてだ。君の感覚は君だけのもので、他の人のものではないのだから」

「不思議なことを言うんだな」


 俺の言葉に、サーシャはふっと笑むような吐息を吐いただけだった。

 道は上り坂に差し掛かっていた。山小屋から来た道を辿っているようだ。


「俺からも一つ。ご両親はどうしたんだ?」

「父さんは亡くなった。セリカたちがほんの小さな頃だ」


 サーシャの声は少しも変わらない。穏やかな森のような深い声で語る。


「小さすぎて、二人は父さんの顔を覚えていない。逆に良かったと思っている。物心ついた頃だったら、きっと傷になっていただろうから」

「サーシャは?」

「寂しくないかと言われたら、すぐには頷けないかな。でも二人がいたし、当時はばあちゃんもいたんだ。そのばあちゃんも、つい半年前に亡くなってしまったが」


 安楽椅子があったろう、とサーシャはまた吐息で笑った。


「あれに座ってね。編み物が得意な人だった。アリークとセリカの着ているセーターはばあちゃんのお手製だよ」


 サーシャが足を止めて、後ろを振り向いて指をさした。小高いところまできていて、村全体を眼下に収めることが出来た。山と山に挟まれた村が、やがてゆっくりと鈍い群青色に姿を現し、暁に照らされて輝いた。


「綺麗だ」

「な。特権だと言ったろう?」

「ああ……」


 吐いた息はすぐさま凍って、ゆっくりと靄の形を変えてゆく。

 その靄すら朝日の色に染まってキラキラと輝く。向こうでは雪を被った畑と、時々覗く家屋たち、それから前方でそびえる“北の壁”が、朝日の動きに合わせて色を変えていく。


 南の方の夜明けとはまた違う。朝焼けの色も燃えるような茜色ではない、どこか寒々しく冷たい。そこに懐かしさを感じる俺はやはり北方出身ということなのだ。


「……母の話をしていなかったね」


 サーシャから吐き出された“母”という、どこか他人行儀な響きに、俺はただ耳を傾けた。


「父さんが亡くなってすぐ、突然に家を出て行った。理由も行先も分からずじまいだ。腹が立ったよ。僕だってまだ大人ではないし、ばあちゃんはもう足腰が立たないのに、どうして自分の子供を放り出して一人で行ってしまったのかと」


 一つ、靄が増えた。

 それが消える頃、サーシャがまた言葉を続けた。


「僕は結構口下手だからさ、賢くて家族思いの奴だと思われる。けれどね、本当は結構捻じ曲がった根性の持ち主だよ」

「そうか?」

「『母親の手がなくとも、双子は立派に育った』」


 その一言を口にしたサーシャの声色には、本当に僅かに、棘が含まれていた。


「……この事実を作るためだけに、僕はあの子らを育ててる。いつかひょっこり母が帰って来た時、親なしで育ったろくでなしだなどとは言わせない。母がいなかったから悪い子に育ったなどとは、絶対に」


 こくりと喉が鳴った。今湧き上がったこの感覚がどんな感情なのか、皆目分からない。

 哀しいのだろうか。孤児院にいた子供たちはみんな、親がいなかったり、親に捨てられたり、酷いことをされてきた子ばかりだった。時折顔を覗かせる彼らの傷は本当に深くて、俺にはどうしようもなかった。それに似ているのだろうか。


「それは復讐?」

「上手いこと言うね。そういうことなのだろうな。けれどアリークとセリカのことは本当にかわいいと思っているよ。純粋なまま、僕のように捻じ曲がらずに育ってほしい」

「大丈夫だよ。アリークとセリカも……サーシャ、お前も」


 灰色の目が少しだけ見開かれた。


「どうしてそう思うんだい?」

「上手く言えない。けど、そうだな……例えば、あの織物の柄に刻まれた名前を教えてやろうか」


 俺は、一度見聞きした物事は忘れない。

 一瞬見ただけの複雑な図柄であっても、きちんとこの目に映していれば、仔細に思い浮かべることが出来る。


「エレーナ」


 キースでもこの名前は使われている。

 死んでいなければ今は四世(フォイエ)の男性だ。


「ザミラ」


 三世(トヴィエル)の女性だが、俺が四つの頃に亡くなった。

 もうそろそろこの名前もまた使われるかもしれない。


「ヤスミン」


 この名前は人気で、既に六世(ゼクト)を数えていたはずだ。


「ニコラ」


 生まれてすぐ亡くなった俺の姉。

 ……女装時にお借りしてます。お世話になってます。


「ナザル、イラリ、……イリヤ。それからリーシャは俺の母さんと同じ名前だ」

「そうか」

「うん」

「……そうか」


 サーシャの目に涙は光らない。泣けばきっと凍ってしまうから。

 だが声は泣きそうにか細かった。それだけで十分だ。肩を叩いた。


「ずっと“山向こうの村”を気に掛けてくれてたんだな、この村は。ありがとう」

「……気を掛けていたのは当時の人だ」

「でもサーシャもちょっとは考えてたんだろ。多分他の村人たちも。だから塞がった道が開いた時、皆集まった。サーシャも」

「…………」

「俺の一族のことは……元マルヴェル村民に何があったのかは言えないけど。でも、せっかくもう一度繋がった道をふいにしたくはない。サーシャも同じ思いなんだろ、だからあの紋様を俺に見せたし、ここへ連れてきた。この綺麗な景色を見せてくれた」




 この村を、世界を、キースの力で汚すべきではない。

 この村を、ガラクトの二の舞にしてはいけない。




 一つ息を吸って、隣に立つサーシャに改めて向き合った。


「大丈夫だよ。捻じ曲がってなどいない、お前はちゃんと真っ直ぐだよ」

「……ふふ、年上なのに説教をされてしまった気分だ」


 そろそろ帰ろうかと背を向けるサーシャから、鼻をすする音を聞いた気がした。






  □ □ □






 鶏小屋の掃除は予想以上に大変だった。

 そして、起きてきたアリークとセリカの動きがプロのそれだった。


「二人とも凄いな……」

「ニワトリは学校にもいるんだよ。みんなでお掃除当番決めてるの」

「嘘だろ、これ学校でもやるのか!?」


 サーシャお兄ちゃんの瞳が悪戯っぽく光った。


「さあアリーク、ナダをもっと驚かせてやろうか。学校はどこにあるのか教えてあげな」

「南の山を越えた町だよ」

「今から越えてくの? もう間に合わねえんじゃ……」

「全然間に合う。超よゆー。な、セリカ」

「ふふん。ナダくんは足が遅いのね」


 悔しい。けどかわいい。得意げに自慢してくる二人がかわいい。

 だがもし、八歳の俺ならばどうか。キースでの生活を思い返してみて、


「……あー、確かによゆーかも」


 何せ毎日岩場と木々を遊び場にして、跳んで跳ねて登って降りて、大の大人を疲れさせていたのだ。外界の常識を身につけた上で振り返ってみると、あれはおかしい。異常だ。鹿肉争奪雪合戦も、俺が普通だと思っているだけで、全然普通じゃないのだな。


「まあ、今すぐ二人に追いつくのはちょっと骨が折れるな」

「そっかあ。兄ちゃんは夏場、卵を売りに毎朝市場へ出かけるよ。卵を割らないように山を越えるのが村一番に上手なんだ」

「へえ」

「ほら、あまり長話をしていると本当に遅れてしまうよ。片付けをして行っておいで」


 はあいと声を揃えて、二人は箒を納屋に放り込んでパタパタと走り去っていった。

 サーシャお兄ちゃんの「物は大切にしなさい」というため息が取り残された。


「……あれ? ニワトリが入って来ないな。アリークはケージを開け忘れたのかな」

「ケージが開いてたら入ってくるのか?」

「いつもはね。……ううん、開いとるな。どうした? ほら、掃除は終わったぞ」


 舌を鳴らしながらサーシャがニワトリたちに呼び掛けるが、コッココッコと隣の納屋を闊歩するばかりで、入り口にすら近寄ろうとしない。

 ……もしかして。


「あのさサーシャ。もしかしたらニワトリたち、よそ者に慣れてなくてびっくりしとるのかもしれんから、俺は家に戻るよ」

「そうか。うわっと、こら、暴れるんじゃない、お客さんだよ、怖がらんでもいいのだよ」


 一羽が宙を羽ばたいて舞っていた。それは何かを恐れているような仕草にも思えた。

 鶏小屋を小走りで去った。すぐに全力疾走に変わった。サーシャの家の敷地は広い、家までダッシュしても余りある距離だ。


 その距離を疾走する間、否もうずっと、寝ても覚めても、俺の感覚はこの平地すべてと繋がっている。ニワトリたちは明らかに俺を怖がっていた。きっとキースの力を感じ取ったのだ。

 今はどうにか抑えられているが、もしうっかりこの村でも壊滅させてしまえば、開いた道が再び閉じるどころの話ではなくなってしまう。キース族の位置が割れて、今度こそ一族全員を手中に収めんとするだろう。


 早く故郷に帰らねば。






 朝食に、採れたての卵を使った料理をサーシャが作ってくれた。

 卵を半熟くらいに炒って、穀物の入ったスープに少し流し込んで食べる。スープのメインの具には赤い株のような根菜が使われていて、この村やもう少し東の地域で採れる野菜なのだそうだ。


「ウチの畑の野菜だよ。売りに出す分もとってあるが、それを差し引いても結構余裕がある。存分におかわりしてくれ」

「何だか悪いな。貰ってばかりで」

「外からお客さんは滅多に来ない。こうして食事を振舞えるだけでとても嬉しいんだよ」


 表情が薄いために分かりにくいが、サーシャは恐らく本当に喜んでくれている。事実、アリークやセリカも「兄ちゃん今日はニコニコしとるね」なんて言っていた。かわいかったです。

 冷えていた体をスープで温めたところで、俺はスプーンを置いて切り出した。


「“合図”は診療所で通信を飛ばすと言ってたな」

「言ったね」

「場所を教えてくれないか。仕事もあるんだろうから、手間は取らせない」


 サーシャは暫しの間無言で咀嚼を続けていた。

 口の中のものを飲み下して、……またスープを啜った。


「サーシャさーん……?」

「大丈夫、聞こえてるよ。考え事をね。ナダは面白いなあ」

「俺からしてみればサーシャの方が面白い奴だよ」

「……八年越しの故郷だ、一刻も早く帰りたいのだろ。分かった。食べ終わって支度が済んだら、診療所へ案内しよう」

「いいのか?」

「診療所へ辿り着く前に凍えてしまわない保証もない。冬は長いから、春の準備はいつでもできる」


 皿を持ち上げて、中身をぐうっとすべて飲み干してしまった。見かけに似合わず豪快だ。唇を舐めて、また薄く笑ってサーシャは言った。


「行こうか。向こうの村と、ちょっとの間繋がりに」

明日も18時に公開します。

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