人物相関めんどくさい
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頭の奥に泥が詰まったかのように、意識がハッキリしない。
無理やり目を開けた。何が見えているのか認識するまでに、少し時間がかかった。
白い床。白化しきっていない自分の腕が、その上に放り出されている。感触はまだ分からない。ここで初めて、体の感覚が鈍いことに気が付く。
目を瞬いた。指先まで明瞭に捉えられた。その先に誰かいる、薄緑色のおかしな服を身につけた人。もう一度瞬けば、それが母さんだと分かった。あんなに薄い服でさぞ寒かろうと案じた後で、おれもまったく同じ服を着ていると知った。
体中の神経に動け動けと叱咤しながら起き上がった。どうも世界に自分が置いて行かれた感じがする、まだ感覚が遠い。それは多分、視界が写し取った空間のせいでもあった。
真っ白な部屋の中で、おれは目覚めた。
ここはキース族のいた場所ではない。どこか別の、もしかするととてつもなく遠い場所へ連れ去られてきたのだと、母さんたちの沈んだ表情を見て察したのだった。
最初、丸いたわしのようなものを差し入れられた。
白い羽織を着た、しっかりと色素の残る大人が言うには、「パン」という食べ物らしい。
きつね色にこんがり焼けて、ほくほくと湯気が立っている。言われてみれば確かに香ばしい匂いもする。恐るおそる持ち上げてみると、それはとても軽かった。こんなスカスカした食べ物を口にしたところで、果たして腹は膨れるのだろうか。
と首を傾げていると、今度はスープが運ばれてきた。口内で唾液がじゅるりと溢れた。具材はよく知らない、見たことはないが、何かの葉物や立方体に切られた朱色や透明の具、更にスープという“知っている食べ物”だという事実に、食欲が湧くのを止められなかった。
「……どくが入っているかもしれんから……食わん。食わんぞ。早うあっち行け」
「分かるぞナダ。俺も食いたい。なんせ腹は減っとるからな……」
唾が止まらない。
腹の音も鳴り止まない。
「卑怯だぞ。貴様らこんな手を使いおって、俺たちがそう易々と……ッぬぅああ、腹が鳴るぅ……」
「そんな、エリック兄さんまで……なんというヒレツな罠だッ……」
「いやいやいや、毒なんて入れてないよ」
おれとエリック兄さんがキュッと口を閉じていると、黒い髪をした白服が困ったように眉尻を下げてきた。その眉すらも、おれたちとは違って黒い毛をしている。
「じゃあ僕が毒見するので。――ゴクン。ほら、何ともな……」
「遅効性の毒物かもしれん、あと三十分様子を見るぞ」
「入ってません! 本当です! そんなに待ってたら冷めますから!」
父さんは警戒心高く渋っていたが、おれと兄さんはもう耐えられたものではなく、がばっと皿を持ち上げて飲み干した。匙など使っていられない、とにかく空腹だったのだ。
皿を置いて、兄さんと顔を合わせて頷いた。
「しょっぱいな!」
「……分かった、次はもう少し薄味にするよう手配するよ……」
□ □ □
狼との取り決め通り、ガナンたちと別れた次の日に山を越えた。
途中までは車で山道を行き、緩やかな川べりに停めてそこに置いて行くことにした。不法投棄の片棒を担ぐ結果になってしまったが、正規の手続きを踏むと俺たちの足取りを辿られかねない。
イコはしばらくの間車体を撫でて別れを惜しんだ。俺もベイも声を掛けなかった。待っている俺たちにイコが気を遣わないよう、ベイは周囲の警戒を、俺は川で魚獲りに勤しんでいた。おかげでその日の夕食の確保も叶った。
次の人里へはもう一つ山を越えて行かなければならなかったが、イコはよく頑張ったものだと思う。弱音を吐きながらも歩き続け、寝る前のベイのストレッチにも堪え、よく食べよく眠り、次第に膝に手をつく間隔が広がっていった。
その甲斐あって、車を捨てた二日後の夕方、町に着いた。
「おーいイコ、あんまり調子に乗ると明日の筋肉痛酷いぞ」
「だってお腹減ったんだよ、早くお店行こうぜ」
宿でシャワーを先に済ませ、小ざっぱりした心地で町を歩く。財布だけをポケットに突っ込んでいるから、大荷物から解放された体が軽い。イコなどはスキップまでしているが、ここ最近の絶叫を聞いている身からするとハラハラしてしまう。
今は融けているようだが、先日初雪が降った町からは冬の匂いがする。街路樹はすっかり葉を落とし、冬に備えて静かに息を潜めている。
「店、どうしようか。案内所で貰ったパンフレット見せてよ」
「ファストフードじゃ足りねえな。しっかり食えるところがいい。ここは? 静かで落ち着いた店らしいから、俺みたいな白いのがいても浮かなさそう」
「ナダ……お前自分の腹分かってねえな。こんな店じゃ足りねえだろうが。こっちがいいだろ」
ベイはあるマークを指さした。俺も昔バイトをしたことがある、ファミリーレストランのマークである。パンやサラダ、それにスープがおかわり自由の、最強のコスパを誇る店だ。
「これ、チェーン系列のファミレスだろ。こっちにしとかねえと持ち金が尽きるぜ」
「よっしゃ決まりだね。あいたたたァ筋肉痛ーッ」
「調子乗るからだ。寝る前に体ほぐせばいい、手伝うぜ」
「ええーベイのストレッチ超痛いんだけど。いじめだよあんなの――」
「……“イコ”?」
すれ違った男性が突然、イコの名に反応した。
俺たちは思わず立ち止まった。振り返ると、その男は被っていたフードを取り払うところだった。
手入れのされていない、白いものの混じった黒髪。黒縁の四角い眼鏡はずり落ちかけ、誰かに似ている口元を驚愕にパクパクさせている。
――心臓がどくりと嫌な音を立てた。
イコが温度を無くした声で口にした。
「…………お父ちゃん……」
ザッケス博士。
キース族の五人を捕らえていた施設で研究者を務めていた男であり、イコの実の父親でもある。
そろそろとイコに視線を移すと、イコは父親をただただ、薄茶色の目で凝視していた――と思ったら、突然イコが動いた。
隣に立つ俺のズボンからナイフを引き抜いて、切っ先を真っ直ぐザッケスに向けたのだ。
「イ……イコ、待つんだ、話せば分かる……」
「待てって? 待ったよお父ちゃん、わたしはずっとこの時を待ってたんだよ。八年も。やっと会えた、やっと」
イコの声は常より低く抑えられて、低音に喉が震えている。目に浮かぶのは明確な殺意だった。ベイが時折見せたような、冷たく残酷な、向けられた者を竦ませる強烈な意思が、視線のみならず構えたナイフにまで伝播している。
ああ、本気だ。
イコは本気で父親を殺したいと望んでいる。
二人間に割って入ろうとした時、ぞくりと嫌な気配が背筋を上った。振り返って目を瞠る。ザッケスの背後から鋭い視線を飛ばしてくるのは、浅黒い肌の長身の男。
「なッ……ジハルド!?」
「“白い少年”だァ。ヒヒ……」
浅黒い手足をぶら下げる男は見間違いようもない。ジハルドだ。
ザッケスと関わっているのはガラクトで掴んでいたが、まさか同時に二人とも俺たちの前に現れるとは……!
俺は動けなくなった。三つ巴なんて生易しいものじゃない。
(これ……かなりまずい状況だよな?)
ザッケスは俺ともイコとも良好な関係とは言えず、ベイのかつての仲間・ジハルドも、ついこの前やり合ったばかり。
これだけで十分ヤヤコシイ。人物相関図がぐちゃぐちゃだ。更に言うと俺は娘をあてのない旅に連れ回している張本人で、何度も危険な目に遭わせているから、“父親”にとっての心象は最悪。ここでザッケスに殺されても文句は言えない。言える立場ではない。
……なんて考えている場合じゃねえ、この事態を何とかしなくては――!
「イコ、イコ。ちょっとストップ」
「なに。部外者は黙っててくんない?」
「家族の問題に頭突っ込む気はねえけどよ。お前今、そのナイフどこから出したよ」
ここで一つお断り。
俺は、今、非常に、パニクっている。
「……今それ大して重要じゃないよね」
ごもっともです。俺もそう思う。誰でもいいからもっとマシな引き留め方をご教授願いたいところだ。
しかし一度パニックに任せてしまった以上引っ込みがつかず、俺は恥ずかしいことに通りのど真ん中で声を裏返した。
「めちゃくちゃ重要だアホ! 俺のズボンから引っこ抜いたでしょ!」
「えーだってぇ、ナダがそこにナイフ仕舞ってるの知ってるから……」
「男の服ン中に手ェ突っ込むんじゃねえよアホ! ハイ没収、返してくださいそれ。どうしてお前にそんな注意しなきゃなんないの? 俺はイコの母さんか?」
「お母さんみたいなものじゃん」
「それを父親の目の前で言ってやるなって。複雑だろ俺が……ぎゃあ! ジハルドいつの間にッ」
「ヒヒ、よォ少年、ヒャハハハ……」
「こっち来んなって。お前そんな気持ち悪くなかったろ!」
不気味に壊れた笑いと共にジハルドが近寄って来て、思わず後ずさったその時。
――ガシャコン、ジャキッ!
「大通りのど真ん中でぎゃあぎゃあ喚くんじゃねえ。再会ぐらい穏やかにできねえのか、お前らは」
一度は解けた緊張が、別の緊張に強張った。
四人でゆっくりとそちらを振り返ると、ベイが銃を手に凄んでいた。目元に影が差して険悪だ、人殺しの顔だ、そして今の音は弾を込める音だ、奴がその気になれば俺たち四人全員コンマ数秒以内に死体に変わる。
口を閉ざした俺たちを見てベイは顎で通りの先を指した。
「大人らしく平和的に解決しようぜ。場所はこの先のファミレス。こっちは歩き通しで腹ァ減ってんだよ。異論はねえな?」
「「「「ありません」」」」
「物分かりが良くて助かる。さっさと行くぞ」
あのジハルドまでもがギクシャクと長い手足を動かしている。
……そうだった、ベイは吹っ切れるとこうなる人だった。今度こそ肝に銘じようと、ストライキ事件を思い返しながら俺は思ったのだった。




