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硝子の密約

 ゴールデンウィークのあった五月が去り、夏を思わせる陽射しと梅雨の到来を予感させる雨が入り混じる六月。

 昨夜も小雨交じりの中いつも通りの訓練を行っていた。


 良治はいつものようにぱちりと目を覚ますとこれもまた普段と同じように枕元に置いてある携帯電話をチェックした。

 時刻は昼の十二時五分前。アラームよりも早く目が覚めたことに僅かな満足をしつつ身体を起こす。


 ――甘いにゃあ。そのうち足を掬われるにゃ。


 直前まで見ていた夢がリフレインする。

 だがその夢は夢ではなく、二週間ほど前にあった現実だった。






 崩を八戸駅まで送り東京に戻る新幹線の中、当然のように隣の指定席に座った彼女。

 奇遇だと話しかけてきたがこんな奇遇はない。だが何処からけられていたのかはわからなかった。


「さてさて、《黒衣の騎士》さんはどう動くのかにゃっと」

「ん? どうとは?」

「彩菜っちの話を聞いて、にゃ。どうせもう聞いてるんでしょうにー」


 何を当たり前のことを聞いてくるのと言わんばかりの表情だ。だがそれに素直に頷くのも何だか気に入らない。


「何を?」

「んー? 京都本部で聞いたんだと思ったんだけどにゃー。もしかして予想外れたか、にゃ」

「よくわからないけど俺が知ってて当然だと思うのなら早く話してくれ。前提があるのならそれがなければ何も始まらない」


 探るように流し目をしてくる彼女に、ちょっと困ったように言う。黒猫は少し迷った上で口を開く。


「……まぁ、そうなんだけどにゃ。いや知らなきゃ知らないでその方がいい気がしてきたにゃ。うん、じゃあそれはなかったことにして他の話をするにゃ」

「どうぞ」

「や。えーと、石川支部に行ってるあの・・態度のデカい人はことあるごとに黒衣の騎士さんの悪口や不満を言ってるにゃ。あの様子じゃ何か企んでてもおかしくはないにゃー。最近周囲に変化はあったり?」


 周囲の変化。

 そう聞かれて少しばかり思考に裂くが心当たりは一つしかない。

 更に遡ると郁未と出会うきっかけになった事件もあったが、あれはただの遭遇戦だったのであまり関係ないだろうと良治はその可能性を低く見積もっていた。


「あの新宿の件くらいだな。あの男の単独犯じゃなさそうだしな」

「あーこないだ会った後の事件と。それと宮森成孝が繋がってる可能性はあるかもにゃー」

「いやそう単純に考えるのはどうかな。その方が考えるのも解決するのも楽だけどね」


 安易にわかりやすい結論に飛びつくのは危険な気がして否定する。だが良治本人もその可能性が高いことは内心感じていたのでそこまで強くは口にしない。


「相変わらず慎重派だにゃー。……ところでやっぱり知ってるかにゃ? さっきのお話の内容」


 どうしても気になるらしい。しかし蒸し返すのならば何かしら理由があるのだろう。


「さて何のことですかね、『元・黒影流』の黒猫さん」

「やっぱり知ってたにゃ。元・黒影流に嘘を吐くなんて大したもんにゃ、ほんと」


 小さい溜め息と共に、僅かに緊張感が増す。

 それはそうだ、隣の席に座るお互いは敵だと認め合ったのだ。新幹線の中とは言え何が起きてもおかしくはない。――殺し合いが始まってもおかしくはないのだ。


「で、ここで何かするのかな」


 微笑みすら浮かべて良治は問う。もしここでコトを起こすとしても躊躇いはない。相手がその気なら付き合うまでだ。絶対に相打ちには持っていくという決意は既にしてある。


 新幹線の隣の席。それはもう僅かな動きで相手に触れられる距離。頭部に向けられる攻撃さえなければ僅かに残った力でも相打ちには出来る。

 手に武器はないが、この状態なら拳でも手刀でも、蹴りでも致命傷を与えられるだろう。


「――や。戦うつもりはないにゃ。あくまでも黒衣の騎士さんの今後の方針を知りたい……もっと言えばお願い事があったりなかったり」


 開いた両手を上げるが、手に何も持っていないからといって攻撃しないとは限らない。ただのポーズだろう。

 だが少なくとも攻撃的な感情を感じなかったのでそのまま話を続けることにした。攻撃されたらやり返せばいいだけだ。


「お願い事?」

「そうにゃ。きっと彩菜っちからあたしを殺すか捕まえるか頼まれてるんでしょー。だからそれを一時的にでも控えて欲しいなー、にゃんて」


 今度は両手を胸のあたりで組んで上目遣いに見つめてくる。

 それを良治は冷たい目で返しながら現状を整理しだした。


 まず見逃して欲しいのは黒猫自身の保身だろう。誰だってそうそう殺されたくはない。

 だが問題は見逃したその先にあるものだ。命を長らえて何をするのか。何か目的があるはずだ。でなければ『一時的にでも』という言葉は出てこないだろう。


 個人的な目的か誰かの為の目的か。こうやってふらふら何処にでっも現れることからどちらかというと前者の可能性の方が高い気がする。


「訊きたいことは幾つかある。まず見逃したら貴女はどうするのか。何かすべき目的、したい目標があるのか。そして見逃したことで自分にメリットを提示できるのか」


 この二点が不明なままではとても頷くことは出来ない。

 黒猫を見逃すということは彩菜への裏切りと言っても良いことだ。そう簡単に受け入れられることではない。


「や。あたしは生き延びたいだけにゃ。生き延びて生き延びて、自由で気ままに生きていきたい、それだけにゃ」


 程度の差こそあれ、絶え間なく笑顔だった彼女の表情がほんの一瞬だけ陰った。

 今のは本音だろうか。それとも演技だろうか。そして何を思ったのだろうか。その判断はつけられなかった。


「で、メリットの方は?」

「うーん、難しいにゃー。各地のナマの情報を持ってくるとかどうかにゃ。今も黒影流は人手不足で情報収集の面では昔ほど機能してないはずにゃ」


 人手不足の件はその通りだ。実際彩菜本人も言っていたことだ。

 退魔士が減っているということは黒影流もそれに含まれていて、毛色の違う黒影流はその影響はむしろ大きいかもしれない。


「そんな条件でしばらくの間見逃してほしいと? 図々しいにも程がある」

「や。そこをなんとか。年内まででいいので」


 年内。半年以上もある。


「長すぎる。その条件ならひと月だな」

「いやいやそこをなんとか。十月まで」

「五か月なんてありえないだろう。一か月半だ」

「そんな御無体にゃ。八月、八月までにゃんとか」

「ないな。どんなに譲歩しても二か月、七月末までだ」

「じゃあそれで」

「良い落としどころだな」

「にゃ」


 お互いに許されそうな妥協点を探った結果は二か月だった。七か月が二か月に収まったのなら上々だろう。

 黒猫としても最初は吹っ掛けただけで悪くないと思っているように感じられた。


「ただそれを過ぎたら何が起こっても知らん。今後も彩菜に聞かれたら逢った場所だけは話す。情報を持ってくる以外には近付くな。それと」

「それと?」

「俺の周囲に何かした時点でこの協定は破棄だ。いいな?」

「了解にゃ。基本的に情報提供以外は不干渉って感じにゃ」

「それが一番だからな」


 味方では決してない。どちらかに分けるするなら敵だろう。だが利害が一致する限りは積極的に排除しなくてもいいだろう。


「甘いにゃあ。そのうち足を掬われるにゃ」


 甘い。それは良治自身が時折感じるところでもある。そしてそれが良いのか悪いのか、今でもわからないことだ。


「――ああ、一つ聞き忘れてた。黒猫」

「にゃ?」

「あの黒い数珠、まさか誰かに渡したり秘密を話してたりはしないよな?」


 彩菜が危惧していた最悪の出来事。それは瞬間転移出来るあの魔道具の秘密だ。

 それを漏らしていたのなら、今結んだばかりの協定を反故にして仕留める他に選択肢はなくなる。それだけあれは重要で秘匿すべき機密だ。


「もちろんにゃ。そんなことしてたら交渉なんて出来ずに一方的に、白神会全部が敵になるのにゃ。あたしは命が惜しいのにゃ」


 その言葉に相変わらず嘘は感じられない。不審な点は見受けられないがそれを信じていいかはやはりわからなかった。


「……そうか」


 良治がそう答えると同時に車内アナウンスが聞こえてきた。もう数分で盛岡駅に到着するらしい。


「じゃああたしはここで。あまり長居してると補足されるかもだしにゃ」


 白神会の範囲内に入れば黒影流の誰かに見つけられる危険性はそれなりにある。人手不足とは言え、特に良治と一緒ならその可能性は上がるだろう。


「ああ、お疲れ様。それにしても何故脅迫じゃなくて普通に交渉を?」


 あの数珠さえあれば奇襲は難しいことではない。良治や結那、天音あたりなら対処できるだろうが、弟子たちにはまず無理だ。そこから攻めていけばもっと優位な条件で成立したかもしれない。


「や。そんな脅迫なんてことしたら黒衣の騎士さんを完全に敵に回すことになっちゃうにゃ。対等な交渉と協定の先に未来があるのにゃ」

「なるほど」


 弟子たちを害すと言っていたらどんな条件も飲まずに敵対関係が決まってしまっただろう。どうやら本当に彼女は生き延びたいだけのようだ。


「まー他にもハニトラも試そうかとも思ったけど、あたしじゃちょっと足りないかなーって。黒衣の騎士さんの周囲には美人さんが多すぎるにゃー」


 黒猫が自分の薄い胸に手を当てながら切なそうに言う。

 ハニートラップ。それは良治には通じないだろう。

 理由は黒猫自身が言ったように、周囲の女性に恵まれているせいだ。彼女たちや弟子たちが常に周囲にいる良治はそうそう見知らぬ女性に靡くことはない。


「まぁ、そうだな」

「ですよにゃー。ちょっと自分で言ってて切ないけど、これが現実よにゃ……さて」


 新幹線のスピードが緩やかになる中、黒猫は振り切るように立ち上がると通路に移動してからくるりとこちらを振り返る。ふわりと少しだけ浮いたパーカーがとても可愛く見えた。


「それじゃよろしくにゃーっと」


 完全に停止してから彼女は跳ねるように去っていく。数珠を使わなかったのは人目を気にしてだろう。良治としてもこんな衆人環視の場で使って欲しくはない。


 出発する新幹線の窓から黒猫が小さく手を振るのが見えた。彼女にとっても今回の協定は満足出来るものだったのだろう。


(……しまった)


 今回黒猫と話した内容、そして協定の内容をもう一度整理していた良治が自分のうっかりに気付いたのは新幹線が駅を離れてすぐのことだった。


 てっきり黒影流を出奔したのは何処か他の組織に行く為、そしてその手土産にあの黒い数珠を提供した――そんな筋書きだと考えていたのだが、それは彼女の言葉によって否定された。


 次に逢った時に聞かなくてはならない。

 もしかしたら大した理由はないのかもしれないが、それでも何か明確な理由があるはずだ。


 ――黒猫が黒影流を抜けた理由。それは彼女を知る上でとても重要なもののように思えた。









「えええええぇっ!? それホントなのっ!」

「……元気だなぁ」


 ベッドの上で黒猫のことを思い出していた良治の耳に、リビングから大きな声が扉越しに聞こえてきた。扉がなかったら耳を塞ぐリアクションくらいはとっていたかもしれない。


 今日は日曜で優綺は休み、そして郁未も今日はバイトは休みだったはずだ。

 二人でお喋りをしていて思いもよらないことを聞いて大声を出してしまった、というところだろう。叫んだのはどちらか考えるまでもない。


 いい目覚ましになったと切り替え、軽く身嗜みを確認して自室の扉のノブに触れた、その瞬間だった。


「――告白されたのっ!? クラスメートの男子に!?」


 良治の身体が固まるような言葉が、やはりさっき叫んだのと同じ声で響いてきた――


【告白】―こくはく―

隠していた心の裡を話すこと。この場合は愛の告白という意味。

多感な中高生時代に多く発生する傾向にある、らしい。

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