あなたの初恋はどこから
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北部地域の冬は早い。特に山岳地帯はもう雪を被ってしまって、めっきり寒くなるばかり。暦がここでは役に立たず、ホワイトハロウィンを迎えることもしばしばあるようだ。
そう聞いたのは、目的地“ヴォドラフカ村”まであと山一つ、というところまで来た町でのこと。
何度も「山向こうの村には何もない」と釘を刺された。
あそこはただの農村、流通も行き届いていないから、ほぼ自給自足の村だと。
それでも行くと譲らずにいると、町の人は呆れて口を出してこなくなった。心配してくれるのはありがたいが、俺たちの旅の目的がそこにあるのだから仕方がない。
ここまで来ると町や村には閉鎖的な雰囲気が漂い、他所者への奇異の目がかなり強い。最低限体を休めた後、ひとつだけ用事を済ませてから離れることにした。
村に一軒だけ設置されている通信所で通信機を借りて、ある場所へ繋ぐ。
『はいはい、こちらワイユ孤児院』
通信機がギリギリ拾える低音が耳に触れる。
思わず小さく笑ってしまった。
「はは、やっぱ声低いな。桐生、久しぶり」
『おー、元気でやってるか?』
「それなりにな」
桐生ならば名乗らずとも声で分かってくれる。通信を監視されている可能性を考えて、極力情報は抑えておきたい俺の意図を、育ての親は汲んでくれた。
『わざわざ連絡寄越すたァな。どうしたよ』
「全部思い出した。その報告」
入り口の外で待つイコとベイの背中を眺めて、通信機を握り直した。
「人を殺してたよ。六人焼き殺して、看取った同胞の遺体を灰にした」
『そうかい。お疲れさん』
誰かが聞けば、素っ気ない一言に思えるかもしれない。けれどこの短い言葉が、俺のような人間にはどれだけ有難いか分からない。
短い間でもこの人に育てられて良かった。ちゃんと言葉にしようと、俺はわざわざ危険を冒してまで連絡を取ったのだ、俺はもう喪失感に我を失っていた子供ではないのだから。
「桐生たちには感謝してる。面倒事ばっかり抱えてる俺を育ててくれて」
『気にすんな。ウチの子らは全員厄介ごと背負い込んでんだ、一人二人増えたところで変わんねえって最初に言ったろ』
「そうか? 俺は別格だった自負があるけど」
『甘ェぞ小僧。お前を百倍面倒にしたようなガキを俺ァ知ってる』
「マジかよ」
からりと桐生は笑う。
『大事なのは『やっちまった』って後悔よりも『これからどうするか』だ。そうやって心痛めてるお前なら大丈夫だろうよ』
「そうかな」
『以上、桐生神父のありがたいお言葉でした。ご静聴センキュウ、お布施ウェルカム』
「あはは……その一言が無けりゃ完璧だった」
俺も笑い声を返した。これほど無条件に絶対信頼のできる「大丈夫」を与えてくれる人は、なかなかいない。
「声聞けて良かったよ。そろそろ行く」
『おう。達者でやれや』
「うん。桐生も。あとパドフさん、メリアさん、子どもたちも。……チェンは早くくたばれって言っといて」
『ああいう奴に限って長生きするんだろうから、人間分かったもんじゃねえよな……じゃあな』
通信を切って、受話器を台に戻した。
通信所に詰めている留守番員に軽く礼を言ってから外へ出た。イコとベイは地面の雪に文字を書いて勉強しているところだった。イコが顔を上げて言った。
「話せた?」
「うん。行こうか」
俺の一声に、ベイの大きな靴が雪文字を掻き消した。
重い荷物を背負って、村人の視線を背に受けながら、山へと歩き出す。
桐生は「くたばる時以外は連絡寄越すな」と言っていたから、きっと気が付いているだろう。
俺は多分もう長くない。一歩踏み締めるたび、息を吸うその都度、臓腑がじりつくような痛痒を訴えてきて、さっさと能力を爆発させて楽になりたい気分になる。
キースへ帰れば、この状態を打開する治療を受けられるという話だが、俺はキース族の中でも既に特異になってしまっていると思う。長く外で暮らしたキースはこれまでに一人もいない。
俺が生きるか死ぬか、誰も分からない。
「ヴォドラフカ、早く着きたいね」
イコがぽつりと言った。最近イコは大人しい。
「キースの人、村にいるのかな」
「エリック兄さんのあの口ぶりだと、居そうにねえんだよな。もしかしたら村でキースの手がかりを見つけろってことかな」
「そんな周りくどい真似する?」
「長く隠れ住んでる民族だ。外への警戒は未だに強いんじゃないか? 俺が帰ってくることにいい顔しない人もいるかも」
「ナダも複雑な立場になっちゃったね」
そうだな、と返して空を見上げた。鈍色の空が今にも雪を振り落としそうだ。
急げば雪が降り出す前に頂上付近に着けるだろう。雪山では極力、山の稜線で休むべきではない。雪や雷の影響はまず稜線に現れてくるのだ。天気が悪化する前に、山頂付近の山小屋に辿り着くのがベスト。
「少しスピード上げよう。イコ、行けるか?」
「舐めんな。今日はめちゃ元気」
ベイがちょっと渋い顔になった。前にもそう言って、結局ガス欠を起こしたイコを背負う羽目になったのだ。
……今回はちゃんとイコの様子を見ながら登るとしよう。
+ + +
――ざわり。
エリックの全身の毛穴が粟立った。
それはどうやら周囲の者たちも同様であったらしく、一斉に視線が飛び交った。
「距離が判る者はあるか」
長のジルが静かに問うた。
一人が小さく答えることには、まだかなりの距離があるとのこと。
「一人出掛けたアドラーの気配ではないな。探索班のイゴリは先週発ったばかり、戻るにはちと早すぎる。……となればやはり一人しかおるまいて」
(とうとう着いたか……)
エリックは翠色の目を伏せた。待ちわびていたようでもあり、と同時にこの時が来なければいいと心のどこかで願ってもいた。
「ナダが近い。皆の衆、各班に伝えて然るべき準備を整えよ。万事抜かり無きように」
「応」
長の一声に、天幕に集っていた一同は腰を上げ、めいめい持ち場へと戻って行った。エリックは一人その場に留まって、中央の焚き火に薪をくべた。
「長」
「何だ、エリック」
「……客人はくれぐれも丁重に扱いなさります様」
「無論。だが我らが客人を迎え入れるのも、実に三百有余年ぶりのこと。思いがけぬ粗相があるやもしれん、その時はお前に補佐を頼もう」
「はい。……ッ」
立ち上がりかけたエリックは、しかし小さく呻いて再び腰を下ろしてしまった。その様を長が憂いを含んだ目で見守る。
「無理はするな」
「済みませぬ……」
「謝らんでいい。お前もしばらく無理が続いたろう。ナダの帰還までちと猶予がある、それまでに体を休めることだ」
小さく謝辞を述べて今度こそ立ち上がった。外套のあわせをきつく締めて天幕の外へ身を滑り込ませた。
雪を踏みしめながら、廃墟と天幕の混在する村を縫って歩いていく。ナダの気配を感じ取った子供たちが、身を寄せ合って不安そうに囁き合っているのを、微笑みかけてエリックは宥めた。途中幾人かに声をかけられて、今日の飯や頼んでいた書き物を受け取った。肩にかける鞄が少し重くなった。
「エリック兄さん。寄り合いは終わったのか」
向こうから小柄な男が呼びかけてきた。白い額を飾り帯で隠し、伸ばした白髪と一緒に留紐を耳の横で垂らす、独特な髪型をしている。
「今しがた寄り合いが終わったところだよ、バーバラ」
「何やら妙な気配がする。皆浮足立っとるが、何かあったのか」
「恐らくはナダが近い。“外”で会うた時よりも力が増しとるようだ」
「……然様か」
バーバラと呼ばれた男は低く呟き、エリックの鞄を取り上げて肩にかけた。
「おお、随分と。記録の類は直に届けさせればよかろ?」
「自分で持つよ」
「いいんだ持たせてくれ。夕餉を食いに来ないか? 今日は親父も帰らんし、リエラもヘザックもアドラーも居らんのだ。お袋と二人きりはちと面倒でな」
「お袋さんいい人だろうに。いいよ、このまま直行してもいいかい?」
それまで表情を動かさなかったバーバラは、エリックが誘いに応じるなり嬉しそうに顔を綻ばせた。
エリックは苦笑した。
「お前といいナダといい、ほんに昔から変わらんなあ」
「ナダも変わらんか、そうか。会うのが楽しみだ。このわしのいとこだ、きっといい男に成ったろうな」
「お前のような自信家ではないけれどもな。……まあ楽しみにしておいで」
ナダは「無くした記憶を取り戻したい」と言っていたが、果たして戻ったのだろうか……叶うならば忘れたままでいて欲しいとエリックは思っているが、同時に傷を乗り越えた姿を見たいとも望んでいる。
何という矛盾だ。
胸中で自らを嘲り、エリックはバーバラと共に家の天幕を捲って入ったのだった。
□ □ □
「死ぬかと思った」。山頂付近の山小屋に着いた感想はその一言に尽きる。
十一月も下旬である。大陸北部の冬が早いことは十分に想定の範囲内だったが、三人での登山を俺は舐めていたかもしれない。幸い天気が味方してくれて、雪こそ降らなかったものの、冷え込み方が尋常ではない。
下山すればすぐに目的地の“ヴォドラフカ村”に着くだろうが、時刻は午後三時を過ぎ、日が傾き始めてきた。山歩きに慣れない者を連れてこれから下山するのは危険行為だ。今夜は小屋で過ごすしかない。
「おーいお前らー、生きてるかー、応答せよー」
「生きてるぜ」
「死ぬほど寒い」
俺の呼びかけに、すぐそばからイコとベイの声が返ってきた。俺たちは今、イコを真ん中にして三人で身を寄せ合い、毛布に包まっている。
暖炉に火は入れたが、部屋が暖まるまではもうしばらくかかる。それまでに凍死されてはたまったものではない。
震えていると、イコが「提案」と震える声で呼びかけてきた。
「恋バナで体温上げようぜ」
「お前さ、両脇を男で固めたこの状況でよくもそんなこと言えるな。心臓鋼で出来てんの?」
「わたしはここらで一度聞いてみたい。ベイの恋愛遍歴を」
「ねえ話聞いて……よりによって際どいところに刺さっていくなよなあ……」
ダメだ、いつにも増してイコの雰囲気信号無視が止まらない。
ベイは鼻を鳴らした。
「残念ながらガキに出来る話はねえよ」
「ガキじゃないもーん。もうすぐ十六歳だもーん」
「いやイコ、ほんとやめとけ。うっかりしてるとベイをもうストーブに出来なくなるぞ。俺らみたいなガキには普通に優しい話がお似合いなんだよ、ほら、例えばお前の初恋の話とか」
「なんでわたしの恋バナから始まるのさ」
「言いだしっぺお前じゃん」
「やだぁ恥ずかしいぃ……」
急にわざとらしく声を上ずらせて、女子の顔をしてきた。
だが魂胆は見え見えだ、俺たちにそんな手などは通用しない。俺もベイも仏頂面でガタガタ震えたままなのを見て、イコは観念したようだ、恐る恐るこちらを見上げてきた。
「……笑わない?」
「もちろん」
イコは毛布に顔を埋めて、目元だけ覗かせた。耳が赤い。ちょっとかわいい。
「あのね……幼稚園の時に」
「うん」
「若い爽やか系のお兄さん先生がいたんだけど」
「あー、小さい女の子に好かれる系の」
「そう。笑った顔が最高にかっこいいの。先生にお手紙書いたの、クレヨンで」
「なにそれかわいい」
かわいい。つい本音が口をついて出てしまった。
だって小さいイコちゃんだぞ? 五歳くらいのイコちゃんが一生懸命クレヨンで「せんせいだいすき」ってくちゃくちゃのお手紙書いて渡してこられたら、どうですか? 俺ならとろけて膝から崩れ落ちて悶絶してしまいますよ。
そんなイコちゃんの成長を一番傍で見守るという、世界で一番おいしい権利を、ザッケスはみすみす逃したというのか。
「ザッケスの野郎、父親なんていう役得すぎる立場を手放しやがって」
「まったくだぜ」
「な。本当に愚かな男……ってベイさん? 今何ておっしゃいました?」
イコと一緒に振り返ると、ベイは両手で顔を覆っていた。
効いている。思いがけない攻撃を食らって、ベイはダメージを回復できていない。
「何だよその初恋……ピュアが過ぎるだろ……」
「急にどうしたのさ。ベイだって初恋ぐらい経験あるでしょ? フィーさんがそうなんだろ?」
「……いやそうじゃなくて、何か……くそッ言葉にならねえッ」
「ごめん、ベイの悶絶にわたしらついて行けてないんだけど、どういうことかちょっと教えてくれないかな」
「あのなあイコ」
はあ、という溜息と共に、ベイの両手が僅かに顔から離れた。
その手の隙間から無視できない闇がチラついて。
「――俺ァ少年兵だったんだぜ」
「「あっ」」
――察した。
「“初恋”ってワードのピュアさが、“少年兵の”って付くだけで一気に血生臭くなンだろうがッ」
ベイがカッと目を見開いた。
「やさしい世界の! 甘さと幸せしかねえ純度の高い初恋を! 俺ァ知らねえんだよ!」
「んなッ……ちょっとくらいほろ苦い味だってあるよ!」
「黙っとけ! 最初っから血の味がしてんだよこっちは! ちくしょうこんにゃろう、砂糖の味しかしねえじゃねえかふざけんなもっと聞かせろ!」
「ベイ落ち着け! セリフとツラが合致しねえ!」
ベイの様子がおかしい。目を血走らせて口角泡まで飛ばして必死の形相だ。抱える闇が深いが故に、とろけるような甘さに狂ってしまったのだ。
……糖分で満たしてやれば、この男はもっと丸くなるだろうか。多分俺たちと過ごす間にかなり柔らかくなったのだろうが、もっと人間的になったベイはきっと面白い。
「では二番手、ナダ選手ッ」
「ベイ殿のお眼鏡に叶う話かは分かりませぬが、このナダ、全身全霊を賭して進ぜましょう」
「おお、ナダが本気だ……」
束の間目を閉じて、淡くて甘い記憶を探し出して掘り起こす。さあナダ、男を見せろ、親しい友人の人間性を取り戻すべく闘うのだ。
「あれはまだ六つの頃」
「六歳。いいねえ、少年の甘酸っぱい初恋の気配がするよッ」
「俺はキース式雪合戦大会で負傷し、手当てを受けていた」
「ちょっと待ってください」
合いの手を打っていたイコからまさかのストップが掛けられた。
何だよ、まだ何も始まっていないのに。
「いろいろおかしい。何、キース族は修羅の民なの? たかが雪合戦で“負傷”って単語出てくるのおかしくね?」
「え? 雪合戦は全力でやるだろ? 負けるとおかわりの鹿肉ちょっとしか貰えねえんだぞ、その日の晩めしが懸かってるんだぞ」
「ナダの初恋は鹿肉の味なの?」
「最後まで話聞いて。恋はこの後です。頬っぺたを氷入りの雪玉が掠めたから、傷に薬を塗って貰ったんだ」
氷混ぜるなよ危ないなあ、というイコのツッコミはもう無視した。いつまでたっても話が進まない。
軽い怪我とて、顔の怪我はヒリヒリするものだ。擦り傷と青あざが同時に出来てかなり痛かった。
医者や看護師の役割である“医療班”、彼らが普段詰めている診療所へ連れて行かれた。診療所とはいっても、キース族は定期的に移動する民族なので、建物ではなく分厚い布で作ったテントだ。
「寒さで肌の感覚がなかったんだろうな。中に入って暖まってくると傷が急に痛みだして、涙が出てきてさ……そうしたら、薬を塗ってくれた姉さんがにこにこ笑って『大丈夫だ』って励ましてくれた。その笑顔がもうめちゃくちゃかわいいの。凄くかわいい顔で笑うの。キースってあんまり笑わない人の方が多いから、そんなかわいい笑顔を初めて見たわけ」
「そりゃ惚れるわ」
「なお後日キース一番の男前と結婚しました」
「あらまあ何というオチ」
「子どもも生まれたよ。一緒に遊んであげてた」
イコがにこにこと……いや“ニヤニヤ”だな、俺の肩をぽんと叩いてきた。
「乗りこえたナダは大人だねえ」
「その顔うぜえ」
「何だよ、かわいい女の子の笑顔が好きなんでしょ。ほーらほら、ナダの大好物だよ」
「笑ってりゃいいってもんじゃねえ。さてベイ殿よ、判定は?」
ベイもイコのような、生ぬるいニヤニヤ顔をしていた。
「イコには負けるが、まあアリだな。男前に掻っ攫われたオチが俺的にポイント高い」
「評論家かよ。ねえお前までその顔するのやめてくんない?」
その時、山小屋のドアがバンと勢いよく開け放たれて、寒気がびゅうと流れ込んできた。
突然の冷気にぶるりと身を震わせた。恋バナで盛り上がっている間に部屋はかなり暖まっていたようだ。
「あれ、三人だけ?」
参入者は毛布に包まっている俺たちを見回して呟いた。
「妙な気配がしたもので、五人はいると思っていたのだが……その出で立ち、行商人ではないね。旅人かい?」
「まあな」
扉を閉めて、参入者は毛皮の帽子を取って背負っていた荷物を床に降ろした。荷物は紐で纏められた薪で、彼はそれを暖炉の横に備え付けている棚に積み始めた。
炎が映し出したのは……薄い金髪を後ろで結んだ青年。肌は白いが俺ほどではない。キースの人かもしれないという淡い期待は霧散した。
「あんたはこの辺りの人?」
「麓の村に住んでる。この山小屋は時々やって来る行商人が使ったりもするから、定期的にこうして薪を補充しに来るんだ」
「そりゃ悪いことをしたな。少し使わせて貰ったから、手伝うよ」
「長旅で疲れもあるだろう? いいよ、そのままで。ああでも欲を言えば湯を沸かしてくれないか、最近やはり冷え込むのでね、温かいものが欲しいんだ」
青年は薄く唇を上げて微笑んだ。
――キース族とよく似た笑い方だった。
※注:本文中に「雪合戦で雪玉に氷を混ぜる」旨の記載がありますが、本作品はこの行為を推奨するものではありません。非常に危険ですので絶対に真似しないでください。万が一の場合、当方は一切責任を負いません。




