星の語り部とみっつの呪い②
■ ■ ■
思い出した。
貴女はイリヤ。
星の落ちた湖の底のような、深いところで光が揺蕩う不思議な声をしていた。その声で語られるたくさんの話は、いつもおれをわくわくさせてくれたものだった。
長い生の中で見てきた、他の誰も知らない景色を、当時のキース族の様子を交えながら語るのだ。夜空にかかる光の幕……立派な角が自慢の、白銀の鹿……凍った湖の中にはキラキラと光る星の欠片が落ちていて、春になって氷が融けると再び空へ帰っていく……。
語られるそれらが事実か虚構かなどどうでも良かった。彼女の語る夢のような世界の煌めきが、おれのみならずすべての子供たちを魅了していたから。
――そのイリヤさんが「一人で逃げろ」と言った。
「斯様な状態のジゼルとリーシャを抱えて全員で逃げることなど、成功は最早望めぬ。なれば、白服どもの意識が三人に集中しておる今が好機だ。今のうちに一人で往け」
「……父さんたちは、」
「エリックも云うたの。お前の身があ奴らの手に落ちてはいかぬと。まったくその通りなのだよ、ナダ。お前はたしかにまだ幼く、一人で外へなどと酷だろうが、子供である故に立ち回れることもある」
白い手が両頬を包んで、そのままこつんと額同士をくっつけられた。
「許しておくれ。キースの為などではなく、お前のためにお前を逃がす私を」
「……どういう意味?」
「お前は私と同じ、良きも悪しきもすべて記憶に残ってしまう。この先の人生で、今日この日のことを覚えておくのはさぞ辛かろうな。分かるよ。私は誰よりも長く生きて、誰よりも多くの死を見送ってきたのだから」
頭がくらりと回った。
そうだ。最長寿ということの意味は、他の同世代は死に絶えたことと同義。それも忘れる術を知らない故に、一人ひとりの死にざまが何十年経っても鮮明に記憶に蘇る。
何故気が付かなかったのだろう。おれも同じだというのに。仲の良かった年上の兄さん姉さん、アドラーの父母……彼らの亡くなった時を思い出しては時折寝付けなくなる、それとまったく同じ思いを何十年と味わってきた人がいることに、少しもおれは考えが及ばなかった。
それを悟らせず、イリヤさんはずっと星の輝く話ばかり語り聞かせてくれたのだ。
「私はもう限界だ。体がてんでいうことを聞いてくれん。私はここに残って、せめて研究の痕跡を道連れに出来るかやってみるとしよう」
「死ぬの……?」
「然うだよ。ナダ、いずれ人は死ぬものだ。私たちキース族は、自然の力を借りることが多い分、その時機が常人よりも少し早い、それだけのこと。最期に命を燃やす口実を、私におくれ」
頬を包む手を握りながら、ぶんぶんと頭を振った。聞きたくない。そんな悲しいことを言わないでほしい。全員で逃げて自由になろうと、兄さんだって言ってくれた。
けれど分かっていた。――イリヤさんは、長くない。
「この階層を抜ける経路は頭に入っておるな? 振り返らずに走りなさい。お前の父母はきっとエリックが連れて行ってくれる」
「嫌だッ。皆で逃げるって言ったんだ!」
「……聞き分けよというのも無理な話だな。仕方がない」
心地よく低い声が突然、ふっと遠のいた。
膝に痛みが走った。腕に地面がぶつかった。
(…………!?)
ぐにゃりと体から力が抜けて、膝から崩れ落ちたのだと、かなり遅れて気が付いた。酸欠だ。体じゅうが痺れて、キーンと高い耳鳴りが響いて、葉擦れのようなざわざわという音が一時思考を覆った。
それらの雑音の合間から、イリヤさんの歌うような声が降り注ぐ。
「往きなさい。逃げることがお前のつとめだ。決して捕らわれず、何も渡さず、今はただ逃げよ。お前の足跡は私が消そう」
「……イ、リヤさん……待って……」
研究員の誰かに貰った杖を突く音が遠ざかる。ゆっくりとした足取りだ、まだ出て行くまでに時間はある、だのに体になかなか力が入らない。
代わりにイリヤさんの言葉が、呪詛の如く染み込んでくる。
決して捕らわれず、
何も渡さず、
ただ逃げろ。
「…………」
その言葉はじわじわとおれの思考を奪っていった。
捕まるな。逃げろ。何も考えずに、この場にすべてを置いて逃げろ。
(逃げる……逃げる、逃げる、――逃げろ)
頭の奥に泥が詰まったかのように、意識がハッキリしない。
無理やり目を瞬いた。何が見えているのか認識するまでに、少し時間がかかった。
白い床。白化しきっていない自分の腕が、その上に放り出されている。
もう一度瞬きすると、指先まで明瞭に捉えられた。誰もいない。白い部屋にはもう誰の姿もなかった。
体中の神経に動け動けと叱咤しながら起き上がった。どうも世界に自分が置いて行かれた感じがする、まだ感覚が遠い。いつの間にやら非常事態を告げる警報が鳴り響いている。
そのまま、おれは足を動かした。
頭の中に刻み付けた経路を辿って、慌ただしく行き交う研究員たちをやり過ごし、見つからぬように迂回を繰り返して、階段を上った。いつも立っている警備員はいなかった。警報の鳴る元へ駆けつけているのだろうと、上階の廊下を赤色灯がぐるぐる照らしているのを見てぼんやり思った。
――けれど、上階を進んで更に一つ上へと続く階段に行きついた時、おれは我に返ってしまった。
父さんと母さんは倒れたまま。兄さんはその救出に向かった。
三人は、イリヤさんが何をしようとしているのかを知らない。
知らせねばと思ってしまった。
だからおれは踵を返して元来た通路を駆け戻った。意識がハッキリした途端、先ほど打ちつけた全身の傷がズキズキと痛みを訴えだして、息せき切って走るせいで血を含む唾を吸い込んで肺が痛かった。それに加えて、内側からせり上がってくる何かがはらわたを、骨を、筋肉を、炎がチロチロと舐めるが如く炙るのだ。
それはきっと、暴走を始めたイリヤさんが炎を撒き散らしているためだと思った。足の裏で豪炎の気配がする。どこで能力が暴れているかも、兄さんたちのいるであろう位置も、すべて分かる。
「母さん!」
叫ぶと肺が悲鳴を上げた。構うものか。
「母さん! 父さん! 早う、逃げてくれ!」
逃げねばアレに巻き込まれる。
限界を迎えた両親がいくら大人といえど、あの豪炎には耐え切れまい──。
その時、首根っこをぐいと引っ張られて体が宙に浮きあがった。
「キース五番捕獲。オブライエン主任に報告しろ」
さあ、と全身から血の気が引いた。黒い装備に全身を包んだ人たちがおれを取り囲んでいて、あっという間にがっしりと捕まってしまっていた。
嘘だ。捕まってしまうなんて、そんな。
「下で三番が暴れているようです」
「あれについては主任から指示が下りている。一通りのデータが取れたら消火設備を起動し、死体を回収する手筈だ」
「他の三体については?」
「三人とも五番の障壁だ。一気に廃棄処分が出来て一石二鳥だろう。死体も検体になり得る、損失にはならない」
(……おれが捕まったから?)
淡々と交わされるやり取りに、どんどん頭が混乱していく。
イリヤさんの暴走は想定内だった。先手が十二分に打たれている、この程度の暴走で壊れる施設ではない。ならばあの人の覚悟は、おれを逃がす身代わりになるという決意は、このままでは無駄に終わるというのか。
そして一緒に、あの暴走にわざと巻き込ませる形で、両親もエリック兄さんも、死んでしまうのか。
「うわあああァァァ――ッ! やめろォ――!」
「何……おい薬を打て! 暴れてるぞ!」
「しかし大人の分量です! 打てば後遺症が……ァッ」
死なせるか。無駄にして堪るか。
その一心でおれは、全身で燻っていた火種を一気に解き放った。赤色灯がぐるぐると回転する廊下を背景に、豪と燃え盛る炎の中で人々が踊り狂う、この世の終わりのような美しい景色を創り出した。おれを抱えて離さなかった腕が爛れて縮れて、最後に突き飛ばした。
全身を心地よい気だるさが覆っていた。甘美な汁に浸かったように思考が鈍っていた。この場の空気の揺らぎひとつ、炎の爆ぜた粉ひとつ、すべてが手に取るようにわかる――その全能感を打ち消したのは、事切れる寸前に伸ばされた、黒焦げの手だった。
「……ぁ……」
ぱたり、と斃れて動かなくなった。
炎が消えた。壁が真っ黒に焦げて、辺りは酷い臭いの煙で満ちて、警報と赤色灯だけがこの場を彩っていた。
黒焦げた歪な人形が六つ、おれを囲んでいた。
「うそだ……おれ……」
「――ヒッ」
背後で息を呑む声が聞こえた。ハッとそちらを振り返ると、よく見知った黒髪があった。
「ザッケス……」
「く、来るなァッ! やめろ、殺さないでくれェ!」
「ちがう、殺してない、おれはただ――」
「嘘つくな! 人間の皮を被った化け物め! たった今生きたまま人を焼き殺しておきながら、よく『違う』なんて言えるな!」
焼き殺した。
おれが。
「ああ……主任……こんな奴らを手懐けるなんて無理だ……人間の手に余る、こんな……」
ザッケスは頭を抱えて蹲ってしまった。
耐え切れずにおれは逃げ出した。一秒でも早くここから遠ざかりたかった。毎日毎日、あれほど言い聞かせられていたというのに、簡単に呑まれてしまった。
『この力は慎重に使わねばならんぞ』
『不変の理を容易く変え得るものだ』
『努々感情で能力を使うこと無きよう』
力が抜ける。おれは化け物になってしまった。父さんと母さんを、化け物を生んだ親にしてしまった。
おれが見つかったせいで、言うことを聞かなかったせいで、みんな無駄死にしてしまう。たくさん人が死んでしまう。おれが死んでしまえばいいのに。くたばるのが父さんでも母さんでもなく、おれであったら良かったのに。
その上、「死体も検体になる」という言葉が脳内でぐるぐると巡って、一番深いところに焼き付いていた。
おれは死んではならない、死ぬなら塵にならねばならない。
どうあっても力を渡してはならない。
(……せめて、奴らに何も渡さぬように……)
どうせ化け物に成り果てたのだ。これからおれが何をしようと、どう汚れようとも、もう父さんたちが助かりさえすればいい。
それでいい。
やることをやってしまったら、おれも自分の死体ごと消えてしまいたいと、そればかりを願った。




