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Blank-Blanca[ブランクブランカ]  作者: 奥山柚惟
第7章 大人になるまで
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星の語り部とみっつの呪い④

  ■ ■ ■






 一人になってしまった。警報がうるさい。声は、やっぱり出ない。

 このままここにいれば、いつか力尽きて消えられるだろうか。徐々に感覚の戻ってきた手足で地面を這って、居心地のいい場所を探した。


 ざり、と手で灰が擦れた。

 動きを止めた。手のひらを見ると、手汗で張りついた灰がキラキラと赤色灯を跳ね返していた。


  ()()()()

  ()()()()()

  ()()()()()


「――……ッ」


 イリヤさんの掛けた三つの呪いの言葉がおれを揺さぶった。そうだ、ここで死ねない。イリヤさんを外へ出さないと。きちんと風に乗せて、大好きだった菫色の語り部を最後まで弔う義務が、おれにはある。

 トラ柄の扉の取っ手を動かして、全体重を乗せて押し開けた。外でもないのに風が吹いた。気圧の差から生まれるんだよと研究員が教えてくれたっけ。悪い人たちばかりではなかった、キース(おれたち)が関わらなければあんなことをせずに済んだ人ばかりだった。


 中は暗かった。今まで見てきた部屋の中で一番広い、部屋と呼んでいいのかすら分からぬほどに広い。エリック兄さんが言い残した通り、天井に向かって幾つもの管が伸びていて、伝って行けば壁に空いた穴に潜り込めそうだった。

 だがそれよりも目を引くものが、ど真ん中にどーんと鎮座していた。


(箱……?)


 この闇の中でも黒々とした、巨大な正方形。奥行、高さ共におれの足で三十歩、(いや)五十歩はあるかもしれない。壁から伸びた管が何本か、その黒い箱に伸びていて、暗闇も相まって不気味な生き物のようにも思えた。


 ぺたりと触ってみた。金属だろうか……それにしては何だかとてつもなく怖気の立つ感覚がして、すぐに手を放して後ずさりした。

 もう行こう。長居したくない。どの管が一番足を掛けやすいだろうか……そう辺りを見回した時、誰かの気配を感じた。


(こっちへ来る。どこかに隠れんと)


 だがこの部屋には、管と壁と箱しかない。ふざけるなよ、家具でも観葉植物の一つでも置けばよかろうに!

 管を上る時間はない。仕方がないから、扉から離れて部屋の隅で体を小さく丸めた。



 おれは今ここにいない。おれなんか消えてしまえ。


 おれは空気。

 この部屋に漂う一筋ばかりの気流。


 ナダなどという人物など、最初からこの世に存在しない。



「――……君とは分かり合えないな。地下にこんなにも巨大な施設を作ったかと思えば、下請け会社を言いくるめて実験に加担させようなどと。非人道的行為は即座にやめるべきだ、人が離れていくぞ」

「ハナから手を取り合うつもりなどない。“オホロ”の力が戦争を終わらせたのを見て、私は確信した。これは世界を変えられる。長く膠着した南北の関係に、ようやく終止符を打ち得る力だ。この程度で離れていく者どもが愚かだと思わんか?」


 男の声が二つ、重たいドアを押し開けて入ってきた。片方は聞き覚えがある――オブライエンだ。

 もう一つの声はもう少し枯れたような、年季の入った声だった。穏やかだが、怒りを抑え込んだように震えている。


「南大陸の人間をどうするつもりだ? 皆殺しにでもすると?」

「そんな無駄遣いはしない。王に据えれば人類は皆かしずく。ガラクトの民を見ろ、あれだけ熱狂的に自分たちの神にしがみついていたのに、オホロが牙を剥いた途端ころりと鞍替えした! 幻想の神ではなく、具体化した現象に信仰の対象がすり替わったのだよ!」


 オブライエンの声がどんどん熱を帯びていく。


「神の力だよ、これは。ベルゲニウムは過去の愚物などではなかった。数百年眠らせた今、最高の形で手に入れる時が来たのだ、ガヴェル。お前がこの素晴らしさを理解できないことが悲しいよ」

「ああ、私も悲しい。君がそんな愚か者だったとはね」

「フン……まあ良いさ。先ほど一番と二番、それに四番を捕獲したと連絡が入ってね、指揮を執りに行かねば。わざわざこんな場所まで足を向けて貰ったが、見送りはここまでで失礼するよ」

「結構だ。研究の失敗を祈っているよ」


 靴の音が一人分、トラ柄の扉の向こうへと戻って行った。警報がようやく止まった。静かになった途端、耳元で蝿の飛ぶような耳鳴りが始まった。


「嗚呼……これさえ奴の手に渡らなければ……」


 残った“ガヴェル”が悔し気に呟くのが聞こえる。

 そして、オブライエンのものよりも軽い靴音が、コツリコツリとこちらへ近づいてきた。


 おれの前を()()()()()


 ――が、ふと足音が止まった。

 戻ってきた。先よりもやや早く、慌ただしい足取りでまた近づいてきて、息を呑んだ。


「見間違えではない……腕……子供か!?」


 見つかった。また捕まってしまうのか。

 だがもう、焦燥感だけで動ける体ではなかった。限界はとうに超えていてまったく力が入らない。体を起こされるままに任せると、顔にしわの刻まれた男が信じられないものを見る目でおれを覗き込んでいた。


「君……まさか逃げてきたのか? それは灰? 大丈夫かい?」

「……さわ、るな」


 イリヤさんの灰を包む布を握りしめて、咳き込むように声をひねり出した。

 男はすぐに手を引っ込めてくれた。


「分かった、触らないよ。私はガヴェルという者だ。君の名を聞いても?」

「…………」

「見ての通り、オブライエンとは昔から反りが合わなくてね。君の敵になるつもりはない。何と呼べばいいか教えてくれんか?」

「…………ナ、ナダ……ぅ、ゲホッ」

「そうか。ナダ、ゆっくり息を吸いなさい。ここまでよく逃げ切った。辛かったろう。君は強い子だ……私などよりもずっと強い男だ」


 声を出せるようになった途端に体のこわばりが解けて、一気に涙が溢れてきた。様々な感情が洪水のように押し寄せてきて止められなかった。嗚咽を上げるおれの背を、ガヴェルはゆっくりと撫でてくれた。


 この人が悪い大人だったらどうしよう……けれど一度弛んだ感情は、再び人を疑うことを諦めてしまった。この人を疑いたくない。まだ誰かを信じられるおれで在りたい。


「君をどうにか守らなければ。しかし……どうしたものか……」


 ガヴェルは唇だけでひとしきり呟いた後で、意を決したように頷き、体を離して言った。


「本当なら匿いたいところだが、私の元にいればすぐに見つかってしまう。君にとって今一番安全な場所へ行ってもらうよ。かなり遠い場所だ、道のりはやや長いが、それでいいかい?」

「……捕まらない?」

「捕まえさせやしない。このガヴェル、己のすべてを賭けて君を守ると誓おう」


 ガヴェルがおれを抱き上げて、元来た方とは別の扉へ入って行った。小さな箱に乗り込んで、しばらく揺られた後にもう一度扉を開けた。




 土と落ち葉の蒸したような匂いがする。

 風が吹いている。雲一つかからぬ空で、無数の星が瞬く。


 ――外だ。出られた。




 おれはそのうち大きい荷台に乗せられて、寒くないようにと毛布を被せられた。運転手がいない今のうちに乗ってしまいなさい、“孤児院”に着いたらそこで世話になるといい、とガヴェルは言った。

 眦がつり上がっていた。この目を向けてくれるのだから、信用してもいいと思った。


 毛布にくるまって幾らか経つと、低い猛獣の唸り声のような音と共に荷台が動き出した。凄い速さだ。この調子なら、あの施設からずっとずっと遠くへ行ける。


 眠りに落ちる前、一度だけ毛布から出て灰を撒いた。

 強い風に乗せて布ごと手放した。あの星空まで届いてくれるといい。いつか雨が降って、地面を巡って、キース族皆のいる場所へ届けばいい。そう願って、火照ってきた体を毛布の中に埋めた。

 涙が止めどなく流れて、毛布を濡らした。






  ■ ■ ■






 ――目が覚めると、寝台の上にいた。

 施設へ連れ戻されたのかと思って、慌てて跳び起きた。だが体を覆っているのはふかふかした布団で、色柄の壁紙に木枠が取り付いていて、何かの樹と空が見えた。

 もうあの薄緑の検査着は身につけていなかった。代わりに、ちょっとよれよれの服を着ていて、あちこち包帯や白い布を当てられていた。


 体じゅう、ぐったりと力が抜けて気持ち悪い。自分の境界が曖昧な感覚がする。熱が出ているのだ。


(逃げおおせた。……捕まらなかった)


 けれどその代わりに、両親も仲のいい兄さんもなくしてしまった。大好きな人はこの手で灰に変えた。能力を使って人を殺した。自分が殺めた人も、地下で斃れていた研究員たちも、そのままにしてきてしまった。

 安堵感と罪悪感で頭がおかしくなりそうだ。気分が悪くなって顔を両手で覆えば、その手がまだ灰でざらついているような気になって、自分もそのまま灰になってしまいたいと強く思った。このまま熱がどんどん上がって、いつか炎が自分を燃やし尽くせばいいと願った。


「おいおい、苦しいだろそんなことしてたら。ほれ、俺の顔見えるか?」


 突然大きな手がおれの手首を掴んで、引き剥がしてきた。

 黄色い顔が見えた。真っ黒な目だ。髪も黒い。ザッケスはボサボサだったけれど、この男の髪は短く切られている。


「うん、焦点は合ってンな。耳は聞こえるか? よしよし、反応アリっと。高熱で変な行動取っちまうってのァよくある話だ。まあ気にすんな」

「…………」

「ここ、孤児院な。分かるか? 親ナシとかワケアリとかの子供らを育てるところ」


 “コジイン”……ガヴェルが言っていた単語だ。そうだった、おれはここに行くようにと言われたのだった。

 目の前の大男は聞いたことのないほど低い声で、ペラペラとしゃべり続ける。


「よく玄関先に赤ん坊が置き去りに、なんてことは日常茶飯事だが……さすがにトラックの荷台でどんぶらこは俺も初めてでな」


 大男の後ろの扉から、今度は黒い男が現れた。研究施設にもいろいろな髪や肌の人がいたが、おれも黒い肌の人間なんて初めて見た。目を丸くするおれに、黒い人はにっこりと微笑みかけた。

 ふと大男の低い声が、少しだけ柔らかくなった。


「無理にたァ言わねえ、だが話して楽ンなるなら話してみねえか?」


 ――それまで堪えていた様々なものが、一気に堰を切った。


 大声で泣き喚いた。こんな大きな声を生まれて初めて出した。傷んだ喉が破れそうだし、嗚咽混じりの言葉は言葉になっていないし、おれ自身何を口走っているのかも分からない。

 それでも二人は黙って聞いてくれた。


「……もう消えたい。忘れることも出来んのなら、いっそおれも灰になって消えたい……」


 最後に、それだけ確かに口に出来た。

 布団ごと自分の体を抱きしめた。涙でぐちょぐちょだ。後でこれも燃やしてしまわないと、きっとこれも研究の材料になる。

 触った場所にも何か残っているかも。どこかにおれの髪の毛が落ちているかも。吐いた息から何か拡がったりしないだろうか。おれと今話しているこの二人も、もしかして研究の対象になってしまうだろうか。


 消えたい。自分で自分を灰に出来たら、そして風に乗って故郷に帰れたなら、どんなに良かっただろうか。


「──忘れる手段は、無くはねえぞ」


 おもむろに大男が声を発した。

 思わず顔を上げた。嘘をついている風ではない、後ろの黒い人も真剣な顔だ。


「ショッキングな出来事ってのァ記憶の引き出しが開きやすくなるもんだ。忘却を知らねえお前さんの場合、それは他人(ひと)よりも数倍は辛いだろう。心が壊れちまうのも時間の問題だ……一度起きたっていう心の麻痺は防御反応だろうが、ずっとそのままでいると良くねえ」


 たしかに、何も感じなくなった時はとても楽だった。何が起きているか理解する必要もない、受け止める必要もない、ただただ自分の体を何かが流れていくだけの感覚だった。

 それの何がいけない? だっておれが下手な考えを起こさなければ、少なくとも父さんたちは助かったかもしれんのに。


「いいか。楽しいだとか、辛いだとか、そういうのは生きるために必要な感情だ。たとえ負の感情だろうが、人間には絶対なくちゃならねえもんだ。負の感情が強くなりすぎるあまり心が死ぬのは、いずれ命が尽きることにもなりかねない。だから、今抱えてる感情の出所を丸ごと封じようってワケだ」

「出来るのか……?」

「おう。催眠術の応用だ。ちゃんと医学的なやつだよ。後ろのパドフはそういう施術が得意な奴でな、こいつがまともな人間でホントに良かったと俺ァ何度も思ったもんだが……ただ超記憶を持つ奴への施術はあまり例がない。完全な忘却が叶わんかもしれねえが、それでもやるか?」


 おれは自分一人で消えることは出来ない。

 ――けれど、記憶は消せるかもしれない?


 それは酷く甘美な響きだった。強面ながらおれを慮ってくれる声に思考が溶けて、更にイリヤさんの掛けた三つの呪いがまたしても追い打ちをかけてきた。


  ()()()()

  ()()()()()

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 たとえ大好きな人とて忘れてしまうとしても――今は何も見たくない。

 だからおれは縋ることにした。パドフと呼ばれた黒い人が窓幕(カーテン)を引いていくのを、ようやく落ち着いて眺めることが出来た。






 時を刻むような規則正しい音に合わせて、ゆっくりと意識を沈ませていく。

 深く深く潜り込んでいった。暗闇は泥濘のようにまとわりついてくるも、どこか安堵を覚えるものだった。最奥まで達したところで、おれは腕いっぱいに抱えていた嫌な景色をすべて手放して、幾重にも鎖を巻き付けて鍵を掛けた。

 そして背を向けた。もう振り返らずに、一目散に元の光の方へと戻って行った。


 その時に、一度麻痺して痺れたままになった“おれ”が落っこちて、置いて行った鍵を拾い上げた。

 分かっていた。何かの拍子に封印は解けてしまうかもしれないことを。その時に心の器の修復が済んでいなければ、今度こそ耐え切れず壊れてしまうであろうことを。



 ――“おれ”の正体は番人。

 器が完成するまで中身を預かり、(きた)るべきその時までここを守り切る……俺ことナダという人物の一番脆く、一番強い部分は、


 八年の時をかけて、

 ようやく俺が取り戻したのだった。






  □ □ □

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