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Blank-Blanca[ブランクブランカ]  作者: 奥山柚惟
第7章 大人になるまで
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五者面談のその後

  ■ ■ ■






 背後から追手の気配を感じながら、白い廊下をひた走る。

 薄い検査着の中を風が通り抜けて気持ちがいい。頬を体を撫でる空気は、暖かくも冷たくもない、快適な温度を今日も保っている。


「捕まえたぞナダ! ……あれっ」

「はっはァとくと見ませい、ナダ様考案“躱し身の術”だ!」


 後ろからにゅっと突き出た白い腕を、跳んで宙回転して避けた。悔しそうなエリック兄さんの呻き声が聞こえて、おれは高笑いした。


 おれたちは今、鬼ごっこをしている。全身全霊全力の、厳つい警備員のおじさんたちも真っ青の真剣勝負である。

 鬼役に体を触られるまでひたすら逃げ走り、時には隠れ、欺き、また逃げる。触れたら今度は役を交代してまた走る――最初こそ目を剥いた警備員たちに追い回されたが、誰一人としておれもエリック兄さんも、捕まえるどころか服を掠めることも出来なかった。情けない、キース族の大人たちはもっとやり手だというのに。

 捕まえて部屋に戻すことを諦めたのか、警備員たちは今や鬼ごっこを微笑ましい目で見守ってくるようになった。何なら、


「おー、今日も元気だなー」


 ……などと声をかけてくる始末である。この調子で懐柔できれば、脱出の際にも役立つかもしれないとおれは思い始めている。


「どうする兄さん、もう少し奥へ行くか?」

「ふぅー……(いや)


 息を整える兄さんに尋ねると、首を振っておれの肩に手を置いてきた。


「今日はここまでだ。歩数と道筋は覚えとるな?」

「後で思い出せるから問題ない」

「重畳。なら――捕まえてみやがれェッ!」

「え? ……あーッ狡いぞ! 今の無しだろー!」


 兄さんがいきなり元来た道へと駆け出した。高笑いを残してぐんぐん速度を上げていく。

 遠ざかる背を全速で追いかけた。十八歳の兄さんは捕まる前、記録を管理する“司書院”に就いていたから、狩りで体を動かす狩猟班ほど体力があるわけではない。

 だがここ数日の追いかけっこと称した地形把握で、脚の速さと体力と勘を随分取り戻した。今ではぶつかりそうな研究員を、壁を蹴って避けられるくらいにまでなっている。

 ……それくらいおれもできる。そしてまだまだ、脚はおれの方が速い。


「うおっ、もう追いついてきたのか!」

「甘く見るなよこのおれを! 食らえ――あっ父さんだ」

「ジゼルさんだと!?」


 曲がり角から、研究員に挟まれて歩く父さんが現れた。

 兄さんがビタッと立ち止まった。急に立ち止まったので兄さんの背に顔がめり込んだ。


「エリック。あまり走ると危険ではないか」

「は、はい……」

「ナダも。研究員たちが嘆いとるぞ、ちと大人しくせんか」

「ごめんなさい……」

「謝る相手は父さんではなかろうて」

「……ごめんなさい、おじさん」


 おれが頭を下げると、研究員の二人は微妙な顔をした。エリック兄さんが噴き出した。


「ハァ……息子がすまない」


 何故か父さんも研究員たちに謝罪し、部屋に戻った。おれと兄さんも父さんを追いかけて部屋に入ると、背後ですうっと扉が閉まった。

 兄さんは肩を小刻みに揺らして笑いを堪えていた。


「ナダ……大人を“おじさん”と呼んではいかんだろう……ふくく」

「なら何と呼ぶんだ? あの人たちはお兄さんでもなかろうに」

「子どもは純真なだけに残酷なものだ、エリック。さて、今日も始めよう」


 父さんは部屋の隅の方に歩み寄った。壁に背をついて胡坐をつく■■■さんが父さんに気付いて、場所を開けた。

 座って隠れていた壁には作りかけの地図が記してある。研究員からこっそりくすねた針金で刻み込んでいるのだ。おれと兄さんで得た今日の結果が、ピカピカの白いタイルに刻まれていく。


「ふむ……まだ果てがないか。思ったよりも広いな」


 父さんが顎に手を当てて顔を曇らせていた。


「しかし憂いても詮なきこと。ナダ、エリック、次はこの辺りを頼めるか」

「了解」


 苦笑いで「くれぐれも怪我の無きようにな」と諭されてしまい、おれは小さい声で返事をした。






  □ □ □






 イコの父親との邂逅をどうにかやり過ごし、腹も膨れた俺たちは宿で休むことにした。


 宿の部屋にはチェスが置いてあった。疲れてしまったイコを先に寝かせて、ベイと二人ゲームに興じることとなった。

 しかしあっという間に大差がついた。手駒がほとんど潰えた俺とは対照に、ベイの白い軍勢は堂々と盤上でふんぞり返り、ネチネチと着実に黒い軍勢を追い詰めている。辛うじて残る駒たちを右往左往させて逃げ回っているが、敗走先は失われていくばかりだ。


「逃げるばっかじゃ何にも変わんねえぞ。ちったァ攻めてみろ」


 悔しいがたしかにベイの言う通り、虎穴に入らずんば何とやらだ。すこーし、すぐには取られないであろうマスに駒を置いた。ベイがニヤニヤと俺を見るのが腹立たしい。


「さすがは意気地なしの大将だ。戦略も女も逃げの一手か?」

「何の話だよ」

「イコ」


 ベッドの方を顎で指して、ベイは浅黒い指で駒を動かした。


「そろそろ腹決めねえと、互いにとって良くねえぞ」

「お前に言われると何も言えねえわ……」


 自分の黒い駒と、迫り来る白い駒とを見比べて、息をついた。


「俺さ、イコのこと分からなかったんだよ。何考えてるのか、どういうつもりで俺についてきたのか……別に俺のことが大好きってんでもねえだろ」

「へえ。気付いてたのか」

「まあな」


 迷いながら、端の方で待機させていた駒を内側へ。


「多分、イコも自分で分かってねえんだな。何でも白黒付けられるものじゃないし」


 ベイは黒い駒を倒さなかった。

 す、と白い駒の一つが後ろに退いた。


「自分に白黒付けられる奴なんてそういねえよ。お前らだけじゃねえ」

「でも今日、イコは自分で一つはっきりさせた。あいつは強いよ」


 俺との関係に、イコは今日一つの名前を付けた――イコも答えを探し始めた。

 その姿を見て、ようやく覚悟が決まった。自分の奥深くにある、核心に迫る扉へ手を伸ばす覚悟が。


 カコン、と白い駒が倒れた。黒い駒が追い詰めたのだ。


「やるな。んじゃ、こっからが本番と見ていいな?」

「ほ……“本番”ってなあに?」


 ククッと喉を震わせたベイが、浅黒い一手を打った。明らかに調子が違う。先ほどまでは俺に合わせていたというのか。


「ちょ、待て、待てよベイ、雑魚(おれ)相手に本気出すなって、大人気ねえぞ。俺がかわいそうだと思わねえの? ああー俺のビショップがァ……」

「悔しかったら取り返してみろバーカ」

「煽り方ガキかよ」

「バカを煽るにゃ十分だ」


 この野郎。

 ……と、カチンときた時点で俺はまんまと乗せられていたのである。あれよあれよという間に黒い駒はごっそり取られてしまい、残るはキング(大将)ナイト(騎士)、ベイの恩情で生き残ったポーン(兵士)が一つ。これでどう立ち回れというのか。

 かわいそうな黒いポーンの身の振り方を考えて、ふとある顔が浮かんできた。


「良かったのかよ。ジハルドあのまんまザッケスといさせて」


 斜め後ろに一歩、キングを引かせた。危ない、クイーンに食われるところだった。

 ベイは小さく肩を竦めて、黒ポーンを白ビショップで倒した。


「仕方ねえさ。今はお前らの方が優先だ。同時にいくつも抱えられるほど器用じゃねえ」

「いや器用だろ。ほら、黒が全然いなくなってる」

「お前の戦略がガバガバなんだろうが。ほら、残りはキング、テメエだけンなったぜ」

「くっそ……降参」


 諸手を上げて見せると、ベイは浅黒い顔をニヤッと歪ませた。

 悔しい。が、軍師の一面も併せ持つこの男にチェスで叶うなど、そもそもありえないことだったのだ。


「……ジハルドは」


 おもむろに発せられたベイの声に、チェス盤を片付ける手を止めた。


「あいつだけはせめて、楽に死なせてやりてえ」

「……うん」

「最期を迎える前の、ささやかな自由時間ってんだろ、あれは。そういう意味じゃ……ザッケスにゃ少しばかり感謝してる」

「ザッケスが連れ出したのかな」

「どうだろうな。たまたま合流したのかもしれねえし……ミズリルたちはあの男が裏で糸を引いてたのかもしれねえ」

「関わってたのは確かだろうな。けどあの男はガラクトでの出来事の黒幕じゃあない」

「確証は?」


 ケースの中に、最後に残っていた白いキングを放り込んだ。


「だってあいつ――」


 頭痛がする。フラッシュバックが襲い来る。記憶の扉が開いていく確かな気配を感じながら、イコの隣で布団をかぶった。


「自分が中心になって物事を動かすなんて、そんな勇気ないからさ」






 ――白かった壁が黒焦げて、床には人間の形をした炭がいくつも転がって煙を上げる。

 その様を、黒髪に眼鏡をかけた男が、喉を引きつらせて見ていた。


 ()()を見る目が、“哀れな子ども”から“危険な被験体”に変わった瞬間。






  + + +






 三日後、山間の町から西へ少し逸れた山道。


 ザッケスはワゴン車に揺られて顔を青くしていた。

 乗り心地は最悪だ。逃げられないように両隣は厳つい男たちに挟まれ、腹はシートベルトできつく絞められている。


「何度脱走すれば気が済むんですか。ホント、出来がいいのは脳みそだけですよね、ザッケス博士は」

「……ッ」

「あ、吐きます? ゲロってもいいですよ。ただそこのガードたち、掃除任せると()()まで綺麗に片付けちゃうんで、一応袋に吐くのをお勧めしときますよ」


 ザッケスの前方、助手席から()()の女性がそばかすの浮く顔だけ出してきた。エチケット袋を差し出してくるだけ、今日の彼女は機嫌がいい方だ。


「大人しくオホロ検体の研究しとけばいいのに。娘ちゃんが行方不明になった途端に自由行動するようになりましたよねー。ちょっと怖いもの知らず過ぎません? そろそろ痛い目遭っときます?」

「…………」

「しっかしこの車、マジ揺れすぎ。博士じゃなくても酔いますわ。おーいデカブツ。博士の連れてたオホロ三九番、ちゃんと生きてんだろうな?」

「生きてはいます」

「『生きて()』じゃないよ。死なせないでよね。オホロ検体は軒並み不出来だから、最後に残ったそいつだけが頼りなんだ。好き勝手やってくれたよねー博士、これだけやらかしといてお咎めナシってのも不思議だよね?」


 同僚は鼻を鳴らして、再び前を向いた。プレッシャーが和らいだことにザッケスが小さく安堵すると、その様子を見逃さなかったのだろう、再びぐるんと振り向いてそばかす顔が近づいてきた。


「ちょっとぉ、今の状況分かってますー? そろそろ何か持ち帰ってくれないと、あたしのナントカ袋の紐がぶっつりいきますよ? そうそう、最近あたし主任に超褒められて、今度何でも一つおねだりしてもいいって言われてたんだった。ザッケス博士の身柄、おねだりしちゃおうかなー」

「…………」

「もしかして吐き気止まっちゃいました? あたし、博士のゲロお手伝いしてもいいですよ。博士のいいとこ見てみたいッ、なーんて」


 赤毛の前髪の間から、鳶色の双眸が刃物のような鋭さを放った。

 その凶暴さにザッケスは負けた。目を伏せて口を開いた瞬間、大きな揺れが車を襲い、舌を噛んでしまった。だが彼女の前にそんな痛みなど、何ということはない。


「やッ……山間の、ま、町で……」

「うんうん」

「キースの……五番に、あ、会ったよ……」

「――へえ?」


 鳶色に新たな光が射した。その光に、やはりザッケスは身を竦ませた。


「話したんですか?」

「う、うん……」

「それで? どんな様子でした? 元気でした? 元気だといいなあ、あの子かわいくて一番生きのいいヤツだったから。ねえ今どこにいるんです? もちろん居場所掴んでるんですよね?」

「みッ……南へ、逃げると……」


 身を仰け反らせてザッケスは声を裏返した。同僚の女性は今や身を乗り出して、顔をぐいぐい近づけてザッケスを追い詰めていた。


「南。何故?」

「ち、治安が悪いから……無法地帯へ政府は寄り付かないって……」

「ふうん。考えたじゃん。たしかに南部とか東部って、育ちのいい人間が出入りすると結構目立つからね。案外頭回るタイプ? やるじゃん、さすが主任が目ェつけただけあるわ。でも、こっちにだっていくらでも手札はあるからね。情報サンキュ、博士」

「れ、礼はいいから、戻って……くれないか。怪我をしてしまう……」


 愉しげに笑って女性は体を助手席に戻した。赤毛がシートの向こうに消えていった。


「ほんっと、博士って意気地なし」


 けらけらと笑い転げる声から逃げるように、ザッケスは黒い目を閉じた。胃が今にもひっくり返りそうな心地がする。


(これでよかったんだ。僕は最善を尽くした)


 背後の後部座席で、ごぽごぽと排水口が詰まったような音がする。

 ジハルドが血を吐いているのだ。施設に辿り着きさえすれば、彼は手厚いケアを受けることが出来る。僅かながらでも延命が叶う。それが果たして本当にジハルドにとって良いことなのかなど、考えるだけの余裕をザッケスは残していなかった。

 閉じた瞼に力を籠めた。視界が白んだ。その一瞬の白の中に、白い男の影を望みながら、ザッケスは胸の内で必死に祈り縋った。


(早く僕らを助けてくれ……お願いだ、ジゼル)

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