小児科チェンの憂鬱
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ワイユ孤児院の地下には小児科が併設されている。元は遺体安置所だったこの場所を、何代か前の院長が改修した──と、記録に残っている。そのためか時折、“何か”を目にする子どもも少なくはない。
当代の小児科医チェンは視える体質ではないし、その類を信じてもいない。ゆえに噂を気にすることもなく、今日も地下室の吸血鬼の如く、診察室兼私室に引き籠って、久々に友人と連絡を取っていた。
「お前さァ、バカじゃねえの? おれやザッケスさんがどうなったか見てたよね? 今からでも遅くねえから知らんぷりして耳塞いどけって。村で唯一の町医者なんだろ、お前みてえな奴でも欠けたら困るんじゃねえの?」
通信機に向かって眠気の混じる声で捲し立てる。
「アレン、悪いこたァ言わねえ。ベルゲニウムはマジでやめとけ。くそみてえにめんどくせーから」
『そうは言ってもなー。もう手ェ貸しちゃったし、こんな山奥の村まで消しに来るとも思えないんだよ。そんなことしようもんならまず、村のじいさんばあさん連中にコンバインだのトラクターだので潰されるだろうよ。物理的に』
「医者要らねえだろその村」
『あははァ。要るんだなあ、それが。彼らマジもんの生涯現役だものさ」
通信の相手・アレンは、チェンの大学時代の学友。ワイユ孤児院で育った孤児という出自でありながら、医学部へ飛び級進学してきたチェンを、偏見の目なしに付き合ってくれた数少ない人間だ。卒業後は大きな病院で経験を積み、現在は大陸北方の僻地で町医者をやっている。
性格が災いして友人の少ないチェンは、久々の空き時間を仮眠には当てず、関係を保てているほぼ唯一の医者仲間を引き留めているのだった。「ベルゲニウムに関わることになったから、たまに助言くれ」とのメールを見て、チェンが顔色を真っ青にしたのは言うまでもない。
『ザッケスさんの博士論文手伝ってたんなら詳しいだろ? 発表されなくて残念だったな、あれ。かなり革新的な内容だったのに』
「だから公表させなかったんだよ。共同研究したおれまで引きずり込んで、家族囲って従わせるようなクズだぞ、エイモス社は」
『僕が関わるのはエイモス社じゃない。別口だ。相手にとって僕は利用価値が高い。ベルゲニウムの知識はこれからだが、一応は医者だし、村人からの信頼も厚いからパイプ役にもなる。彼らが僕を消すことはまずないだろう』
決して軽重な考えからそう言ってはいないと、チェンは眠い頭で考えた。エイモス社ではないというのも一つの安心材料だった。
だが懸念を綺麗サッパリ払拭するには足りない。チェンが研究から身を引けたのは、家族や友人がいないというのが良い方向に働き、人の手を借りることが出来たためだ。結局はその恩を利用され、未だにベルゲニウムと関係し続ける羽目になったのだが。
きっとアレンも自分と同じように、いいように利用されるに決まっている。チェンは自らの経験からそう断言できる。
「そーやって高ァ括ってっと、背後からズドンか、飲み物に何か混ぜられるかするぜ」
『心配してくれてありがとさん。不摂生はほどほどにしとけよ。また連絡する』
通信機の電源を切って机に放り投げ、チェンは椅子の背もたれに身を預けて天井を仰いだ。
遠方にいる友人を止めに行くことは叶わない。ここワイユは北大陸の南側に位置し、逆にアレンのいる村はずっとずっと北の方だと聞いている。そこへ向かうまでに一体何か月かかるだろうか。
(……ナダ、あいつ今どこにいんだろう)
孤児院の安全を確保してほしいと、ナダは桐生に一度も連絡を寄越していない。それが何よりの便りではあるのだが、今この瞬間、エイモス社の連中に捕まり利用されているとも限らない。
いや、既にナダは利用されている。チェンがエイモス社から離脱する時に手助けしてくれた、あの老人に。
ふと部屋のブザーが鳴り響いて、思考が断ち切られた。外来患者を知らせる呼び鈴だ。
面倒そうに長くため息をつき、チェンは診察室の引き戸を開けた。
チェンは激怒した。
必ず、この食えない老獪に一言言ってやらねば気がすまないと怒り心頭だった。
そもそも“孤児院専属小児科医”という、本当に存在するのかも怪しい肩書のチェンだが、そんな彼でも時には外来診療や往診をこなすことはある。
しかしこれは話が違うと、チェンは目の前の外来患者に対して腹を立てているのだった。
「あのなァじいさん。こういう時はかかりつけ医から紹介状と診療カルテ貰ってくるもんだよ普通。事前連絡だけで足りるわけねえだろ、あんたみたいなクソ重てえ爆弾抱えてる奴にゃ常識だろうが! 今回だけァ診てやる、けど次はねえかんな!」
ひとしきり吠えた後、チェンはふと声を落として付け加えた。
「……まあ、“次”があればの話だけどさ」
かつてチェンのエイモス社からの逃走を手伝った老人――ガヴェルは、痩せこけた頬をにこりと緩ませた。
眼窩は落ちくぼみ、顔色も死人のそれと大差ないほどに青白い。だというのに、上品なツイードのジャケットを着込んだ彼は丸椅子の上でしゃんと背筋を伸ばして座っている。
「私はどれだけ先があるだろうか」
「あんたが息して座って喋ってんのが、正直おれァ不思議でならねえよ。長年診てきた偉い医者だって匙投げてンだろ? 家族とでもゆっくり過ごせって家に送り返すような段階」
「それはつまり、私の気力次第ということかな」
「どうやったらそういう解釈ンなるかね……」
検査結果のシートを見比べながら、チェンは深いため息をついた。突然一報があったかと思えば、一週間後には現れ、診てくれという。末期状態の体でよくここまで来たものだと、チェンは怒りを通り越して呆れていた。
「大陸西側とかの都会にあるようなでけえ病院なら終末医療勧めるところだが、ご覧の通りウチにゃあそんな大層な設備はねえ。あんた自身、それを求めてわざわざ来たんじゃねえんだろ」
「最期にいろいろと布石を打っておきたくてね。ここで命尽きた後も、世界が正しい形で在り続けられるように」
「ったくよぉ……マジでそれで通ってきてんだからなあ」
事実、今すぐ目の前で事切れても何ら不思議はないとチェンは思っている。尽くせる手もない。医者に出来ることは、投薬で苦痛をある程度和らげることくらいなもの。
そしてそれは一番ガヴェルが分かっていることだとも、チェンは感じていた。
「マジで何しに来たんだよ。おれンとこまで挨拶回りに来なくていいだろ」
「キース族のことで今後君も巻き込まれるかもしれないのだ。挨拶に来たのは君ではない――ここの施設長、桐生殿だ」
ちょうど重たいスライドドアが開き、入ってきた大男に向かってガヴェルは微笑みかけた。
「お初にお目にかかります。ナダが世話になりましたな」
「あんたのガキじゃねえだろ、じいさん。俺ァテメエの企みに子ども使う輩が世界一嫌いでよ、悪いがあんたの印象は最悪だ」
「だからこそ貴方のような人は信用が置けるというもの。ナダをこちらへ送り届けた理由の一つがそれだ。ここは適度に治安が悪く、黒幕の目も届かず、私がかつて救った医者が身を置く場所……ナダを芯の強い子に育てて頂いたこと、感謝しています」
すう、と桐生の眼が細められた。
「感謝してんなら、これ以上あの子を巻き込むんじゃねえ。俺らは生贄の羊を育てた覚えはねえぞ」
「いいや、犠牲にするよ。子どもだろうと、たった数人の未来であろうと、引き換えに世界を正しく導く線を引けるのなら。葬られた研究の産物、その末裔が埋もれている限り……三百年前の空白をきちんと埋めて整理しなければ、この世界はいつまで経っても前に進めんのだ」
「待て……おいじいさん、テメエ何言ってんだ」
「桐生よせ! 病人だぞ!」
チェンの制止を聞かず、桐生はガヴェルの胸倉を掴んで引き寄せた。
青い顔で。
「研究の産物の……末裔っつったか? キース族とかいう奴らの話だよな。事故で見捨てられた民の末裔じゃねえのか? チェン、お前何とか言え、何を知ってる!?」
「知らねえよ! そんなのおれだって初耳だ、本当だって!」
「――知る者は、私の他に限られている」
老人が静かに発した。
「話を聞いてくださいますな、桐生殿。私が果てた後の布石の一つを、貴方に託そうと思う」
やつれたガヴェルの顔に、二つの強い意志の光が灯っていた。
死ぬ瞬間までこの灯は消えないのだろうとチェンは思った。いや、この灯が消えた時が、命尽きる時なのか。一体どちらが先なのか、ガヴェル自身が自らの賭けに出ている気すら起きてくる。
(なんであんたはそこまで体張ってんだよ)
この話を聞けば……少しは、その理由も分かるのだろうか。
チェンと、すっかり気圧された桐生は、じっと老人の語りに耳を傾けるのだった。




