剣道少女の探索行・前編
――今日しか機会はない。
少女はこのタイミングを逃してはならないと決意とも言える感情で、その足を普段よりも五割増しで学校の廊下を突き進んでいた。
彼女が所属する剣道部には基本的に休みが存在しない。例え体育館が使えなくても身体を鍛えることは出来る。走り込みや筋トレは全ての基礎であり運動部であれば避けられないものだ。
ここ数年で急激に大会での成績が上がった影響か外部からそれなりの指導力を持つ顧問が付き、それと共によくある都立高校の一つの部活動でしかなかったこの剣道部は一気に活動的と呼べるようになった。
だが活動的で熱心な指導になるということはそれだけ部活動に注ぐ時間が増え、自由な時間が減るということだ。しかし彼女はそれに関しては何も不満などなく、むしろ剣道に打ち込める時間が増えたことを嬉しく思っていた。
そんな彼女が二、三か月に一度ある顧問都合の部活休みを利用して、ある行動を思い立ったのは昨晩のことだ。
いつもの休みの日なら近所の公園で軽くストレッチだけして身体を休める日と決めて早めに寝るのだが、思い立った行動を退けるほどの理由になりはしなかった。
「あ、副部長――ってはやっ!」
「すまない、今日は急ぐんだ。また明日」
「あ、うん。ごめん、ばいばーい」
部活仲間の声を後ろに聞きながら、機敏な動作で茶色のローファーを履くとすぐに昇降口を出ていく。
心の中はもう一つの目的で占められている。一日、いやこの放課後の数時間という短い時間でせめて名前くらいは調べたい。出来れば、可能なら――一目会って礼を言いたかった。
(あの人に、会いたい)
首筋でシンプルに結んだ黒髪を靡かせ、鋭い目つきとは裏腹にその少女はまるで乙女のように、浅霧景子というその少女はそんなことを想った。
人探し。
セーラー服に身を包んだ彼女がしたいのは端的に言えばその単語で説明が出来てしまう。
しかし何故目的の人物を探すことにしたのか、それを語れば長く、そしてなかなか信じてもらえないような内容を含んでしまう。故に彼女は友人たちに何も言えず、家族にすら概要をとても短く言うだけに止まってしまっていた。
それは、この梅雨直前の季節からおよそひと月前の出来事だ。
部活を終えた景子は暗くなった道を少しだけ疲れた足取りで歩いていた。
暗いとは言っても丸二年歩き慣れた道だ。遅い時間になっているのもいつものことで、この人通りの少ない近道の路地も怖いと思ったことはない。そんじょそこらの男など竹刀を持っていなくても簡単に組み伏せられるくらいの自信はあった。
しかし彼女は気付いたら猿ぐつわ、更に両手両足を縛られて物置のような一室の柱に縛り付けられていた。
こんなことをされればすぐに気付いて抵抗するはずなのに。
しかし彼女の記憶は路地を歩いていた時で途切れていて――いや男を見た気がした。だがなんだかよくわからないまま連れて行かれて、ここまで来てしまったような、そんな断片的な記憶が自分の中にある気がした。
薄暗い中、隣りを見ると同じ状況の女性もいて、そこで景子は『ああ、誘拐されたのか』と冷静に現状を把握することが出来た。冷静に理解出来たのは常に相手を見つめる剣道をしていた影響かもしれない。
現状がわかっていたのは相手のOL風の女性も同じようで、こちらを見て軽く微笑んだのがわかった。きっと景子が先程までぼぅっとしていたからだろう。無事なことを確認してほっとしたらしく、この女性はとても良い人なんだなと思えた。
身動きの取れない時間はそれほど長くなかった気がする。時計も何もない部屋だったが、自分のお腹の減り具合はよく理解出来ている。部活後なのでお腹は空っぽだが、それでもまだ耐え切れないほどではない。この縛られた状況を考えるととてものんびりした考えだと思えて景子は自分に少し呆れたしまったのを覚えている。
このよくわからない状況と空腹の恨みは絶対に晴らしたい。
そんな気持ちでいっぱいだった時、扉が開く音がして灯りが点いた先にいた二人の男女を見た瞬間、景子は精一杯の敵意を向けて反抗の意思を叩きつけた。
しかし二人はそんな彼女の視線など意に介さずこちらに微笑みながら近寄ってきた。
「暴れないで、大丈夫だから。私たちは助けに来たの。もう無事に家に帰れるからね」
自分よりも年上らしき女性の言葉に心が揺らぎ、隣の女性も解放されていくのを見てようやく信じることが出来た。
「ぷはっ……ほ、本当に……?」
「ええ。だから縄は解くけどもうちょっと待っててね。まだ調べないといけないこととか連絡しないといけないところとかあるから」
連絡しないといけないとことは警察だろうと景子は思った。
これは立派な誘拐だ。見つけて助けてくれた女性は特別驚いたところがないのが気になったが、きっと悪いようにはしないだろう。女性の瞳は優しく、とても温かみを感じるものだったからだ。
ふと隣を見ると縛られていた女性と助けに来た男性が何かを言葉を交わしているようだった。しかし男性は一方的に切り上げて部屋を出ていってしまい、残されたのは寂しげな表情をした女性。
「あ、その。大丈夫、ですか」
何が大丈夫なのだろうか。自分でも言葉の指し示すものがよくわからなかった。
「……うん、大丈夫。ありがとうね」
女性は寂しげな表情のまま、微笑んだ。
その後景子はしばらくしてから、その閉じ込められていた部屋を出ることになった。
そして、その際に部屋を出ていっていた男性とすれ違った。
(――あ)
苦しそうで、でも何かを決意した佇まいに、景子は何か惹かれるものを感じてしまった。
振り返りたいという衝動は隣の女性の放つ謎の不機嫌さで消し飛ばされて不可能だった。
だがそれでも振り返るべきだったのかもしれない。
そう彼女が思ったのは翌日の朝になってからだった。
――こんなにも気になってしまうなんて。
ただの好奇心。ただの興味。
あの時振り返るだけでそんなものはなくなってしまったはずだったのに。
そして肥大化してしまった感情をなんとかすべく、浅霧景子は行動することにした。
会えばきっと収まる。こんなよくわからない気持ちを持ち続けることはもう限界だ。先日部の主将にも心配されてしまったこともあり、やはり解決に動かなければならないと考えていた。
「ここ、かな」
景子は新宿の雑踏を速足で歩き切り、ようやく人がまばらになったとあるビルの前で小さく呟いた。
このビルの三階に目当ての場所、人物がいる。
と言ってもあの男性がいるわけではない。その手掛かりに成り得るということだ。
噂好きのクラスメートや部活の後輩からなど多方面から時折聞いたということは、少なくとも自分の学校内では評判ということだ。お喋り好きな女子高生ということもあり、景子自身も興味が湧いていたのは否定出来ない。
浅霧景子はまるで公式戦の決勝に挑むかのような気持ちで、そのビルに入っていった。階段しかないそのビルの階段を一歩一歩踏み締めるように上がっていく。
そして景子は紫の布が飾られた扉の前で立ち止まり、一つ呼吸をしてからノブに手をかけた。
薄暗い店内は怪しげな雰囲気で、布やパーテーションでとても狭く感じられた。何だか居づらいなと思ったが逃げるわけにはいかない。
「あの――」
「こちらへどうぞ」
「は、はい」
声を出した瞬間に奥から聞こえた声に恥ずかしく思いながら、パーテーションの向こう側に進んでいく。
聞こえて来たのは若い女性の声。と言っても年上なのは確実で、景子の聞いた噂話と食い違いはなさそうだ。
「あ……」
「初めまして。そちらの椅子に座って、ね」
水晶の置かれた小さなテーブルの奥に佇むのは長く艶やかな黒髪の女性。とてもミステリアスで理知的、それでいて母性を感じさせ、女性である景子から見ても魅力的な女性だった。
「じゃあ改めて。貴女のお名前は?」
薄く微笑む美しい占い師。
そう、景子は彼女に会う為に、占いってもらう為にここに来たのだ。
「――なるほど。貴女はその男性に会いたいのね」
「はい、そうです」
警察に口止めされている為詳しいことは端折ったりしたが、概ね間違いはない。端的に言えば誘拐され、それを助けてくれた男性を見つけて御礼を言いたいということに変わりはないのだ。
景子が占いというなんとも不安定でふわふわとしたものを選んだのは、やはり警察の口止めが理由だった。あの場所で見たものは口外してはならないと言われ、結局ただの誘拐事件と説明されたがそれが全てでないことは彼女にもなんとなく理解出来ている。
詳しいことを喋らなくても何とかしてもらえそうな場所。噂話を聞いていたこともあり、景子はここを訪れることにした。
「なんだか何処かで聞いたことのある話な気はするけど……良いわ、目を閉じてこの水晶に意識を集中して」
「はい」
占い師の言葉が少しだけ気になったが、言われた通りに目を閉じる。素直に従ったのは占ってもらいに来たからという理由は当然あるが、何か静かな力を占い師から感じたからだ。
圧力のような強制的に何かをさせられるようなものではなく、大樹のようなそこにあるだけで感じられる大きな力を。
(これが噂の《新宿の予言者》……)
景子が聞いたのは新宿にあるビルに《新宿の予言者》と呼ばれる凄腕の占い師がいるという話だった。
彼女の占いは条件さえ合えばほぼ確実に的中するとされ、目的が達成されなくても見えたことは間違いなく起こる。
――『紫色の予知』。的中した人たちは彼女の予言をそう呼んでいた。
景子は紫のテーブルクロスの上にある水晶に意識を向ける。
頭の中に浮かぶのはあの男性、別れ際の、最後の表情だ。
(――ああ、会いたい)
そう想いながら目を閉じていたのはどれくらいだっただろうか。
十秒にも十分にも感じられるその祈りを終わらせたのは占い師の声だった。
「もういいわ。ありがとうね」
「いえ……それで、どうですか」
結果を早く知りたい。それは占われた者全員がそうだろう。
じっと占い師を見るが、彼女はほんの少しだけ何かに迷うように目を逸らした後、口を開いた。
「……そうね。貴女がおそらくその男性に会っているのが視えたわ。今日このまま探していけば、きっと会えるはず。その直前には駅が視えたわ。……あれはたぶん、上野駅ね」
「やった……! あ、すいません……っ」
拳を握り締めて思わず立ち上がってしまった景子はすぐに座り直して頭を下げる。しかし頭の中は既に溢れんばかりに男性のことでいっぱいだ。
(会える、会えるんだ……!)
「一応言っておくけど、別の意思が介入した場合は会えない可能性はあるから」
「はいっ」
「ああそれと、貴女は初めてだから言わなかったけど。もし次に占う場合、三か月は空けてね。そうじゃないと精度は下がるから」
「わかりました、また来ますね」
「あんまり来るような困ったことはない方がいいんだけどね。それじゃ、ほら。あんまりのんびりしてると機会を失うわよ?」
「ありがとうございます。あ、そうだ」
この占い師はとてもいいひとのように思えて、景子はウサギ柄の財布から千円札を数枚取り出す。
「あ、いいわよ今回は。その代わり頼みごとを一つお願いしたいの」
「え……? なんですか」
「――その男性に会えたらでいいんだけど。彼に『ごめんなさい』って伝えておいて」
申し訳なさそうな表情の占い師。何か謝ることがあったのだろうか。
「はい……? わかりました」
わからないが伝えるだけならば大丈夫なはずだ。そう判断して景子は恩人の頼みごとを請け負った。これ程度ならまだ支払いが必要なくらいだ。
「じゃあ、またね」
「はい。本当にありがとうございましたっ」
改めて深々と頭を下げ、扉を閉めた景子は階段を飛び降りて走り出す。確かな未来が見えたのだ。走り出さずにはいられなかった。
「……まさか私自身があの時の占いの役回りをすることになるなんて。ごめんね、結那ちゃん」
誰もいなくなった一室で、紫色の薄いローブに身を包んだ占い師――結河原慧は小さく溜め息を吐いた。
【あの時の占いの役回り】―あのときのうらないのやくまわり―
彼女は今回視たことがいつか他の者に視た何かと関連があると知ってしまったらしい。
少しばかり悩んだが自分の占いを裏切れず、結局ありのままを話すことにしたようだ。




