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Blank-Blanca[ブランクブランカ]  作者: 奥山柚惟
第7章 大人になるまで
78/97

夜明けの語りをお前らに

  □ □ □






「はァッ……は、ッ……ぅぐ……」


 息が苦しい。そして暗い。ここどこだ。今何時だ?

 腕時計が示すのは四時過ぎ。けれどテントの中は薄暗く、それぞれの物体が辛うじてぼんやりと形を主張するのみで、午前なのか午後なのか判別がつかない。

 冬なのは分かる。寒いし、着ている服は間違いなく冬仕様だから。だが突然取り戻した明瞭な記憶に揉まれたせいで、()()()()()()()()()が漠然としている。


 手が震える。寒い、とにかく体の芯から冷え切ってしまって、何か温かいものが欲しかった。もう少し欲を言えば、人と会って話したい。誰かと取り留めのない話をして、自分がまだ人語を話す生き物だと確かめたい。

 涙を袖で拭って息を落ち着けた後、恐る恐るテントのジップを上げて、外を覗き見た。焚き火がある。傍には人影が二つ。浅黒い肌の男と、砂色の髪の……。


(……そう、少年じゃなくて()()だ)


 混乱極まる記憶から何とか事実を照合して、小さく息を吐いた。白い靄が立ち昇った。

 そしてこの息に、男はピクリと耳を震わせて気付いた。ハッとこちらを見て片手を上げてきた。


「よう。調子どうだ?」

「わっ……起きたんだ。大丈夫?」


 野太い声と、少女にしてはちょっと粗野とも言える調子の声。

 だが生憎と俺はすぐさま「大丈夫」と返せなかった。声が出ない。俺は一体どんな声をしていたっけ。少年の頃の高い声か、変声期真っ盛りのハスキーボイスか、それとももう少し落ち着いた声か。


「唇真っ青じゃん。こっち来て何か飲みなよ。何飲む? コーヒーはこの前切れちゃったから、ココアかスープのどっちかだね。スープがいいかな。この前ココア飲んで、甘すぎて気持ち悪くなってたよね」


 よく喋る少女だ。俺にまったくお構いなしで勝手に話を進め、テキパキと準備を始めてしまった。だが今はそれが有難かった。もしかすると、そんな俺の意を汲んでわざとそう振舞ってくれているのかもしれない。

 おぼつかない動きでテントから這い出て立ち上がると、地面がぐうっと遠ざかって、予想外の高低差に驚いてよろめいた。寸でのところで足を踏ん張ったおかげで転びはしなかった。

 背が高い。子供ではない。十五、六歳の、孤児院を出たばかりの頃よりも間違いなく背は伸びている。


「眩暈するのか?」

「……そんなところ……」


 声を出すとやはり低かった。けれど、混乱の渦から()を特定するには情報が足りない。

 差し出されたスープに口をつける。コンソメ味の安っぽい味が、冷えた体に染み渡っていく。だがやはり、これも何度も飲んでいるから、分からない。


「あの……さ」

「うん?」

「今日って何日?」

「十月の二十日。あっ日付越えてたね、二十一日だ、もう」

「……何年の?」


 少女と男が揃って怪訝そうな顔をしたが、すぐに男は答えてくれた。


北歴(ほくれき)の三三四年だ。……分かるよな?」

「分かるけど……悪い、すまん、ちょっとその……頭の中がごちゃごちゃしてて……記憶と今の境目がつかなくて……」

「記憶力凄いのも考えものだね。どうしよっか。最近起きたインパクトある出来事でも並べてみる?」

「うーん……ちょっと挙げてみてくれ」


 自信なくそう頼むと、二人は少しの間考え込んで、先に発したのは少女だった。


「では最近のトピックを四ヶ月前から振り返ってみましょう。まずはやっぱりここから。『わたしとナダでランナウェイ、うぇーい』」

「ラジオみてえに言ってくのか? 俺はやらねえぞ」

「なんだよノリの悪い奴め」

「検問をお前の女装で乗り切った。……治安局員が何人かお前に落ちてた」

「あとはワイユ孤児院。桐生センセがでっかくてびっくりした」

「エバンズの魔女ンとこも寄ったろ」

「それそれ。“魔女の弟子”。反抗期スイッチ入らない?」

「んー……その呼び名、久々に聞く気もするし、この前も聞いた気がする……」


 どれも身に覚えはあるものの、掴まえられそうなところでつるんと逃げられてしまう。

 だが二人は気を悪くした素振りはない。むしろ楽しそうだ。


「ベイも反抗期起こしたよね。通信でガヴェルに怒鳴ってさ、ストライキ起こしてホテルで贅沢して、代金全部ガナンになすりつけて」

「あれは楽しかった。ラヒムが結構ノリノリだったが、結局一番食ってたのナダだったろ」

「それでミズリルの襲撃に遭って、ベイが“あいつら絶対殺すマン”になって暴走してさ」

「……悪かったよ……つーかお前らも中々に反撃きつかったぜ? こっちは怪我してんのにナダときたら殴るわ蹴るわ、終いにゃ縛りプレイされたしよ」

「スッキリしました」

「黙っとけ」


 思わずふふっと笑みがこぼれてしまった。そうだ、そんなこともあったな。


「フィーだけはキチンと葬送(おく)れたのは感謝してる」

「焼肉もおいしかったね。ラヒムはギャーギャー喚いてたけど」

「あいつァ小心者なんだよ、昔から」

「あとは断髪式でイコちゃん劇的大チェンジ。それからアドラーとエリックさんのガラス事件」


 ――エリック兄さん。

 兄さんは施設で死ぬつもりだったのだろうに、よく生還したものだ。


「で、ベイの元上司の二人相手に、ナダが大根役者っぷりを披露して――」

「ありゃあ大した大根役者だったぜ。ガナン相手にあそこまで立ち回れるたァ大したもんだ……だが缶詰はもうやめろよ」

「狼退治に役立ったんだから結果オーライじゃん? 車とおさらばすることになったのはキツかったけどねー、でも最近のわたし、いい感じの体つきになってきたと思わない?」

「イコ……それ俺らが答えられるとでも……?」

「あっはは。ベイはどんどんお父さん化が加速してくね。ザッケス(お父ちゃん)に容赦なくビシバシ言ってやんの。──ナダ、この辺はホントに最近のことだけど、どう? まだ欲しい?」

「ん……」


 本当のことを言えば、もう頭の整理は付いている。けれどもう少しだけ、この楽しさに浸かっていたかった。

 いいよな。それくらい甘えたって。緩む頬に苦みを作り入れて、ただ「ごめん」と謝った。少女は何故かしたり顔で笑った。


「ふっふっふ、弱ってる弱ってる。今が食いごろだよベイ」

「この鶏ガラ野郎のどこ食えってんだ」


 いや食うなよ俺を。


「ナダの脳みそ食べたら絶対記憶力上がるよ。もう絶対綴り間違えないね。でもベイ、最近自分の綴り間違えないようになってきたね?」

「うるせえ」

「だって何回教えてもBとVを間違えるんだもん。あんたの名前“ヴェイ”じゃないだろ」

「どっちも唇噛むだろうが」

「噛まねーよ」


 そろそろ綴りの話から離れてくれないかな。


「これでも印象薄いなら、ラジオのニュースとかどうだ? この時間でも何かあんだろ。つけてみろよ」

「つかないよ、こんな山奥じゃあ……そうだベイ、いいこと考えついた。“チキンスペック”の新曲。あれぶちかませばナダなんかイチコロだぜ」


 ……“チキンスペック”。何だっけそれ。

 突然斜め上方向から降ってきた名詞に、束の間思考が止まる。たしかバンドの名前だ……この前ラジオで流れていたような……。

 少女が突然立ち上がり、焚き火から離れておたまを片手に握った。そして深く息を吸い込み、甘い声で歌いながら腰をくねらせて踊り出した。


「『オゥ、キスミーベイビー、夜が明けるまでワタシを~、ッ離さないィ~でェエッ』」

「ぶふっ」


 思わず噴き出した。適度に小ばかにしつつも、ラジオで聞いた歌とほぼ完全一致する歌い方で、妙に上手くて笑いが止まらない。


「あっはっはっは! 似てる、似すぎだってイコ! その声どこから出してんだ、ちょっ……もういいから、続き歌わねえでいいから、もうやめて、腹いてえ!」

「『アナタァ~と体温ん~、ひとつに混ざり~合いたいのぉ~っ』」

「……いやいやいや待て待て待て、ベイ何だそれおかしいだろ、どうしてすげー綺麗にハモってんの? 何なのお前ら、俺に隠れていつの間にそんな芸仕込んでたの?」

「いや。これは即興」

「嘘ですよね。絶対隠れて練習しただろ」

「一回聞けば出来んだよ。音痴の誰かさんとは違ってな」

「ふざけんないい声しやがってこの野郎……」


 面白過ぎて涙が出てきた。生理的な涙だ。

 そう思いたいのに、止まらない。




 なあイリヤさん。

 俺、こいつらと一緒にいられて楽しかったよ。


 貴女が灰になった道で、当然苦労もしたけどさ、随分笑わせてもらったな。

 楽しいって思ってもいいだろうか。あんな風に人を殺して、人の死体を跨いで歩いて、貴女や両親や兄さんの覚悟も足蹴にして逃げて……そんな過去すらも忘れてのうのうと生きてきて。

 そんな俺が喜楽など味わってもいいんだろうか。


 でもな、イリヤさん。

 忘却の中にあっても心はずっと苦しくて、灰が纏わりついたみたいにざらざらして、どうにも息が出来なかったんだ。




「はあ、笑った」


 やっと息の仕方を思い出した、そんな心地がする。

 代わりに臓腑を炙るような疼きが絶えず巡っている。ずっと“おれ”が請け負い、閉じていた感覚……焼けつくような痛みで神経が研ぎ澄まされ、俺は今、世界のすべてを把握しているような感覚に襲われている。


「ありがとう、二人とも。やっと戻って来られたよ」

「やっぱチキスペは神」

「アホ。俺のハモリが良かったんだろうが」


 イコの息使い、ベイの筋肉の躍動。

 空気の震え、

 炎の揺らぎ、

 木々の枝の一つひとつのしなり、

 地面の奥で春を待つ種子、虫、動物たち、

 遠くで瞬きをするフクロウ、

 遥か上空で雲をつくる冷気。


 すべて感じる。


 きっとこの万能感に呑まれた時、精神が能力に負けた時、俺は暴走して命が尽きる。

 その前に、二人には俺を知ってもらいたい。こんなにも俺の人生に食い込んできた、この二人には。


「聴いてほしい話がある」


 涙を拭いて顔を上げた。

 イコとベイは穏やかな顔をしていた。きっと二人は俺が話すのを待っていてくれたのだろうから、たとえ支離滅裂な語りになるとて、ただ受け止めてくれる。


「長い話をしていいかな。まだ色が残ってた頃の()()の話」


 記憶の中の語り部をなぞるように、脚を組んで座り、瞼の裏に景色を映し、再び開いて声を紡ぐ。あの(ひと)の謳うような響きにも、(ことば)を唱える父さんの朗々とした響きにも、どちらとも遠いたどたどしい声で。

 俺の語りには星が光らない。ただ死体と傷ばかりが増えていく、苦しくて悲しい話。あの時手を掛けた六人の焼死者と、地下に転がっていた研究員たち、イリヤさん、そして自分の中で殺し続けてきた()()自身への――弔いの語り。




 夜が明ける。

 晴れた日の初冬の夜明けは、どこまでも空気が澄み切って、キンと冷たく物悲しい。

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