此方の村、彼方の村①
助かった。山小屋で一晩越すことを覚悟していたが、薪を足しに来た青年が家に招いてくれた。
“ヴォドラフカ村”の村人である彼の名はアレクサンドル。静かな森を思わせる、深く穏やかな声だ。「皆にはサーシャと呼ばれているよ」と、口の端を少しだけ上げる笑い方をして、軽い足取りで村への近道を案内してくれた。
ヴォドラフカ村は農村だった。だだっ広い畑はもう雪が被って久しく、時折ぽつりぽつりと家や倉庫が雪から覗く。人工的に植わったような背の高い木々は“防風林”だと教えてくれた。
「南の山から強い風が吹き下ろしてくるんだ。それが北へ流れて、あんなに高い山脈になったそうだよ」
「“北の壁”ウーリヤ山脈の由縁か」
「もちろん何万という年月をかけて出来た。大昔、この近くに海があったそうでね、北の山壁からは岩塩が取れるんだ。セリカ、スープに塩を少し入れてくれ」
サーシャはキッチンで双子の弟妹と夕飯を作っている。妹はセリカ、弟はアリークと呼ばれていて、まだ十も数えない頃だそうだ。
本当なら泊めてくれるお礼に俺が炊事をするべきところだが、長旅は疲れたろうと家主サーシャにソファーに押し込まれてしまったので、三人きょうだいが夕飯を作る様を見学している。その様は見ていて飽きない。
「かわいすぎてしんどい」
「わかりみが深い」
さっきからイコとこのやり取りしか交わしていないが、双子のアリークとセリカが本当にかわいいのだ。兄さんそっくりの薄い金髪をサラサラさせながら、時々わいわいと言い合いになりながら、慣れない手つきでイモを剥いたり味を付けたりしている。かわいい。
だが一方で懸念もあった。ベイのことだ。
チラリとベイを見上げると、視線に気付いたベイから感情の読めない目で睨まれた。
「あ?」
「……何でもねえです」
多分目付きが悪いだけで、ベイは睨んでなどいない。だがちょっと怖い。
彼をどう心配すればいいのか分からないのが正直なところだ。ベイはキチンと分別のついた大人だが、つい最近まで“ミズリル”の枷に自分を縛りつけていたところもある。
「俺ァ平気だよ。心配すんな」
ぶっきらぼうにベイは言い放った。
「ガヴェルの元で要人の子供の警護もしたしな」
「そうか」
「だが苦手だ。今回は泣かれねえと良いんだが」
「顔怖いものな、お前」
「いや……そういう意味じゃねえ」
ならどういう意味だとは聞き返せなかった。ちょうど味付けまで済んだらしく、双子がいそいそと食卓の支度を始めたからだ。
「俺も手伝うよ。スプーン並べればいいか?」
「うんとねー、これはアリークのでー、こっちがセリカのだよ。お客さん用はこれ」
セリカが得意げに教えてくれた。
顔面の筋肉をフル稼働させて、緩みそうになる頬を何とか維持させた。頑張れ俺、気持ち悪い顔晒すんじゃねえ、ほら俺は魔女の弟子だろ。
だが、セリカのかわいい声で「ナダくん違うよ? そこはアリークの席だよ?」と言われてしまって、“魔女の弟子”モードはあっという間に終了してしまった。
「無理ぃ……か゛わ゛い゛い゛ッ……」
準備万端の報告をしにセリカがキッチンへ消えたところで、俺は膝をガックリついて両手で顔を覆った。
イコが苦笑を投げてきた。
「さすがのナダも形無しだね」
「まずいぞ……このままだと俺が変態みたいになっちまう」
「ナダは変態でしょ」
「男はみんな変態です。サーシャ、他に手伝うことあるか?」
ミトンを嵌めて両手鍋を持ってきたサーシャは目を細めて笑んだ。
「妹はあげないよ」
「違いまーす。そういう意味じゃないでーす」
「冗談だ。さあ食べようか。お客さんがいるから、今日のスープはちょっと豪華だよ」
「「わーい!」」
もうやだかわいい。この家にいる間に液状化しそう。
□ □ □
夕食を食べ終わって寝る前のひと時、サーシャは弟妹に織物を教えた。
暖かい暖炉の傍で紡がれるその時間はとても穏やかで、ずっとこうしていられたらいいのにと願うほどだった。
――ある事に気が付くまでは。
暖炉の前に敷いているラグの上で、三人きょうだいは小さな手織り機で布を作っている。そのラグのあちこちを指さしているから、恐らくはこのミニチュア版を作ろうとしているのだろうが。
「出来ない……全然分からんよぅ……」
「アリーク。大丈夫、小さい頃の兄ちゃんはもっと下手くそだった。きっと僕より上手に織れるようになる」
「セリカも? セリカも上手?」
「ああ、上手だよ。でもここの目、少し間違えとるね」
「こう?」
「ううん、違う。こうしてこう、ここの目と色が繋がればいいんだ」
「そっかあ」
きっと偶然だ。偶然に違いない、そういう模様なのだ。
――古代文字を模した図柄である筈など、ない。
「図柄は正しく伝えねばならないよ。兄ちゃんもお前たちくらいの頃、父さんに同じようにして教わったものさ」
「父さんも優しかった?」
「厳しかったよ。でも優しかった」
「変なのー」
「そうだね。お前たちも上手に織れるようになったら、きっと父さんも喜んでくれる。アリーク、一段終わったな。ちゃんと出来てるじゃないか」
(“図柄は正しく……”)
ソファーに掛けられたタペストリー。テーブルクロスの布の端。棚や階段の手すりに飾られている布。いくつかパターンがあるにせよ、それらを観察すればするほど、俺たちキース族が記録に際して使い続けてきた文字にしか見えなくなってくる。
もしこれを北方言語の研究者が目にすれば、一発でそれと分かってしまうだろう。外界では三百年前の言論統制の時に禁止されたはずだ。言葉は統一言語に寄らせて、文字だけ図柄で伝え残そうとしたのだろうか。
この村はキースとどんな繋がりがあるというのだろう?
どうしてエリック兄さんとアドラーは、このヴォドラフカ村を故郷への中継地としたのだろうか?
「なあ、ナダ。一つ変な質問をしていいかな」
サーシャの色の薄い金髪がサラリと揺れて、その隙間から意味深な問いかけが飛んできた。
「君、読めるね」
「…………」
「イコとベイはこれを目にしても特に反応がないな。二人には普通の、ちょっと独特な柄に見えとるのだろうね。だけれど、ナダ、君は少し違う目をしている」
「何の話かサッパリだ」
「ナダは誤魔化すのが上手だね」
「褒めてくれて嬉しいよ」
寝る支度をしておいで、と小さな二人に呼び掛けて、サーシャは織物の道具を片付けた。双子はベイとイコを引っ張って「今日の寝る場所教えてあげる」と連れて行ってしまった。
サーシャは部屋の隅に置いてある籠に道具を入れて、やはり図柄の織り込まれた布を掛けると、その布の柄を指でなぞった。
「禁じられた文字だ。僕たちヴォドラフカの人間も、文字の意味までは伝えられてない。ただ“向こう側から帰って来られなかった者たちの名”ということだけが分かっている」
「向こう側?」
「北の壁は絶壁のような山脈だけれど、実は少ぅし隙間が空いていてね。古くは山向こうの村と交流があったのだそうだ。作物と獲物を交換したり、婿や嫁のやり取りもあったという」
(……は?)
ちょっと待て。
待て。心の準備ができていない。情報が強烈すぎる。突然食らって平気でいられるほど、俺は強い精神の持ち主ではない。
だがサーシャは容赦なく言葉を続ける。
「この辺りで使われていた言語や文字が統制され始めた頃、どういうわけか、向こうの村への道は閉ざされてしまった。あちらから閉じてしまったんだ。昨日まではたしかに道があったはずなのに、まるでずっとそこに生えていたように藪が生い茂って、獣も通れぬようになっていた」
「サーシャ……なあちょっと」
「どうにかあちらへ行けないかと、当時の村人は皆苦心した。けれどこの村は中央府による北方統制の足掛かりにされていて、身動きが取れなくなった」
サーシャお兄ちゃんが穏やかにノンストップでしゃべり続けるので、こうなったら俺はもう耳を傾けるしかない。諦念を見せた俺に僅かな微笑みを見せ、サーシャは息継ぎをして続けた。
「……三百年経って、僻地で幅を利かせる輩はもう来なくなったけれど、統括政府が続いた年数と同じだけの年月、あの通路は閉ざされたままだった。だがつい最近のことだ、」
サーシャの涼やかな声が、僅かに熱を帯びた。
「気が付いたら、あの通路が開いていた。藪が消えた。消えたんだ」
「…………」
「突然姿を取り戻した道から、不思議な恰好の人間が転がり落ちてきた。この地域に伝わる民族衣装を着ていて、彼は真白な髪と肌をしていた。睫毛の一本に至るまで、真白い人だ。……ナダ、ちょうど君のように」
俺は一体何を聞かされているのだろう。そんな出来過ぎた偶然のようなことがあっていいはずがないのに、サーシャの声はどんどん熱を帯びていく。
「僕らは尋ねたよ、きっとあちらの人だと思ったから、『向こうの村で三百年も何をしていたのか』と訊いた。彼はね、最初口をきいてくれなかったんだけど、向こうの村の名前を聞いた途端に顔色を変えた」
手のひらに爪が食い込むほど、拳を握りしめた。
サーシャが答えを言う前に、俺は口にした。
「“マルヴェル村”。そうだな」
サーシャは口の端だけ上げて微笑んだ。
俺は頭を抱えた。どういうことだ? 俺がキース族から去った後、意図的にここへ戻ってきたということだろうか?
能力発現の元となった実験事故現場、“マルヴェル村”。
ここヴォドラフカ村は、巨大な山を隔てたその隣村。
(キースが外へ流れようとしている……? ここを足掛かりに?)
エリック兄さんの話が頭をよぎった。生きていく上で様々な限界に直面した一族は、外界と共存するか、闘争によって生存権を獲得するか、その二派に分かれていると。
既にその第一段階をクリアしてしまっている。ほとんど人の往来がないにせよ、外界との繋がりを、キース族は得てしまった。
「君の名前を彼らから聞いていた。いずれ“ナダ”という若者がここへ来る、そうしたら合図を上げてくれ、と。だからここへ案内した」
「……もう合図したのか」
「まだだよ。ここでは合図が出来ない。通信機がないからね」
「は、ちょっ…………つうしんきィ!?」
声が裏返った。仕方ないと思う。
だってそんな機械なんてシロモノ、キースが持ってるわけねえだろ!
「落ち着くんだ、ナダ。もう夜だよ。細かいことは明日にして、今日は寝るといい。両親の寝室が空いてる、そこを使ってくれ」
「それならさあ、こういう話明日になってからしてくれても良かったんじゃねえの?」
「興奮して眠れないのか? 案外繊細なんだね。さあ、アリークたちは支度を済ませてくれたかな」
「繊ッ――おいサーシャ! ……ああもう」
そう言ってサーシャは上の階に上がって行ってしまった。何だかサーシャの手のひらで転がされているようで、この家主を侮ってはいけないと、俺はそう固く決意した。
いつも『ブランカ』をお楽しみいただきありがとうございます!
次章発表に合わせるため(という表向きで自分を追い込むため)、今日から第7章完結話まで毎日公開します。よろしくお願いします!




