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Blank-Blanca[ブランクブランカ]  作者: 奥山柚惟
第7章 大人になるまで
73/97

肉薄

  ■ ■ ■






 白い施設へ来て一ヵ月半あまりが経った頃、じわりと異変が忍び寄っていた。

 研究員たちの様子がおかしい。急によそよそしい態度を取るようになった。そもそも研究員と被験者が談笑する仲だというのがおかしな状態だったのだろうが、それを差し置いても意図的な距離を感じる。

 ■■■さんの勧めで、追いかけっこ調査は当面休むことになった。状況に変化が見える中で探るような行動をとるべきではないとの判断だ。空いた時間は勉強に費やすことになったが……。


「……飽きた。算術嫌いだ。もうやりとうない」

「そう言わんと。必要なことだぞ」


 スープの具を使った算術の授業をおれは放り出した。赤い塊(にんじん)をもぐもぐ咀嚼してそっぽを向いて見せると、エリック兄さんは困ったように目尻を下げた。


「ナダ。体を動かせんからと苛立つのは分かるが……」

「新しく来た奴ら、おればかりをじろじろ変な目で見てくる。気持ち悪い。子どもだから扱いやすかろうなどと」

「言われたのかい?」

「……おれ、あの“しゅにん”嫌いだ。笑った顔がちぐはぐだ。絶対悪い奴だ」

「斯様な目で人を見るものではないぞ、ナダ」


 兄さんがぐしゃぐしゃとおれの髪を掻きまわしてきたので、反論しようと口を開いた。

 だが言葉は出なかった。兄さんは眉間に憂いを漂わせていた。


「“主任”だな。その男、注視しておこう。ジゼルさん達にも進言する」




 研究員たちがいやにそわそわする理由は明白だった。つい二、三日前に現れた研究員たちの責任者と、その取り巻きのせいだ。

 責任者の名はオブライエン。研究員たちからは「主任」と呼ばれている。しばらく観察を続けてみると、研究員たちのほとんどが彼に弱みを握られて、この研究に加担させられているらしかった。これまで行われていた一見無意味で無難な検査は、彼らなりのささやかな抵抗だったのかもしれない。


「状況は変わった。奴が直接研究に口を出すようになってしまった……脱出を急ぐ必要がある」


 ある日の夕食、父さんがパンを齧りながらそう宣言した。


「だが時機を捉えるのが難しい。なるべく目立たず、従順な振りを続けろ。抵抗すれば何をされるか分からん」

「母さんも酷いことされる……?」

「奴に人の心があれば良いのだが。そこに賭けるには(いささ)か分が悪い」

「そうね。私もその通りだと思うわ」


 母さんは俯いた。この施設に来てから、母さんは体調を崩す一方だ。前から居る研究員たちは母さんに同情し、検査よりもむしろ体を診てくれているが、新顔たちが「検体で唯一の若い女だというのに、ハズレくじを引いた」と吐き棄てているのをおれは聞いた。次会ったらバレないように顔を蹴っ飛ばしてやりたい。いい方法を知らないか後で■■■さんに訊いてみよう。


「ナダ、ちゃんと話を聞いとるか」

「聞いとりマース」

()()か。くれぐれもカッとなって手を出してくれるなよ」


 ……父さんは人の心を読めるに違いない。


 しかし状況は悪くなる一方だった。

 母さんは床に臥せる時間が増えた。父さん、兄さん、■■■さんの三人で顔を突き合わせる時間も増えた。

 検査への送り迎えをするザッケスは、とうとう会話を振ってくることがなくなった。ほんの少し、おれが無理やり話しかけたところによると、やはりオブライエンはおれに目を付けているらしかった。


「あのお方は過激派だ。研究の為にあれほど残酷になれる人はそういない」

「あ奴に何かされたのか」

「君は知らなくていい。君たちに害が及ばないよう手を尽くしてはいるけど、そう長くは時間を稼げない」


 情けない大人のザッケスは、(カメラ)に映らないギリギリの死角でおれに縋りついてきた。


「頼むよ……早く君たちに逃げて貰わないと、僕らはみんな心が死んでしまう……」


 大人も涙を流すことがあるのだなと、おれは押し潰されそうな胸で考えたのだった。






  □ □ □






 ――パチッ。


 薪の中で炎が爆ぜた。僅かな積雪が彩るモノクロの森を、焚き火が明々と照らしている。

 かざす手に力を練り込めると、それに合わせて焚き火の中心で熱が膨れ上がる。薪が崩れ、ふわっと火の粉が舞い上がった。

 炎の上には水の球が浮いていて、あと少しで沸騰しそうにグラグラと揺れて震えている。頃合いを見計らって、球体を崩してマグに注ぎ入れ、残りは洗った鍋に注いだ。


「ふぅー……あつッ」


 マグを揺らして粉末スープを溶かし、息を吹きかけながら啜った。熱々の湯が舌をヒリヒリさせた。


 ザッケス&ジハルドと遭遇してから一ヵ月弱になるが、俺たちの身に大きなアクシデントは起こっていない。強いて言うならば、俺が二日ばかり熱を出して寝込んだとか、ベイが狩った獣の皮を剥がせるようになったとか、イコの身長がちょっと伸びたとか、そのくらいだ。ひとまずザッケスの身に監視の目は付いていなかったと見て良さそうだ。


 夜半にベイと見張りを交代して、現在腕時計は午前三時半を指している。空はまだまだ真っ暗、しかも今日は月がない。明かりはこの焚き火だけである。

 辺りはとても静かだ。火を焚いているから獣も寄って来ない。代わりに人が寄ってくるかもしれないので注意は必要だが、能力を使った探知では近くにそれらしき気配はない。


 俺は夕飯で残しておいた、クルミの入った堅パンを取り出した。ナイフで一口大のブロック状に切り分けて串に刺し、焚き火にかざして軽く炙る。表面がちょっときつね色に色づくくらいが俺好み。

 炙ったパンを熱々のスープに浸して頬張ると、カリカリのパンにスープが染み込んで、噛むとジュワッと溢れてきた。口の中を火傷しそうになるが、それもセットでうまいのだ。

 これが一番うまいパンの食べ方だと思っている。異論は認める。他にもおすすめの食べ方があったら是非教えて欲しい。


(……ん? ベイの奴、寝付けねえのかな)


 見張りの特権を駆使して夜食を味わっていると、テントのジップが上がってのっそりと人影が這い出てきた。立ち上がった背は低く細い。ニット帽を被り、カーキ色のアウターに身を包んでいる――イコだ。


「いい匂いするから目ェ覚めちゃった。何食べてんの?」

「バレちまったかあ。お前も食う?」

「うん。うわ美味しそう」


 もう一人分スープとパンを拵えて、丸太に座るイコに差し出して隣に座った。イコは湯気に顔を湿らせながら、ふうふうと息を吹きかけて冷まして頬張った。


「んん! あー、あったまるぅ……もう十一月も半分終わったもんね、流石に寒いなあ」

「寒くて眠れないなら湯たんぽ作ろうか?」

「ベイがあったかいから大丈夫」

「……お前さ……それやめた方がいいぜ……」


 イコは悪戯っぽく笑った。その明るい顔に安心して、スープをまた一口啜った。渇いた喉を潤したかったのに、コンソメ味の塩辛さが邪魔してくる。しかしここで生唾の一つでも飲めば、イコに何かが伝わってしまいそうで不安だった。イコは鋭いから。

 このまま他愛ない話を続けようと口を開いて……やめた。寸でのところである思いがブレーキを掛けたのだ。



 ――また逃げるのか?



「お前に話さなきゃいけないことがある」


 パチッとまた火が爆ぜて、燃え尽きた薪が崩れて火の粉が上がった。

 思ったよりも硬い声が出てしまった。そんな台詞をこんなシリアスな声で言ったら、何の話か察せられてしまうじゃないか。

 イコの顔から明るさが消えた。イコがまだ湯気をほわほわ上げるスープに視線を落としたので、横顔が短い髪に隠れてしまった。


「それで?」


 俺と同じ硬さで、イコの声が返ってきた。


「今、話すの?」

「……その……」

「うん」

「俺は……どれだけ延ばしても心の準備なんてできないから……イコはどうなんだろうって。お前がその気になったらって……」


 言葉を絞り出しながら逃げ出したい衝動にかられた。何だこれ。俺、めちゃくちゃダメな男じゃねえか。


「うーわ、ダッサ」

「俺も今そう思いました……」

「わたしが見てきた中で一番ダサかった」

「まったくおっしゃる通りです」

「ナダって優しいけど、そういうところあるよね。タイミングをわたし任せにして、逃げ道作ってさ。……でもわたしも同じだ」


 ひとしきり俺に追い討ちを掛けたところでイコが不意に顔を上げて、空に向かって白い息をふうっと吐き出した。


「ナダがそうやって切り出すまで踏み込んだ話はしないんだろうから、そういう狡さで言ったら、わたしの方がずっとかっこ悪い。人のこと笑えないや」

「…………」

「ねえ。期限決めよっか。デッドラインがあればお互い心の準備もできるでしょ」

「自分たちで追い込んでくスタイルか。そうだな……」


 区切りのいいタイミング。

 後腐れのない、お互い納得のいく時機。


「――キースに戻った後にしよう。アドラーの話じゃ、何だか“治療”があるらしいから、その後とか」

「なるほど。いいね」

「話云々(うんぬん)の前に俺の体が空かないかもだけどな。絶対質問攻めには遭うだろうし、キースの人らがお前をどうするかも分からん」


 イコは苦笑いした。


「あはは……あんまり酷い目には遭いたくないなあ」

「酷い目なんかには遭わせない。何が何でも阻止する」


 腕に触れている細い肩が、僅かにピクリと震えた。


「そんなこと言って……仮にも故郷の人でしょ。手ェ上げれんの?」

「相手は狩猟民族だぜ? 俺がちょっと頑張ったくらいじゃ痛くも痒くもねえさ」

「いやいや、そういう話じゃなくってさ。家族みたいなものじゃん」

「そうだよ。家族意識がとても強い。だから危険だ」


 エリック兄さんが病院で言っていたことが、少し時間を置いて考えた今、分かった気がする。

 キース族は閉鎖的な民族だ。数百年単位の長い時間、世間の目から逃れて生きてきた集団であるが故に、自覚のないままに強固な排他的意識を持ってしまっているのかもしれない。だからこそ、家族を守りたいがために“闘争派”と“共存派”に過激な二分化を果たしてしまっているのかもしれない。


 そこへ、(ナダ)外の人(イコとベイ)という異分子が混ざれば、どうなる?


「俺も多分もう、キースにとって異分子だ。キースが俺を“()(びと)”と認識して攻撃してくるようなら、俺は大人しく身を引くつもりだ。ギリギリまで兄さんやアドラーは頑張ってくれるだろうけど……それでも数には敵いっこない」

「…………」

「帰ってみないことには何にも分かんねえけどな。もしキースからも追われる身になったら、その時はまた一緒に逃げようぜ。ベイも一緒に」


 薄茶の目がビー玉ほどにも見開かれた。

 そして破顔した。ここ最近で見た、一番の笑みだった。


「え、なに。俺おかしいこと言った?」

「嬉しいんだよ。最初『一緒に逃げよう』なんて言えなかったナダが。しかもベイも一緒に逃げようぜだってさ。ふふ」


(……言われてみれば)


 ガヴェルの差し金でイコもあの町を出ることになった時、覚悟を決められていなかった俺はどうしてもその一言を口に出来なかった。結局罰ゲーム的に、投げやりになってようやく絞り出したというのに、この変わりようは何だ。


「約束だよ。キースに行ったらちゃんと話すこと、ヤバくなったら一緒に逃げること」


 イコがこぶしを差し出してきた。

 俺もグッと手を握って、一回り小さいこぶしにぶつけた。






  ■ ■ ■






 ここは眠りの奥。俺が作りだした、封じた記憶へ通ずる場所。

 ガードが緩んできているのか、それとも無意識のうちに焦っているのか。意図してここへ潜り込めるようになってからはほぼ毎日、少しずつ記憶を取り戻していた。

 きっともうすぐ核心部分に手が届く。


「今日も頼むよ」


 暗闇に向かってそう呼び掛けると、どこからともなくもう一人の俺の姿が現れた。

 薄緑の検査着を着た幼い“おれ”でも、孤児院で着ていたからし色のパーカーを着た“おれ”でもない。目の前に立つのは、今よりほんの少し背の低い――ちょうど放浪生活を始めた頃の自分の姿だ。


『よくついて来れてるな』

「そりゃ自分のことだし。もう時間がないのも分かってるよ」

『うん』


 “おれ”は目を伏せて口の端を上げた。白化は今ほど進行しておらず、その頬はまだ少し色が残っているし、髪も毛先の方がところどころ茶色い。

 慣れない力仕事に荒れた手が、小さな鍵を渡してきた。


『今日で大詰めだ。……厳しいぞ』

「分かってる」

『大丈夫か?』

「大丈夫さ」


 ああ……俺、随分無茶していたなあ。


 自分のことながら、今よりやや小さいその手は痛々しかった。力仕事での筋肉ばかりが付いた体は痩せて骨張って、栄養不足で肌色も悪く、寝不足で目元がやつれている。

 事実や過去から目を逸らすために過重労働で自分を追い込み、自分で作る食事だけがささやかな安らぎで、一人で孤独を突き進んだ姿。

 鍵を受け取って、俺は“おれ”の手を握った。


「ありがとう。もう大丈夫だ。ここからは俺が全部持って行くから」


 すうっと、握っている手が大きくなった。

 目線が同じ高さになった。着ている服が同じになって、白化が進んで、今の俺の姿と重なった。


「先に大人になってごめん。置いてけぼりにして悪かった。俺が大人になるまで待っていてくれて……今日まで心を守ってくれて、本当にありがとう」




 ――幼い頃に置いてきた半身に、俺はようやく追いついた。




 満面の笑みを最後に見せて、“おれ”の姿が淡い光に包まれて、胸に溶け込んできた。心臓が急にずっしりと重たくなったような感じがする、その鈍い痛みすら懐かしい。

 “おれ”の立っていた場所には、鎖でぐるぐる巻きになった頑丈な扉がそびえていた。来たる者を拒むような冷たさを、錠前のついた鎖が固く閉ざしている。


 深く深く息を吸って、

 震えをすべて吐き出して、

 湧き上がってくる恐怖を唾と一緒に飲み込んで、



「……待たせた。今行くよ」



 錠前に、


 鍵を差し込んで、


 ぐるっと回した。






  ■ ■ ■

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