真夜中の訪問者たち
「――にぃ、ねぇ起きて。にぃ」
「ん……」
良治が暗闇の微睡みから揺り起こされたのは少女のような声と、肩に触れる小さな手の感触だった。
聞き慣れた声に反応し薄っすらと目蓋を開くが、真っ暗な部屋ではすぐにその姿を認められない。だが声と自分への呼び方で起こした者が誰かはすぐに理解出来た。
「起きた?」
「……彩菜、どうした」
段々と暗闇に目が慣れて周囲を見ると、布団のすぐ傍には黒い浴衣姿の義妹が両膝をついてこちらを覗き込んでいた。
「ちょっと話、したくて。はいお水」
「う、助かる……」
「あんまり強くないのに。気をつけないと」
「……ああ」
彩菜は窘めるような言葉を口にするが、その口調は柔らかくむしろ親愛を感じさせるものだ。
良治は飲み過ぎで頭痛のする頭を癒すように、手渡されたグラスを一気に傾けて水を飲み干す。よく見ると傍には大きなペットボトルがあり、彩菜は空いたグラスにもう一度注ぎ足してくれた。
(祥太郎たちと飲んで、その後この部屋に来てすぐに寝た……だよな)
十畳ほどの和室に一組の布団。この部屋に来た時に崩と少しばかり押し問答をしたことを思い出したが、彼女がいないのならちゃんとわかってくれたようだ。
二杯目の水を半分ほど飲み、小さく息を吐く。掛け時計に目をやるとそれは午前二時を指し示していた。
気を失うように寝たとすれば四時間ほど経っているはずだ。未だ鈍痛の残る状態にそこまで時間が経っていないことを理解し、自分の感覚とズレていないことを確認する。
「それで用件は?」
「用はあるんだけど……だからぁ、話、したくて。……ううん、先に連絡からするね。伝言、預かってるから」
「伝言?」
「うん。『対立するつもりはない』って。良かったね」
「……そうか」
その言葉が誰からのものか、それは良治には自明だった。
彩菜は黒影流だというのに表に出て来ている理由。それはほとんど表に出て来ることのない黒影流継承者の代弁者だからだ。
(浦崎雄也は対立するつもりはない、か。だけど)
それは今のところ、という注釈がつくに違いない。その言葉は決して嘘ではないだろうが、しかしそれがこの先も続くかどうかは誰にもわからないのだ。
(それに……俺とはであって、郁未に触れていないことも気になる)
郁未が隼人との会談の時、屋根裏に見た墨一色の男。それは彩菜の伝言が裏付けるように浦崎雄也だったはずだ。
良治は郁未の言葉と存在していた場所で即座に正体を察したが、別に彼がそこにいたことが問題だったのではない。むしろ隼人の近くにいないことの方が他で何か起こっていることの可能性があり恐ろしいことだ。
良治があの時全身総毛立った理由。それは――普段限られた者にしか見せない姿を郁未が見てしまった、その事実にだ。
白神会の中枢の数人にしか姿を見せない、それは裏を返せば姿を見た者たちを確実に葬ってきた証でもある。浦崎雄也は意味もなく自身を晒すようなことはしない。そうしたということはつまり意味がある、もしくは――
(もしくは、郁未を消す可能性が……ある?)
だが最初から殺すつもりならそうした手順を踏まずにやっているだろう。彼が本気になれば、例え良治が守ろうとしたところで突破されてしまう。
結局のところ無駄な手間を取るまでもなく出来ることをしていないということに、良治は彩菜の伝言を信じることにした。
今のところは郁未に手を出すことはない。今のところ、はだが。
「これでお仕事の話はおしまい。……ね、ね。祥太郎さまたちとはどんな話をしたの?」
短めの髪を揺らしながら前傾姿勢を取る彼女はとても楽しそうだ。話がしたかったのは嘘ではないらしい。
「そうだな……」
眠る前のことを思い出す。酔っていたせいか断片的にではあるが幾つか思い出したことを口にする。
「いつか武芸大会をやりたいとか、しばらく前に福井の方で妖怪が出たとか。あとはまぁ俺のいなかった期間の話だな」
「妖怪?」
「うん、妖怪。まだ居たんだなって感じだな」
妖怪、それはこの世界に生息する異形の者の総称だ。
昔は身近にいたが今では見ることはなく、既に滅んでしまったと言われることも多い。欧州などでは妖精などとも呼ばれているようだ。
「珍しいね……でも今見掛けるのは無害なのがほとんどみたいだし、大丈夫かな」
「そうだな。昔は共存してたんだし、少なくとも一方的に駆逐しなくてもいいとは思うよ」
生態はよくわかっていないが直接的な被害がなければ見過ごしたままでいいと良治は考えている。ある意味野生動物との付き合い方とも似たものだ。
魔獣と同じように見られることもあるが、それと比べて温和だったり臆病だったりする傾向にあり積極的に人目に触れることは少ない。だからこそ気が付いた時にはもうほとんど存在していなかったのだが。
「へぇ……。それでもう一つの武芸大会って? 祐奈さまの件の?」
「そこまで知ってたか。でも違うよ。それとは別に、武芸大会やったら面白そうだなって話だ。まだまだ企画の段階で具体的なことは何も決まってないけど。やるなら祥太郎たちが率先して隼人さまに上げるはずだ」
良治個人としては武芸大会は面白そうだとは思う。しかし自らが先頭に立って進めていくことは控えたいと思っている。やる気がある者がいるなら任せた方が後々良い方向に動くだろう。
「もしやるってなったら、にぃは出るの?」
「タイミング次第かな。出れたらいいな、くらいな気持ちだよ、今は」
「そっか……誰が出るか楽しみだね。私は出れないけど」
「まぁ、そりゃあな」
黒影流がそんな表舞台に出るとなったら驚きだ。手の内をひた隠しにしているのに、観衆の前で黒影流独自の手法などを晒しては今後の活動に支障をきたすかもしれない。当然そんな危ない橋は渡れないだろう。
「でも、もしかしたら綾華さまは出たりしてね」
「ああ……じゃあ復帰に前向きなのは本当なのか」
「うん。今後のこともまだ不透明だし、動ける退魔士は一人でも多い方がいいでしょうし、って」
綾華の復帰。それは祥太郎たちが言っていたことの一つだ。
出産したばかりだというのに彼女はもう退魔士として復帰することを考えているようで、てっきりこのまま事務中心で育児と仕事を両立していくと思っていた良治は正直驚いてしまった。
だがそれとは別に綾華の不安もわかる。不安とは組織のことだ。
総帥の隼人は相変わらず独身貴族で浮いた話は皆無だ。積極的な組織運営もしておらず、実質的な運営をしている綾華が未来に不安を覚えるのも当然と言える。何かあった時にちゃんと動けるようになっていたいのかもしれない。
「和弥は、反対はしていないって話だけど」
「和弥さまはびっくりしてたけどすぐに賛成したみたい。綾華が決めたならそれに協力するだけだ、って」
「あいつらしいな」
彼女を支えていくと決めた人生だ、和弥は助力こそすれ邪魔になるようなことはしないだろう。これは高校生時代から変化していないことだ。
「穏人ちゃ……さまは私も含めて何人かでお世話することになると思う。もちろん綾華さまメインだけどね」
「まぁ綾華さんが決めて和弥も賛成してるなら俺は何も言わんよ。当然上手くいけばいいとは思うけど」
言い方は悪いが他人の人生だ。彼ら彼女らがこれがいいと決めたことなら外野がとやかく言うことではないと思う。周囲の協力も得られるなら尚更言うことはない。
「うん。でも大丈夫だとは思うから。――ああ、そう言えば」
ぞくりと、彩菜の笑顔が怖いものに変化する。体感温度が下がった気さえした。
「――ねえ、あの裏切り猫はどうなったの?」
そう言えば、ではない。
これこそが本題だ。
彼女にとって上司である浦崎雄也の言葉よりも何よりも、あの黒猫のことが一番の関心事だったということだ。
「……あれから見てないよ」
「そっか。――残念」
心底残念そうにそう言うと、彩菜は音もなく立ち上がる。
それはそうだ、一番の用件は終わったのだから。
「……おやすみ、彩菜」
「うん、にぃも。あんまり無理とか無茶はしないでね。おやすみなさい」
襖を開けてこちらを振り向いた彼女の顔に、もう一瞬見えたあの陰はない。なればこそ、その切り替えが恐ろしく感じた。
立ち去った後に残されたのは静寂と恐怖の残滓。
良治は小さく息を吐くと、注ぎ足したグラスを一気に傾けた。
「……ふぅ」
起きるにはまだ早すぎる。あと二、三時間は寝られるだろう。睡眠は大事なことだ。
目蓋を閉じて横になった良治は義妹の後姿の幻影を打ち消すように他のことを考え出した。
(京都にまで来たんだから、本当は新しい刀か何か欲しいところだったけど……まぁ今回も無理だな)
幾つもの刀や小太刀を戦闘で駄目にしてしまっている。正直なところこれから先、長い間相棒に出来る村雨に代わる業物が欲しい。しかしそんなもの容易く入手できるわけはなく、結局使っては使い潰してしまっていた。
だが年明けに隼人に言われたように、白神会お抱えの鍛冶師である源三郎のところに行けばその問題は解決できるだろう。問題はその場所がこの京都本部から更に移動しなければならないところだ。
京都本部は京都市の外れにあるが、鍛冶場は京都府の中央やや北部の綾部市の山間部に存在する。東京から気楽に、簡単に行けるような場所でなく、京都に来た際に寄ろうと思っているのだが中々寄れるような状況になってくれていない。
(さすがに崩さまを放置して行くわけにはいかんしなぁ……)
身軽に動ける自由。それこそが良治の愛する一番のものだ。それが今損なわれていることに彼は嫌悪感を抱いた。
そしてそうなれば、残される選択肢は限られる。
(――そろそろ、ってことかな。やるべきことをやり終えたら、その時は)
自分のやらなければならないこと、やっておかなければならないこと。
それらが全て終わったら。
その時、黒衣の騎士はまた旅に出ることになるだろう――
(……ん?)
そんな決意を密かにしていた良治の耳に微かな音が届き、薄っすらと目蓋を再度開く。もしかしたら彩菜が何か伝え忘れたことがあったのかもしれない。
だがその予想は外れだった。スッと襖を開けてぬるりと入り込んで来たのは――
「な、崩さまっ」
「えへへ、来ちゃいました」
身を起こした良治に抱き付いてきた崩を剥がそうとするが上手くいかない。『力』を使われて逆に押し倒されてしまう。
「……あの」
「こんな機会、そうあるものではないので……勇気を出してみました」
長い絹のような髪の毛が良治の顔に垂れる。崩はどこか蕩けるような表情で顔を寄せていき――
「ダメです」
「あっ」
すんでのところで口付けを躱し、そのまま体勢をひっくり返す。今度は良治の方が布団に押し倒すような恰好だ。
「あ、それでも……いいですよ」
「いや、しませんよ? なにも」
間違いなく黒影流の誰かが監視をしている。もしかしたらそれは彩菜かもしれない。そんな状況で何かコトを起こすつもりも趣味もない。
「どうしても、ですか?」
「どうしても、ですね。大人しく戻ってください、まだ少し寝る時間はありますから」
むしろ隼人などはこうなることを望んでいるかもしれない。だからこそ天邪鬼なところのある良治ははっきりと拒絶をする。誰かの思い通りに動くのは何だか癪だ。
良治は崩の身体をゆっくりと起こし、自分も正座で向かい合う。
「……ダメ、ですか」
「ダメです。それにこういうやり方はあまり好きじゃないで……好きじゃないよ、雪海」
「っ……ごめんなさい」
肩を落とす崩に、良治は少し迷って彼女の頬に手を伸ばした。
「いつか、時間を取るから。その時は何処か出掛けよう。正確にいつとは言えないけど」
「い、良いんですか?」
「別に俺は雪海と距離を取りたいと思ってるわけじゃないから。ただ時間と場所を弁えるべきだとは本当に、強く思うけど」
「わぁ……! ああ、ありがとうございます、お兄さまっ!」
良治から触れていた手を崩は感激しながら両手で手に取り、ぎゅっと抱き締める。
こういうことも含めての弁えを求めていたのだがと良治は苦笑するが、その手を振り払うことは躊躇われた。
「ほらほら、そろそろ戻りなさい。明日は一緒に帰ろう」
「はいっ。それでは改めておやすみなさい、お兄さま」
崩は喜色満面、幸せいっぱいといった感じで自分の部屋に戻っていく。廊下をスキップでもしそうなくらいだ。
「……今度こそ、おやすみなさい」
再度静寂の降りた部屋で誰にともなく宣言し、今度は何の考え事もしないまま良治は睡魔の手を取った。
翌日崩といろはを八戸駅まで見送り、良治は少しだけ抜けた気持ちで帰りの新幹線の座席に背を預けていた。
優綺と郁未は東京駅で別れて家に帰させてある。慣れない環境に疲労していただろうし、出来るだけ早く二人を休ませてあげたかったからだ。
それに――
「おやおや? こんなところで奇遇だにゃー」
もしかしたら逢えるかもしれない。
根拠のない、そんな予感があったからだ。
「ええ、本当に奇遇ですね――黒猫さん」
良治の返しに、彼女はにたりと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
【裏切り猫】―うらぎりねこ―
裏切り者である黒猫を指し示す言葉。恨みを込めたその言葉は発言者の憎悪のほどが伺える。
何故そこまで憎むのか、その理由を良治はまだ知らない。




