黒霧
赤い瞳。退魔士の世界でそれが示すことはある事実だ。
郁未の言った通り、それは彼女が遭遇したというカメレオンと同族ということ。――即ち、魔族。
(嘘、本当に……? 本当なら先生に連絡を。でも)
こちらに近付いてきている町田が本当に魔族だとしたら、もはや自分たちの手に負える事態ではない。
「ね、ね。どーするの?」
「……」
郁未が服の裾を引っ張るが答えようがない。既に相手の結界内、不用意に動けば一瞬で悟られる。携帯電話を使いたいところだが結界内と外では著しく電波が弱まってしまう。
「……静かに。やり過ごしましょう」
「おっけ」
結局優綺が選択したのは一番無難なものだった。もし二人で打って出たとしても勝ち目は薄い。勝ち筋が優綺には見えない。
そもそも優綺に魔族との戦闘経験がない。郁未も傍から見ていただけでこちらも戦闘経験があるとは言い難い。こんな現状の二人が戦いを挑むのは無謀もいいところだ。
そうこうしているうちに赤い目の町田が、二人の潜む林から十Mほど先にある公園内の遊歩道を歩いていく。小柄な二人は茂みの合間から息を潜めて通り過ぎるのを見送る。極度の緊張感で真夏の湿度も虫も気にならず、ただ気付かないで欲しいと願うだけだ。
「……」
「……」
靴音のピークが過ぎ去り、ゆっくりと遠ざかっていく。
「……あれ?」
「?」
「なーんか背中の方から黒い影? っぽいのが見え――あ」
郁未が間抜けな声が出したのと、町田が背を向けたまま立ち止まるのは同時だった。そして急激に嫌な予感が背中を走る。そしてその瞬間、町田の首がぐるりと後ろに回転した。
「目が合ったっ!?」
「避けてっ!」
「ぐえっ!?」
咄嗟に掴んだ郁未の後ろ襟を強引に引っ張って草むらに伏せる。何か黒いものが元居た場所を通り過ぎるのはその直後だった。
「ぐ、ぐるじいよ……」
「ごめんなさい、でもすぐ立って!」
声をかけながら優綺は一人で遊歩道に出る。このまま郁未が立ち上がるのを待っていれば彼女が巻き込まれるかもしれない。少しでも彼女の安全を得る為に自分が動いて注意を引かなくてはならない。
「石塚、優綺か」
「どうもこんばんは。町田さん……ではないのでしょうね」
遊歩道で相対した彼はぱっと見こそ普段と変わらない。しかしその瞳が、その身に纏う瘴気が彼が人間ということを否定していた。
「町田久太ではあったよ。記憶も力も、すべてを取り込ませてもらったがな。……上手くやり過ごせていたと思っていたが、やはり君らが居なくなるまで控えておいた方が良かったな」
すっと目蓋を閉じて反省をする様子は今までとなんら変化を感じさせない。そんな態度に戸惑いながらも優綺は転魔石で喚んだ棒を手にしておく。
(取り込ませてもらった……やっぱり魔族が憑りついている? なら助ける方法があるかも……?)
「……うわ、なんで気付かなかったんだろ、私……」
「郁未さん?」
「生方郁未か。今まで気付かなかったがそれは魔眼か。能力はわからぬが」
遅れて出てきた郁未が渋い表情で町田を見る。手には優綺と同じように棒を持っていて少しばかり安心した。
「なんか、もうぐっちゃぐちゃ。身体のことはわかんないけど、力の流れがもう生き物のそれじゃないって感じ」
嫌悪感を隠そうともしないのは彼女の目におぞましいものが見えているからだろう。それが見えない優綺はほんの少しだけほっとした。
「それが見えているのならとぼけても無駄だろうな。だが、そうだな。取り引きをしないか?」
「取り引き?」
「ああ。私は君たちを見逃す。君たちは命を拾う。当然私は今後君たちに危害を加えない。そちらも同条件だ。お互いに不干渉というのは如何かな」
「……それは」
なし崩しで始まりそうな戦闘を回避できるならそれに越したことはない。普通の相手だったらそうする方が賢いはずだ。きっと良治もそうするだろう。
しかし相手は魔族。約束などしたところで守られる保証は何処にもない。ここでの戦闘回避以外に意味はないと優綺は感じた。
「え、優綺、そんなの受け入れないよね?」
郁未の疑問に答えられない。守られる保証はないとはいえ、ここで逃げられれば良治や名古屋支部の人間に連絡を取り、町田を倒す流れになるだろう。しかしこのまま見逃していいのか、相手が魔族だとしてもこちらから破る前提の約束をしてもいいのかという罪悪感が彼女の口を重くさせる。
「……貴方の目的は?」
「目的と言われてもな。悪霊を取り込んではいたが、それは君たち人間にとっても有益だっただろう。そちらに害はなかったと思うが」
「なるほど、悪霊を探知できていたのは魔族としての能力だったんですね」
「擬態している時は使えなかったがね」
これで色々と納得がいく。これが急激に町田が悪霊の討伐数を稼げていた理由だ。
「いつから、ですか。貴方が……町田さんと入れ替わったのは。やはり……半年前?」
「ふむ。そこまで推測出来ているなら嘘を吐く必要もないか。その通りだ。たまたま開いた扉、そこに現れたのがこの町田久太という人間だったというだけだ。退魔士だったのは想定外だったがね」
「悪霊を倒し、取り込み、そして力をつけて……その先は?」
優綺の疑問に、町田だった者はにやりと嗤った。
「言うまでもない。私は魔族。人間を喰らい、未だ魔族の少ないこちらの世界で私は――王になる」
「なら、答えは一つですね」
「うん。いや私は最初から決まってたけど」
その言葉に迷う理由など皆無。吐き出された願いは人間にとって許容できる範囲を逸脱していた。
「交渉は決裂か。そう上手くはいかんか。では――」
「来ます!」
「おっけ!」
ぎゅっと棒を力強く握り締める。魔族との戦闘、ここからは未知の領域だ。
「見習い退魔士二人がどれだけ魔族という強大な存在に立ち向かえるか――見せてみろッ!」
町田の小柄な身体は一瞬にして黒く変色すると、それは夜よりも黒い霧へと変わる。その中に光る赤い瞳が笑っているように漂っていた。
「くははは!」
「っ!」
黒い霧のような身体から錐のような触手が幾つも飛んでくる。棒で弾くことが可能だったので何とかなっているが、そうずっと避け続けられはしないだろう。
「やぁっ!」
「……くく」
「効かないっ!?」
回り込んでいた郁未が棒を叩き付けるがダメージはない。実体のない霧状の身体に物理攻撃は効果は薄いのだろう。優綺ならある程度ダメージを与えられそうだが、まだ未熟な郁未では難しそうだ。
「なんか真ん中辺に密度の高い場所があるんだけど、そこが弱点かも! でも私じゃむーりー!」
「ほう、核が見えるか。大した魔眼だ。だが――それだけだな!」
「あ、ちょっ!」
郁未を振り払うように三本の触手が鞭のように振るわれる。郁未は転がってそれらを辛うじて躱していく。
「コンクリート、痛い……」
「言ってる場合ですか! 距離を取って!」
「はーい!」
優綺は郁未と役割を入れ替えるように触手を掻い潜りながら少しずつ黒い霧に近付いていく。この辺の見切りと捌きは良治との模擬戦の賜物だ。
「ぬっ!」
「はっ!」
気合一閃、何千回と繰り返した突きを真っ直ぐに黒い霧目がけて繰り出す。
相手は魔族、しかも実体の薄い霊体とは言え、退魔士としての力を込めた一撃ならノーダメージというわけにはいかないはずだ。
「くく、どうした当たっておらぬぞ!」
「く!」
「惜しい! あとちょっと上だったのにぃ!」
郁未のように見えていない優綺にはコアを正確に当てるのは至難の業だ。止まっているならまだしも、動き続ける相手に修正してもう一度当てるのは難しい。
「はっ!」
「っ!」
触手が数本飛んでくるが先ほどの郁未のように地面を転がって避ける。捌くよりも受けるよりも、避けられるならそっちの方が優先だ。魔術型なのに近接型の訓練を受け始めた当初、疑問に思ったこともあったがそれは今正しかったことのように感じていた。
黒い霧は触手を避けられるとすぐに優綺から距離を取り、組みしやすいと判断したのか郁未の方に移動を始めた。郁未の接近戦での対応はまだ優綺にも届かない。追い込まれたらまずいことになる。
「郁未さん!」
「あ、ちょ、とおおおおっ!」
援護に走ろうとするが触手が優綺の行く手を阻む。当てるというよりもこちらに真っ直ぐ向かって来れないような触手の動きに足が止まってしまう。
「あっ」
「えっ」
郁未の間の抜けた声に合わせるように優綺も声を上げてしまう。
それは誰から見ても気の抜けたような動きだった。――逃げ惑っていた郁未の膝が、かくんと攻撃を受けたわけでもないのに、抜けて転んでしまった。
「あ」
逃げられない。黒い霧から放たれた触手は十本を超える。膝をつき、両手も地面についた体勢ではなんとか出来たとしても二本くらいなものだろう。
遠くに優綺の姿を見る。必死な顔でこちらに走ってはいるが間に合いそうにない。年下の姉弟子という難しい関係だったがとても仲良くなれて郁未はとても嬉しかった。
(ああ、でも)
彼女の髪に飾られた花のブローチ。師から贈られたというプレゼントは似合っていて、とても喜ばしいことで、郁未もなんだか嬉しくて――少しだけ妬ましかった。
(今度は)
今度会ったら、もし次に会う機会があったのなら。
自分もなにかしらねだってみようかな。頼んでみたら乗り気ではないしれないが、なんだかんだ言って何かを贈ってくれるだろう。
――そして、生方郁未は来るべき痛みに備えて、目蓋を閉じた。
【見習い退魔士二人】―みならいたいましふたり―
優綺と郁未のこと。
優綺は良治に弟子入りする前から魔術型九級、郁未は現在魔術型十級で登録されている。
二人とも登録されている以上の実力を既に得ているが、良治は手間を惜しむと同時に中途半端な状態で面倒ごとに巻き込みたくないと思い一人前とされる七級に達するまでこのままの方針らしい。




