合成獣研究所
――西風莉子。
それは今良治が猿ぐつわと縛られた縄を外している女性の名。
――ごめんね、あなたのことわからなくなっちゃった。
(……ああ、最後はそんな言葉だったっけなぁ)
縄を外す瞬間に触れる肌と懐かしい匂いに、別れの場面がどうしてもフラッシュバックしてしまう。
彼女と別れたのはもう二年以上前のことだ。それでも未だ鮮明に思い出せてしまう。
だがそれも当然のことだろう。放浪の旅の幸福のほぼすべてはその頃に集中するのだから。
「暴れないで、大丈夫だから。私たちは助けに来たの。もう無事に家に帰れるからね」
「ぷはっ……ほ、本当に……?」
「ええ。だから縄は解くけどもうちょっと待っててね。まだ調べないといけないこととか連絡しないといけないところとかあるから」
隣では結那が女子高生の縄を丁寧に外している。穏やかな口調と解き方で女子高生の警戒を解除していく。ああいったことは良治には向いていないのでさすがだと心の中で称賛した。
「……ふう。ありがとう、良治さん。それでこれは――」
「結那、二人を頼む。あと世良さんに連絡を。俺は奥の部屋を見てくる」
「え、あ、うん。わかったわ」
「あ――」
やや乱れた紺のスーツ姿の女性に背を向け、良治は迷いなくその部屋を出る。
(……動揺するなんて、な。仕事中だってのに。落ち着け俺)
思い出が再会によって鮮明に色付いてフラッシュバックする。
別れた当時より少しだけ長くなった髪に、出逢った時と同じ瞳。昔と現在の狭間で自分でもよくわからない感情が揺れ動く。
「……仕事しよ」
廊下の壁にごつんと頭を軽くぶつけて気持ちを無理やりに切り替える。戦場で気持ちを切らせるなど、戦意を失うなど死を間近に引き寄せる行為でしかない。
二人しかいないのに二手に分かれるのは悪手かもしれない。しかしまだ探索箇所が残っていてそこを調べないとならない。彼女たちを連れて行って、万が一キメラと遭遇した場合守り切るのは困難だ。
かと言って誘拐されていた二人を放置しておくのも怖い。そうなると結局一人は護衛に残り、もう一人は探索に向かうしかなくなる。
それがすべて無自覚な言い訳だと気付いたのは最後の扉を開く直前のことだった。
(相変わらず悩むのは仕事以外のことか――さて)
仕事以外のことは仕事をしていない時に考えればいい。
良治は抜いた刀を右手に持ち、左手でノブを回す。何の音も気配もなく無音だ。誰かがいるよう様子もなく、良治は中を覗き込んだ。
(階段……下に灯り)
扉を開けるとすぐに下り階段があり地下へと続いている。おそらく一階分下がったところに扉、その上に小さな光が灯っていた。
罠の可能性を感じて弱めに風を流してみるが変化はない。続いて小さな火を階段に沿って放つがこれも扉の前の床に当たって消えてしまう。
罠はないと判断した良治はゆっくりとコンクリートで滑りやすい階段を下りていく。
武骨で鈍色に光る扉に手を触れるが結界はない。あれほどの腕を持つ結界士ならここにも結界を張っているかと思っていたのだが肩透かしだ。
(何の音だ……?)
何かが響くような音が微かに聞こえる。エアコンや冷蔵庫のような駆動音だ。何か機械が動いているらしい。
そっと開けると中には電灯がついていて、頼りない光量ながらもその部屋を照らし出していた。
(ここが合成獣の研究部屋ってことか)
左側の壁を隠すように並ぶのは薬品の入った棚だ。こちら側から向こう側のドアのない小部屋の手前まで隙間なく並んでいる。
右側には大小幾つもの水槽。重い駆動音はこれらが原因だったらしい。空の水槽はなくそのすべてに何かの生物や、生物だったもの、そして生物の腕や足、内臓などが何かの液体の中に保管されていた。
全員でここに来るなんていう愚行をしなくてよかったと思いながら、良治は最奥の部屋である小部屋に進んでいく。
部屋の中央部にあった大きなテーブルには染み込んだ血の跡があったが、それ以外は綺麗なものだ。実験中の光景を視なくてよかったと心の底から思えた。
大きなテーブルを通り過ぎ、暗くなっていた小部屋の手前まで来ると壁にスイッチがあることに気付いた。おそらくこの小部屋の電灯だろう。細工がなさそうなのを確認してからぱちりと押してみる。
「これは……!?」
小部屋の中央にあったのはたった二つ。しかしその二つに良治は戦慄した。――これにとても似た光景を昔見たことがあると。
部屋の床に存在する直径二mほどの円形の魔方陣。そしてそれを覆うように存在する細かい網目の鉄籠。力が込められており壊すのは困難のように感じられる。例え良治でも武器がなければ無理だろうと思えるほどだ。
魔方陣は複雑に書き込まれたものでとても良治には再現することは出来そうにない。魔方陣作成は専門外だ。
しかしその書かれた文字や紋様などから、なんとなく昔見たことのある魔方陣と同じ雰囲気を感じ取った。
(これは、まさか召喚陣……?)
魔方陣の上に被さっている鉄籠という組み合わせ。以前見た時の魔方陣は召喚陣だったはずだ。それなら今回もそうかもしれない。
あの鉄籠は召喚されたものが逃げ出さないように、召喚者を襲わないように止めておくものだろう。
誘拐事件は本質ではなく、この場所の、あの男の目的は魔獣を使った合成獣の作成と研究にあったのだと、ようやく良治は理解した。
(予想以上の大事件だな。しかもこんな都心で)
もう被害は出ている以上あまり喜べはしないが、時間が経っていれば更に被害者は増え、キメラが街に放たれるようなことになっていれば百倍は被害者が増えたことは間違いない。
あの男に聞きたいことが増え、やはり生かしておいてよかったと思える。この規模の研究はたった一人で行うのは難しいだろう。研究はともかく外部に協力者がいるのは確かだ。
(あの男の背後に誰か……か、組織がありそうだな)
現在白神会に大規模な敵対組織はない。
東北の霊媒師同盟はあれから非常に協力的、陰陽陣も友好関係が続いている。四国の北斗七星は相変わらず互いに不干渉だが、内部に野心を持っているものはいないようでここ数年は内政に力を入れている。
九州全体を統括する神党は心配はいらないなと思考の外に出す。何故なら現党首の立花雪彦は子供の頃からの白兼隼人の友人だ。仲も良く、和弥の異名の一つとなった《魔王殺し》の一件でも彼自ら富士山麓まで来てくれたほどだ。
残るは北海道の北海道連盟だが、ここは周囲とは連絡を断っており情報がほとんどない。良治は脱退前に一度潜入したこともあるが有益な情報は得られなかった。
何年か前に何か事件があったとのことだがそれも噂レベルだ。連盟内部で幾つかの派閥や組織などがある、くらいしかわかっていない。
残るは小さなものか白神会に恨みを持つ個人だろう。それを考え出すと切りはないが。
(そういえば『白神会だけにはそれこそ死んでも従わんさ』なんて言ってたっけ。白神会に恨みを持つ集団……か?)
少なくともあの男が白神会に恨みを持っている、もしくは許し難い個人がいるのかもしれない。
考えてわかりそうなことはこれくらいか。そう判断した良治はもう一度だけ周囲を観察してから地下室を後にして薄暗い階段を上ることにした。
「あ、おかえり。何かあった?」
「ただいま。色々あったよ。で、世良さんは?」
女性たちが入れられていた部屋に戻り連絡したであろう世良の対応を聞く。今まで通りなら三十分以内には誰かしら到着するはずだ。
「あー、なんかわかんなけど世良さんに電話したら高村さんが出て、すぐに部下を行かせるって。ちょっと変な感じだったわ。世良さん病気でもしてるのかしらね」
「高村さんが?」
「うん」
高村はもう最終決定するのみで実際に仕事を回しているのは世良のはずだ。彼女はやる気もあり能力もそれなりにある。やはり高村が出て来るのはおかしい。
(もしかしたら何かあったか……? 何がってのは具体的にはわからないけど)
部屋に入る前に納刀してあった刀の柄尻に触れながら考え出すも答えが出るはずもない。誰かをこちらに寄越すと言っていたとのことで、その人に聞けば何かしらわかるかもしれない。
「あ、あの……良治、だよね? なんで――」
スーツ姿の女性――西風莉子が座ったまま上目遣いで良治を見つめる。瞳には戸惑いの色が強く、自分の置かれた現状に戸惑いながらも説明を求めているのはすぐにわかった。
「ごめん。今は何も答えられない。聞かない方がいいと思うから。そのうち警察も来るからそれまでここで待っててほしい」
「……うん、わかった。でも、そっか」
寂しそうに苦笑した莉子は一度目を伏せてから、再度彼に目を向けた。
「――これだったんだね。良治が隠してたことって」
「――……ああ」
沈黙の後、良治は喉を絞るようにそれだけを吐き出した。
ああ、これが、これこそが別れることになった原因だったと、ようやく理解した。
莉子は聡い人間だ。良治も隠し事はそれなりに自信はあるが、彼女はそれを見抜いていたようだ。
良治は白神会脱退後、退魔士という仕事と肩書きを捨てて生きていくことを決めて過ごしていた。だから良治はそれに関することは一言たりとも口にしていない。
だが彼の仕草や様子からきっと彼女は何かを感じ取ったのだろう。
それは疑念になり、不信に変化してしまった。
何か嘘を吐いている。それは彼女にとって関係を終わらせるに決定的なことだったのだろう。
「えっと、良治……知り合いなの?」
「……ああ。詳しいことは仕事が終わった後で話すよ。……ごめんな」
「それはいいけど……ううん、わかったわ」
「助かる」
結那も気付いたのだろう。良治と莉子の間に何か一言では言い表せないことがあったことに。
聞きたいことはあるはずだが、それを収めてくれた気遣いに感謝する。
「結那、俺は高村さんの部下が来るまであの男を監視しておくよ。ここは頼む」
「わかったわ。ここは任せて」
胸を張って答えた結那を背にして部屋を出る。莉子も誘拐されていたもう一人の女子高生も怪我はなくしばらく待たせても大丈夫そうだ。
何はともあれあとはあの男を引き渡せば今日の仕事は終わりだ。このビルに踏み込んでからそれほど時間は経っていないがそれでも濃縮された密度の高い時間。抜けそうになる気を引き締めて最初に部屋に戻る。
「あ」
「あ」
二人の男の声が重なる。
扉を開けた良治と結界に触れようとしていた男。
「……」
「……」
お互いが不意の出来事に硬直してしまう。二人とも歴戦の退魔士だというのに。
「……目が覚めたか」
「……ああ」
気まずい沈黙を破り、今の間をなかったことにして話し出したのは良治だった。あのまま黙っていても誰も得をしない。二人とも悲しくなるだけだ。
良治はゆっくりと歩き出し間合いを詰める。あんなちゃちな結界、あの男にとってはないも同然だろう。もう戦闘は始まっているのだ。
「まぁ、まて。話をしよう。まずは止まってくれ」
「話、か」
狭い結界の中で座ったままの男は掌を前に出して停止するように要請してくる。命乞いだろうか。
だが確かに良治としても聞きたいことは山のようにある。警察に引き渡してしまえば直接聞くチャンスはそうそうないだろう。もしかしたらこれが最後の会話かもしれない。
「話を聞く気になったか? と言ってもそっちの質問に答える感じだがそれでいいか?」
「ああ、それでいい」
周囲に気配はない。罠もないだろう。結界は張られたままだ。
一度破壊してもう一度自分で張ったということもない。破壊されれば良治に伝わってくる。
「じゃあもうちょっとだけこっちに来てくれ。腹を打ったせいか声が出しにくい」
腹をさすりながら溜め息を吐く男にやはり先ほどと同じくゆっくりと近づく。気絶するほどの衝撃はそう簡単には抜けないようだ。
一応の警戒として左手で鞘に触れた、その瞬間――
「ちっ!」
「ははは! これを躱すか!」
良治を制止する為に出していた右手から細く鋭い氷の矢が一本射出されたが、良治は何とか致命傷を避けることに成功した。
男は避けたと言ったが避け切れてはいない。心臓付近を狙った矢を反射的に動いた左手が掴んだ鞘で防御しただけだ。
矢は柄に当たって砕けたが微細な破片が飛び散り、思わず良治は片目を瞑ってしまう。
「ならば――!」
立ち上がった男は自分の胸に手を当てるとそこに力が集まってくる。結界はもう矢が放たれた時に破壊されている。阻むものはなにもない。
「お前、自分の身体を……!」
「その通りぃぃぃぃぃッ!」
ぼこりと身体のあちこちが膨らんでいき、汚れた白衣が破れその体積が増していく。それに比例するように力が増加していく。
(まさか自身の身体もなんて……!)
良治は自分の身体をキメラと合成したものなど見たことも聞いたこともなかった。だが冷静に考えれば、研究したことが成功し自信があればそういうことに手を出すことはなくはない。力を求めるだけならば当然の帰結ともいえる。
「だが――」
「あ……?」
横たわっているキメラと同じ程度まで巨大化していた男の、最後の言葉はそんな間抜けなものだった。
ごとんと重い音を室内に響かせ、落ちた頭の重みと地面に挟まれた眼鏡が割れる。
「悪いが準備が出来るまで待つ義理はないんでね。外道なら尚更に」
身体が膨らみつつあった男はその場から動くことが出来なかったようで、それはつまり良治には的でしかない。
そんな状態では攻撃してくれと言っているようなものだ。正々堂々の立ち合いなら控えるが、これは仕事で殺し合いだ。それも自分が殺された場合他に被害が広がる。こんな状況で無防備になった相手を良治が見逃すはずもなかった。
肩から崩れ落ちた男の身体をもう一度だけ近づいて確認する。大丈夫だろうがそれでも万が一があるのでこれだけはやらなければ気が済まない。
「……はぁ……」
これで全部が終わった。
生きたまま捕らえて情報を聞き出せなかったことは不満だが、それでも殺されるよりはいい。命は何物にも代えられないのだ。入手できなかった情報に関してはまた違う手段や機会があるだろう。
今回もまた生き残って仕事を終えることが出来た。そのことに安堵する。
いつ死んでもいいと思ってはいるが、彼にしては珍しく今死んでしまうことに心残りがある。
三人の彼女のことはもちろんそうだが、それと同じかそれ以上に二人の弟子を一人前に出来ないまま残すことに後悔がある。それだけは避けたいと、良治は脱力した身体で思っていた。
「……良治」
数十秒か数分だろうか、良治は背後から抱き締められた感触で現実に戻る。この声と感触は言うまでもなく結那だ。
「ごめん、心配かけた」
「ほんとよ、もう。すぐに戻ってくると思ってたのに戻って来なくて。向こうも離れちゃダメだから、両方を視れるように廊下から覗いたらずっと動かないんだもの。……バカ」
「ごめんて。ちょっと気が抜けてた。まぁ、全部終わったから」
振り向いて結那の綺麗な黒髪を優しく撫でる。
相当な心配をかけたのは確かだ。普段なら例え全てが終わったとしても気を抜いたりはしない。気を抜くのは家に戻ってからだ。
そのことを結那は当然知っている。長い付き合いと共に深い付き合いだ。
「すぐどっか行っちゃいそうなんだから、気を付けてよね……」
「了解。悪かったよ」
「……うん」
長い髪を梳くように撫でると少しだけ笑ってくれたことに安心する。
今後はあまり心配はかけないように心掛けよう。そう思った彼の耳に足音が聞こえてきた。
「あ、来たみたいね。続きはまた後で、ね」
「続きがあるのか……?」
いつもの結那らしさが見えたことにほっとして、良治は蹴り飛ばされてなくなった入り口に歩いていった彼女の背を追った。
【すぐどっか行っちゃいそうなんだから】―すぐどっかいっちゃいそうなんだから―
良治が脱退した時のことは結那の、そしてまどかと天音に傷を残すことになっている。
当時の良治はそれほど激怒し行ったことだが、今でもその行動自体はそこまで反省していない。しかし彼女たちを傷付けたいと思っての行いではないので、今後は同じことをするとしても一言くらいは残していこうと決めている。
――いつか彼はこの地を去ると、自覚をしている。




