星の語り部とみっつの呪い③
■ ■ ■
階段を二つ降りたら、見慣れた場所は跡形もなかった。
実験室の硝子は割れて散らばり、水浸しになっている。と思えば、ある一定の区域から先は炎が包んで先へ進めなくなっていた。
至るところに白服たちが倒れ臥していた。脈をはかるまでもなく、彼らが既に死んでいることは分かっていた。命の気配が感じられなかったし、何より関節がおかしな方向に曲がっていたり、変に膨れていたり、目も当てられない状態のものもあった。
それらを目にしても喉が引きつることはもうなかった。ただ視覚情報として入ってきて、無駄に良い記憶力に焼き付くだけで、感情まで届かない。
エリック兄さんたちを探した。元居た部屋には見当たらなかった。もう既に脱出が叶ったのだろうか、それとも捕まってしまったのか。無事を祈って、炎の方へと足を向けた。
炎の前に膝をついて、屈んで両手をかざした。
そしてふうっと息を吐きながら力を籠める。炎が手元に集まってくる。おれ目がけて次々とんでくるそれらを消し、また集めて、消す。
本当に便利な能力だ。
だから持っていない普通の人は、これが欲しくて堪らない。
炎の燻る廊下を歩く。力の渦が暴れて、行き場を失っているのを、この先に感じる。イリヤさんはまだ生きている、けれど命の灯は今にも消えそうだ。
「イリヤさん」
廊下の奥で横たわる、白い枝のような影。
イリヤさんの傍に膝をついて胸に手を押し当てた。まだ鼓動がある。とても弱々しい。きっと意識すら、もうない。
「なあイリヤさん。おれ、人を殺したよ。もうキースには帰れないよ」
「…………」
「たくさん殺した。六人だよ。キースでもこんなに殺した人、これまでなかろ? おれ知ってるんだ、見せられた記録の中に、最高で四人だと残っとるのを見た」
鼓動が、少しずつ、弱くなっていく。
「イリヤさんは皆が死ぬのを見てきたのだろ。おれも見届ける。一人じゃないから、安心してくれ」
「――……」
呼吸が途絶えた。
「おれが知らないだけで、父さんも母さんも兄さんも、イリヤさんも、ずっとここで戦ってたのだな。『何も渡すな』とは……研究の材料を残すなって言いたいんでしょう?」
灯が、消える。
細い体からふうっと何かが抜けたような音がした。人が死んだ。魂が抜けた。人は亡くなると、抜けた魂の分だけ体が少し軽くなるのだと、前にイリヤさんが言っていた。
何だか感覚が遠い。両親の惨状を目にしてからずっと続くこの鈍さが、とうとう体中のいろんな感覚を麻痺させていた。感情も動かないから涙も出ない。きっとおれが化け物になったせいだろうと、泥濘のような思考がそう導き出した。
『お前もいずれ順番が来るやもしれぬからね、よく覚えておくのだよ。まずは“死に水”を取るのだ』
記憶の中のイリヤさんがそう囁くのに頷いて、遺体に両手をかざした。
水を操るのと同じように、遺体に残っている水分をすべて、体の外へ遣る。赤黒い生き物の汁が徐々に染み出して、空中に浮かんだ。
それを一気に燃やす。酷い臭いだ。もよおして、吐いて、エリック兄さんに倣って吐いたものも一緒に燃やした。
(あの人らは死体を回収すると言ってた。死体も、吐いたものも、研究の材料になってしまうんだ)
大人たちはこんなに心を擦り減らしていたのか。
おれが無邪気なまま走り回っていられるように。
『水気を抜き切って遺体が乾燥したら、布に包んで祭壇へ横たえるのだよ。あとは皆で送り火を灯して、灰を風に撒くだけ』
ここには布はない。外でもないから風に撒けない。
けれどせめて灰にしよう。
「……『貴女に炎の解放を、遊ぶ風の自由を。体は炎に焼かれて塵と成り、塵は風に乗りて遠くへ舞い、雲に溶けて雨を降らせ、地に降り注ぎ命の芽生えを助く。草木を獣が喰らい、獣は誰かの糧となる』……」
遺体を炎に包みながら、葬式で父さんが唱えた詞を呟く。父さんのように唄うような響きにはどうしてもならなかった。きっとあれは、大人にならねば出来ない響きなのだ。
「『貴女の生は終わっても、貴女の死は誰かの今になる。貴女の存在は誰かの道になる』……おれの道になってくれようとしてありがとう、イリヤさん」
おれはここで道を断つけれど、キースの人たちに伸びる悪手も断って見せる。
そう胸の中で誓った時、炎が燃え尽きた。
灰をかき集める。両手が震えて止まらない。急に喉が渇いてきた。ぐらりと世界が回りかけたその瞬間、空を切り裂くような高音がどこからか響いてきた。
(これ――指笛だ)
高く長く、一度低く下がって、最後に音を跳ね上げる。
キースの狩猟班が使う、合図の指笛だった。これは「位置を知らせろ」という意味の抑揚。
のろりと両手を口へ持って行って、教わった通りに形作って吹いた。一度は灰で咽せた、二度目は上手く空気が通らなかった。三度目の正直、どうにか情けない音が出て、しかし音は届いたようだった。
「ナダ――ナダ!」
エリック兄さんが駆け寄ってきておれに抱き着いた。服はズタズタ、あちこち傷だらけで顔も真っ黒だ。
「無事か。良かった。……イリヤさんは?」
「…………」
「なあ……なあナダ、俺の気の所為だよな。やたらここの床、ざりざりしとるが……」
「…………」
「……まさか、お前……一人で……?」
ただ、頷いた。
兄さんの白い唇がわなないた。
「兄さん。おれ、ここに残るよ」
「は……?」
「人を殺したんだ。気が付いたら燃やしてて……ザッケスが、おれのこと化け物だって」
「……そんな……」
「おれ、イリヤさんがやり残したことを代わりにやるからさ。父さんと母さんをここから逃がし――」
「そんな馬鹿なこと言うな!」
ビクッと肩が震えた。
兄さんのこんな大声を初めて聞いた。両肩をガッシリ掴まれて激しく揺さぶられた。
「イリヤさんは何のために命を賭したか分からんのか? お前を死なすために灰になったと? お前を生かすためだろうが! 違うか!」
「ッ、でも」
「『でも』じゃねえ! 化け物だと? 逃げるために能力暴発させてしもうた子供と! 人間捕まえて体じゅう調べまくって、障害になるからと二人三人拷問にかけるような輩とッ! 一体どちらが真正の化け物だ!?」
ひとしきり吼えて、ふうふうと息を整えて、おれを抱き寄せて胸に顔を押し当ててきた。
「化け物など……そんなこと言わんでくれよ……」
「…………」
「……こっち来い。逃げ道へ案内してやる。ほら、イリヤさんも共に」
かき集めた灰を薄緑の布に包んで持たされ、そのまま乱暴に手を引かれた。
見上げた横顔は、眦がつり上がっていた。
■ ■ ■
何も考えられない。
何も感じない。
兄さんが手を引いてくれるその感覚もどこか現実味がない。
手元にまだイリヤさんの灰がある事を、何度も確かめた。ちゃんとまだ手の中にあるのか、それすらも朧気だった。
「辛い役目をお前にさせてしまった。すまない。お前は子供だからな、優しくしてくれる人がきっといる」
「…………」
「いっそのこと、忘れられたら良いのにな。ここでの記憶も、キースの記憶もサッパリ飛ばしてしまって、新しい人間になって生きられたら……そう在れたらどんなに良かったか」
エリック兄さんは一生懸命、根気強くおれに声を掛けてくれる。
「後のことは案ずるな。そう易々と奴らの手の内には下らんよ。あのオブライエンとかいう男の顔面変形させるまでは死なんと決めたんだ、期待してくれ。お前を化け物呼ばわりしたザッケスも一発お見舞いしてやる。少しは根性もつくだろうよ。――ほら着いた。“真ん中”だ」
おれと兄さんが“真ん中”と呼んでいた、研究員たちの詰めている大きな研究室に辿り着いた。やはりここも赤色灯が彩っていて、蹴り倒された回転椅子や散らばった資料、飲みかけの湯呑が放り置かれている。
おれの目の高さに屈んだ兄さんが、部屋の奥の方を指さした。黄と黒の縞模様で縁どられた頑丈な扉が行く手を阻んでいる。
「先刻その辺りから地図を拝借してな。どうやらあの扉の向こう、天井が高くなっておって、天井の方まで管が伸びていて、換気口もあるという話だ。子供のお前ならば這って進めよう。いいか、空気の通る先へ向かえ。いずれ外へ通ずる筈だ」
お前は昔から木登りが得意だからと、優しく頭を撫でてくるその微笑みを、ただぼんやりと見つめ返した。表情を動かせない。心が動かない。おれが木偶みたいに突っ立っている分だけ、兄さんは眦を上げたままでますます笑った。
「俺はもう行くよ、ジゼルさんを待たせているのでな。ナダは無事に逃げたと報せればきっと喜んでくれる。二人もお前の無事を祈っとるからな。さあ、仕上げだナダ――お前の中で倦む悪いものは、ここへ置いて行きなさい」
冷たい手が、するりと腹に触れてきた。
カッと熱くなった――と思いきや、その熱にずるりと何かが引っ張られて、堪らず体を折り曲げて兄さんの腕にすがった。力が入らない。息が出来ない。
「俺は多分もう長くないから、多少貰ったところで影響はないさ。どうか達者で。きっと立派な男に成れよ」
ようやく鈍い頭に理解が追いついた。
ここから逃げるのは、おれ一人だ。兄さんは――恐らく父さんも母さんも同じように、おれを逃がすためだけにここを墓場とするつもりだ。
狡い。おれだって消えたいのに。おれが生きていたって仕方がなかろうに。
(置いて行かれる……)
声が出ない。腹の奥から全身を炙っていた熱が引いて、ぽっかり穴があいたようだ。体をようやく動かしたが遅かった。
扉は、バタンと閉まってしまった。




