記憶――悲しいこと②
■ ■ ■
「ナダってさ、ナダを捕まえてた奴らのこと、恨んだりはしないわけ?」
これは俺の出自をイコに話した日だ。
何度か飯屋へ連れて行かれて、たしか五度目くらい、夜勤明けにファミレスのモーニングを二人で食べた時だ。朝日の色に春が混じり始めた、二月の中頃。
俺はハムエッグのサンドイッチとウインナーマフィンと、それにサラダとスープのバーをオプションで付けて腹を満たしているところだった。
窓から射し込む夜明けの光が俺に直に当たっていて眩しくて、少しイコが恨めしかったのを覚えている。自分が日陰に座れる席をわざわざ選び、得意げにデザートのパフェを食べていたからだ。
その日陰から、薄茶の鋭利な目線が俺を見上げていた。真剣な話をする時の目だった。
「別に恨んでないよ」
「なんで? そいつらのおかげでナダの人生メチャクチャじゃん」
「……たしかに」
不思議だった。イコにそう指摘されるまで、俺の中に“恨む”などという単語がなかったことに。
自分の境遇が不幸というか、巡り合わせがよくないとは思っていた。ただそれは生きていくために乗り越えるべき壁が多いというだけで、人生が大変なのは人類皆同じだという考えだったから、「不幸の原因を恨む」ところまで行きつかなかったのだ。
俺は驚いた。まさに青天の霹靂というやつだった。サラダを飲み込んで目を見開いた。
「そうだよな。考えてみりゃその通りだ」
「ナダってもしかして鈍い人? まあ、本気で怒ったりしたことなさそうだよね」
この時のイコはそう言ったが、俺とて腹は立つ。現にガラクトでは腹の底から怒った。
ミズリルたちを殺すしかないと信じ込んでいるベイに。
ミズリルたちをあんな風にしてしまった誰かに。
彼らに対する救いの手だてを持っていない自分に。
だが、研究施設にいた顔ぶれを思い出しても、胸が苦しくなることはあっても怒りは沸いてこない。そのことに当の俺自身が首を傾げながらイコに返すと、イコはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「ふうん。お人好しだなあ。ナダは毎日そうやってあくせく働いて、過労死しそうなくらい働いて、ギリギリの生活して、しかも隠れながら暮らしてるってのに、ナダを痛めつけた奴らはのうのうと生きてるんだよ。ちょっとは腹立てろよな。自分のことでしょうが」
「ううん……何だろう、俺もおかしいと思うんだけどさ、あそこで研究員やってた人たちが生きてると思うと……ホッとする」
突然、ファミレスの景色がぐにゃりと歪んだ。
イコの顔は消え失せて、視界が正常に戻ったところには研究施設の白い廊下が取って代わっていた。
どこまでも続く廊下に、幼い俺が一人。
白い一本道を照らす赤い回転灯。
非常事態を告げるアラート音。
ここへ至るまでの記憶がない。いいや思い返すのは後だ、先ずは逃げろ、背を向けて逃げ走るのがおれの役目。そう諭されたではないか。
(おれ一人ならば逃げられる。生きられる)
言い聞かせられた言葉を口内でブツブツと繰り返す。だが一向に足を動かすことができない。
だって、背後にはまだ父さんが、母さんが──あの状態の二人を兄さんが一手に引き受けるなど無謀極まりないと、馬鹿のおれにもよくわかる。
回れ右をして出口とは反対の方へ走った。息せき切って走るから、血を含む唾を吸い込んで肺が痛かった。とにかく体中が痛くて痛くて堪らない。自分で打ちつけた傷に加えて、内側からせり上がってくる何かがはらわたを、骨を、筋肉を、炎がチロチロと舐めるが如く炙るのだ。
「母さん!」
叫ぶと肺が悲鳴を上げた。構うものか。
「母さん! 父さん! 早う、逃げてくれ!」
逃げねばアレに巻き込まれる。
限界を迎えた二人は、いくら大人といえど耐え切れまい──。
(……? あれ、終わりか?)
ここでふっつりと景色が途切れてしまった。
訝しんでいると、再び研究施設の景色が飛び込んできた。だが何か様子が違う。
小さなおれも立ち止まっていた。今しがたの記憶と連なる時系列なのか、そうでないのか、まるで判断がつかない。それほどに異様な光景。
白い部屋だということに変わりはない。
だが天井がやたらと高かった。部屋の至るところに空いた穴からパイプやら管やらが這い出て、部屋の中央で一つに収束してそれに吸い込まれている。
巨大な黒い──箱? 部屋? 正四面体がどっかりと部屋の中心に鎮座していた。
(何だこれ……俺、こんなもの見たことあったか……?)
記憶の中だというのに、どっと冷や汗が出てきた。
何故だ、どうしてこんなにも恐ろしいのだろう。実体のない心臓辺りを押さえて浅く息を吐き、唇をわななかせた。
この黒い箱は嫌だ。そうだ、触れてみるとヒヤリと冷たく硬質だったと記憶している。覚えている。思い出した。
だが、普通一般の金属とは違って、すべてを……光をも吸収すまいと拒絶しているような感触だった。この世にこれほど自分を拒む物体があるのかというほど。
唾を飲み込んだ瞬間、再び視界が歪みファミレスが戻ってきた。
何が何だか分からない。思い出す順番があるという話だが、これではすべて記憶を取り戻す前に俺の頭がついて行けなくなる。
「それにさ」
記憶の中の俺は言う。さっきの続きだ。
「あそこで働いてた人たちは仕事だからそうしていたんだ。自分と家族の食い扶持のためだとか、もしかしたら中には脅されていた人もいたんだろうし……だから責められないよ。もし俺が彼らの立場だったら分からないだろ」
「自分の親をどうされたかも分からないのに、そんなこと言えるんだ?」
「なに、お前は俺に恨ませたいわけ? こんなこと言うのはおかしいけど、あの人たちを恨もうが恨むまいが俺の勝手だろ」
今度は頬杖をついていたイコが目を丸くした。
自分の目の前に置かれている食べかけのパフェに視線を落として、スプーンで一口すくって食べた。そしてへらりと笑った。
「ホントだ。わたし関係ないじゃんね」
(……結局、関係はあったわけだけれど)
イコがこういう笑い方をする時は、決まって何かを隠したい時だ。俺の話を聞いて、自分の父親がこの件に関わっていたと察したのだろう。
そう、俺たちが出会わなくても、イコは既に“キース族”という闇に食い込んでいたわけだ。父親から何か重要なものを預かって、それを解く手がかりをずっと探して……。
ああ嫌だ。これ以上考えたくない。
見えないフリをして、今まで通りの関係でいたい。
いいや駄目だ。
見据えろ。ちゃんと見ろ。ちゃんと考えろ。
細いワイヤーで心臓を締め付けられているようだ。真綿で首を自ら締めるような、そんな行為だ、これは。なるほど闇深いはずだ。
イコの母親が事故を装って殺されたのは、とどのつまり見せしめだ。ベルゲニウム研究に乗り気でなかったイコの父親ザッケスへの、見せしめだ。大方「次は娘だ」とでも脅されたのだろう。せめてもの抵抗に、ガヴェルの手を借りイコにメモリを渡し、家族から離れたのだろう。
俺はイコにとって仇だ。
間接的なものだったとしても、被害者にとってそんなことはどうでもいい。俺が──俺たちが捕まりさえしなければ、ザッケスが無理に協力させられることはなかった。イコの母親が死ぬことはなかった。
何より、それを知りながら俺を飯に誘い、弱い俺を励まし、冗談を飛ばしたり一緒にふざけたり、果ては「カレシ」などと揶揄していたのだ。
(アリカさん、やっぱり俺は違うよ)
イコの叔母アリカさんも知っていたはずだ。イコからすべて伝え聞いた上で、俺を「カレシくん」と呼んでくれた。姪っ子を俺に頼んでくれた。
だが俺ではイコの傷にしかならないのではないか。俺を“仇”と見るか“友人”と見るか、その間で苦しみやしないか。
俺からこの話をするわけにはいかない。
それは「友人であり続けたい」という俺の身勝手だ。イコがこの関係にきちんと名前をつけたいと願う、その時を待つべきだ。いずれ得るそれがたとえどんな形でも、俺は受け入れよう。これは元々持ってはいけなかった関係、存在なのだから。
『そろそろ潮時だ』
“おれ”が目の前に現れた。
前とは違って、“おれ”はもう検査着を着ていなかった。からし色の古びたパーカーを着ている。孤児院で最初に与えられた、誰かのお下がりの服だと気がつく。
『案ずるな。あの時とは違って誰も死んでおらん』
「そうか。そりゃ安心した」
暗闇で座っていた俺は立ちあがる。やはり前よりも“おれ”の背が伸びているな、と思った。
「……俺、死ぬか?」
言葉がポロリと転がり出た。大きな暴走一つ起こして死ぬ者もあれば、小規模のものを数回繰り返した果てに命が尽きる者もある。そこは人によるのだ。
俺はどうなのだろう。まだ十八歳の俺が、この歳で暴走を起こした原因とは何なのだろう。もう寿命が近いのだろうか。
一方“おれ”は実に冷めた顔で小首を傾げていた。
『さてな』
「お前さあ……俺の一部っつーか、半分だろ。俺の死はそのまんまお前の死でもあるんだぞ。無頓着すぎねえ?」
『ここで自分同士語ろうたところで、結論は出まい。そうだろう?』
「お前ホントに俺……?」
『ヒントを一つやろう。おれはお前がこれまでに切り捨ててきたもので出来ている。同じ人物であって、同時に対極の存在なのだ』
「難しいことを言うなあ」
『そこもお前と対極だ』
何だコイツ。俺のくせにムカつくぞ。
「ハァ……まあ、そろそろ戻るよ。暴走のこと、何とかしてくれてサンキューな」
目を閉じる。手足の感覚が俺のものになっていく。
目覚めた時、俺はどうなっているだろうか。五体満足というわけにもいくまいが、ある程度体の自由があるといい。
意識が完全に溶けきる寸前、“おれ”の顔がくしゃりと泣きそうに歪んだ。
『早くしてくれよ。いつまでも保ってはおれんのだ』
「!? は、ちょ……おい!」
□ □ □
「待てって……ッ、ゲホッ」
声を出すと、乾いて張りついた喉の粘膜にむせて咳き込んでしまった。
堪らず起き上がるも激痛が全身を走り、すぐまた寝転んだ。息をするというのはこんなにもエネルギーを使うものだったか。
痛みを感じた途端、涙が溢れてきた。両腕を顔へ持っていくと、薄っぺらい薄緑色の袖が涙を吸い取った。静かに嗚咽を上げるも、カラカラの喉が呼吸を邪魔して苦しい。
体の痛みよりも、戻ってきた記憶が確かに現実なのだということが、一番苦しい。
「目ェ覚めたか。ほら水」
ぶっきらぼうな声がして、ゆっくりと抱き起こされた。差し出された紙コップの中身を一気に空けた。おかわりは自分で水を出して注いだ。
二、三杯も飲み干せば、幾らか落ち着きを取り戻して周囲に目を向けられるようになった。どこかの病室のようだ。夜のようだが月がとても明るいため、視界に困らない。シーツが青白く光を反射している。
そのシーツを握りしめた。うまく力が入らなかったが、右肘の内側がチクリと痛むのを感じた。点滴が刺さっていた。
「くっそ……何だこれ、思った以上に……キッツイ……」
「だいぶ大丈夫じゃなさそうだな」
「……でも、いつかは見るべきものだった。今だから見定められるんだ」
そして最後に“おれ”が見せた表情も気になる。『早くしてくれ』と言っていた。時間がないということだろうか。
だがあれでまだ薄暗がりだという話でもある。悠長にしていられないとはいえ……道のりの険しさを思うと、ため息を禁じ得ない。
「悪い。見苦しいところを見せた」
「何ともねえよ。ここはハポネラ郊外にある病院だ。俺が働きかけて、治療と個室をあてがって貰ってる。感謝しろ」
「……ありがと。助かった……手、かけさせたな」
「まったくだ。後でメシおごれ」
ここで「メシおごれ」という一言が出る辺り、この男も随分俺たちに馴染んだものだと思う。
「あれから何日経ってる?」
「ざっと一週間。十日……までは経ってねえか。悪い、立て込んでたもんで曖昧だ」
「立て込んで? 何があった」
ベイはパイプ製の丸椅子を持ってきて、腰を下ろしてしばらく言葉を探した。ベイにしては時間がかかっている。手持ち無沙汰を紛らわすため紙コップにもう一度水を注いで飲み干すと、ようやく野太い声が発せられた。
「悪い話とそこそこの話。どっち先がいい?」
「何だ、ハードボイルド的な問いかけだな」
「メンタル参ってる奴に追い撃ちかけてトドメ刺すわけにいかねえだろうが」
……先に「そこそこの話」を聞こうと思った。きっと“いい話”と言うには憚られるということなんだろう。
眉間にシワを刻み、ベイは唸るように言った。
「まず、ジハルドは行方不明。まあ生きてるだろ。もう一つ、暴走が収まった隙をついてお前を攫おうとした奴らがいた。そいつらは撃退して、適当な理由でっち上げて治安局に突き出したんで、そっちは解決済みだ」
「お前すげえな」
「どうも。それから二番目くらいに悪い話を先にすると」
「グラデーション話法……」
「軽口叩けるぐらいには余裕だな。安心した。……暴走の結果、ハゲ山だったのが一気に緑たっぷりになった」
絶句した。
そんな分かりやすい影響が出てしまえば、当然追っ手は気づく。大声で自分の居場所を叫んだようなものだ。
「まあ、それぐらいは想定内だ」
「ホントかァ? 痩せ我慢すんなよ」
「してねえ。俺ァ火の山にならねえかが心配だった。そんなことになりゃ、未だに神話を信じてるアホどもが『地獄の蓋が開いた』とかって騒ぎ立てるからな」
「たしかにそりゃ、地獄を顕現させなくてよかったな……」
緑の蘇った山よりはいくらかマシ……なはず。そう自分に言い聞かせる。起こってしまったものは仕方がない。
さて、満を持してのワーストニュースの発表である。暴走結果よりも悪い話だとは相当だ、ベイのグラデーション話法のおかげで腹を括れた。
だが結果としてそんなものでは足りなかった。ベイは眉間のシワに、苦悩と悔いと悲愴を滲ませて、殊更に低く言ったのだった。
「イコが……メンタルの方がイっちまって……同じくここに入院中だ」
内臓という内臓が一気に捩れていくのを感じた。




