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大人として

「ん……?」


 良治が次に目を覚ましたのは白を基調にした小さな部屋だった。

 ベッドで横たわる状態で見上げる天井は記憶にないもので、良治は静かに記憶を掘り返す――前に自分の現状を把握する方が重要だと判断して周囲を見渡した。

 小さな窓はあるがそこから入る光はなく、それは現時刻が夜ということを示してる。


(……病院、か?)


 彼が病院と判断しきれなかったのはガラス戸の棚などがあり、あちこちにも物が存在したからだ。

 清潔そうなベッドと雰囲気で、それらを総合してなんとなく彼は学校の保健室を思い出した。


「……ッ」


 扉が目に入り、外の様子を確認すべく身体を起こそうとした瞬間、背中付近に痛みが走る。


(……思い出した。刺されたんだった。となるとやっぱりここは病院で――)


 よく見てみれば服も変わっている。それこそ病院着のような白く余裕のあるものだ。

 身体を少し捻り、上下に分かれた服の上着の裾から手を入れて刺された個所を優しく触れる。


(包帯……治療はされてるっぽいな)


 腹部は包帯に巻かれていて、そうなるとさすがに傷は誰かが塞いでくれたのだろう。生きて起きれたことが何よりも証拠とも言える。


「――おや?」

「……こんばんは」


 ガチャリとノブが回り、現れたのは腰の曲がった老人だった。

 皺でくしゃくしゃになった顔はかなりの高齢を思わせる。


「ちゃあんと起きてくれて一安心じゃあ。儂の腕も落ちてないようで良かった良かった」

「ありがとうございます。助けてくれたのは貴方ですよね」

「うんむ。運ばれてきた時はびっくりしたわい。まぁ助かったようで何よりじゃ」

「改めてお礼を。本当にありがとうございます。それでここは?」


 ひょっひょっひょと笑う医師に、良治は少しだけ身体を起こして頭を下げる。

 特に言明されないあたり、眠っていたのは半日くらいのようだ。


「あぁあぁそのまま寝ておきなさい。ここは儂の医院じゃよ。さっきまでお嬢ちゃんと保洋が居たんじゃがもう夜も深いから帰らせたよ。子供は早く寝なくてならんからなぁ」

「なるほど。ありがとうございます」


 保洋はともかく郁未は子供という年齢じゃ――と思ったがこの老人から見ればどちらも子供だ。むしろ良治自身もその範疇だろう。


「まぁもう少し寝て起きなさい。ああ、腹が減ってるなら何か持ってくるが」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。もう少し寝ておきますね」


 動けると思ったがまだ身体を起こすのは億劫だ。ここは言葉に甘えて休ませてもらうことにする。この老人も悪い人間ではなさそうだ。


「また朝様子を見に来るよ、おやすみ」

「はい。おやすみなさい」

「――それにしても本当に上手くいって良かった。なんせ縫うのなんぞ三十年ぶりじゃったからのぅ」

「…………」


 あまり知りたいことでないことを言い残して扉が閉じる。

 ごくりと唾を飲み込み、もう一度なんとなく傷の個所に触れた。


(……まぁ、ちゃんと起きれたし、少し痛いけど我慢できるし、何より血が出てなさそうだから大丈夫……なはず、だよな)


 一抹の不安は残る。

 だが自分に出来ることは今はない。


(明日色々郁未に聞かないとな。その為にとりあえず寝て体力を戻さないと。それに保洋くんの処遇も考えないと――)


 目蓋を閉じた良治は今後やらないとならない事柄を考え出したが、その答えが出る前にすぐに深い眠りについた――








「――」

「……あ」


 ガタンと背中が、床が跳ねるような衝撃で唐突に良治は目を開いた。

 聞こえた声に視線を動かすとそこには心配そうな二人目の弟子の顔があった。


 バツの悪そうな表情を一瞬浮かべたが、ツインテールを揺らしながら彼女は良治の顔を覗き込む。


「おはよ、センセ。傷、痛い?」

「おはよう、郁未。ここは……飛行機? 今着陸した?」

「さっすがセンセ。うん、今着陸したところ」


 良治の身体はベッドのようなものに平べったいゴムのような素材のベルトで固定されており、郁未も座席に座りシートベルトを装着している。

 天井が低いせいか狭さを感じる室内にいるのは二人だけのようだ。


「起きるのを待とうかなって思ってたんだけど、手術したおじいちゃんが『出来るだけ早く専門の医者に見せた方がいい。儂は儂の手術しごとがそこまで信用出来んでな』って。」

「ああ……」


 眠りに落ちる間際の呟きを思い出し、郁未の判断は正しかったと感じる。良治としても感謝はあるものの、早めに白神会の影響のある病院や医術士である宮森かけるに診てもらいたい。


「それに……」

「それに?」

「その、優綺ゆきが『可能な限り早く戻って来て下さい。こちらの準備はしておきますから』って。ちょっと怖かった……」

「……なるほど」


 刺されて手術したと聞けばその反応は当然と言えるだろう。良治に意識がなく、直接話が出来なければ尚更だ。


「あ、この後病院に行くことになってるんだけど、それで大丈夫センセ?」

「ああ、それでお願い。……悪いけど俺の寝てた間のこと教えてくれ。病院に向かいながら」











「先生、無事ですか……?」


 飛行機から下りるとそこは良治の知る場所、行きも利用した調布飛行場だった。

 車輪付きのベッド――ストレッチャー――に固定されたまま移動させられ、側に用意されていたらしい車から出て来て声をかけてきたのは見知った黒髪の少女。一番弟子の優綺だった。


「――問題ない。ここからは車?」

「はい。こちらに」

「了解。すまないけどベルト外してくれ。もう立てるから」

「駄目です。先生はこのままこっちに来てください。郁未さん、さ」

「あ、うん!」

「ええ……」


 彼の様子を見て安心したのか、もういつも通りの表情だ。

 優綺は良治の言葉を退けるとすぐに郁未を促して車へ向かわせる。


 正直良治としても現状自分が大丈夫かどうかはわかっていない。

 しかし心配そうな優綺を見て、安心させたいと思いついそんな言葉が口に出ただけだ。


 傷の痛みはそこまでではない。昨日感じたものと同程度だ。

 だがずっと横になっていたのでちゃんと動いてくれるか、それは不安ではある。だがきっと無理やり動かそうとすれば動いてくれるだろう。


「……先生は無理をしがちなんですから、怪我や病気の時くらいはちゃんと休んでください」

「善処しよう」

「もう」


 珍しく頬を膨らませた優綺に、良治は思わず頬を緩ませる。

 感情豊かに感じるのはそれだけ心を許してくれるようになった証拠だろう。知り合った当時はもっと緊張感があったはずだ。


「うん、意識があるようで良かった。このまま病院に行くよ」

「翔さん、すいません」

「いいよ。外科手術は私の専門外だからね。一度医者に診てもらわないと対応に困る」


 ストレッチャーの車輪部分を畳む作業をするのは郁未と、待ってくれていた宮森翔だ。東京支部所属の彼は運転手兼この後の治療役だろう。


 温和で理知的な翔には人を、患者を安心させてくれる柔らかな雰囲気がある。毎回のことだが良治はそれをとても心地よいと感じ、同時に有難いとも思えた。


「迷惑かけてすいません」

「はは、これくらい大したことじゃないさ」


 ワゴン車の後部から運び込まれ、車体に紐で固定される。座席がないそのスペースにしっかり固定されたことを確認すると、翔は運転席へ行き、優綺と郁未はそのまま横たわった良治の脇に座った。


「どうしました?」

「ああ、いや。なんでもない。気を付けて」

「はい」


 良治は免許を持っていないのでなんとも言えないが、これは道路交通どうこう法違反ではないかと思った。

 しかし怪我人がいる場合などどうなるのかはわからなかったので結局濁してしまう。

 ちなみにやむを得ない状態ならシートベルトを着用しないでも違反にはならないのだが、良治はともかく二人はしっかりと違反している。


「それで、どうしてこんなことに?」

「ああ……その前に郁未から話を聞きたい。あの後のことを」

「あ、うん」


 郁未が教えてくれたのは良治が意識を手放した後のこと。


「センセを病院に連れて行って起きるのをずっと待ってたんだけど起きなくて……結局おじいちゃんに言われて保洋くんと一緒に帰ったの。帰ったらすぐに保洋くん倒れるように寝ちゃって、私はあのお婆ちゃんと話をしたの」


 東雲千代との話。

 涙を流し頭を下げ続ける千代の話を彼女なりに整理して言葉を続けた。


「保洋くんの両親はあんまり力が強くなくて、でも強くなろうとして色々挑戦や実験をしてたんだって。でもそれが上手くいかなくて……保洋くんを残して二人とも亡くなって。

 お葬式の時に保洋くんがどんなことを聞いたのか、お婆ちゃんは知ってたって。それでそれからずっと『二人は立派な退魔士だった』って言い続けてたみたい」


 事故で亡くなった両親を、幼い孫に駄目な親だったとは言えないだろう。千代の立場ならそれが当然のことだと理解出来る。


「でも三宅島には他に退魔士もいなくて、お婆ちゃんも歳のせいでもう大した術も使えなくなってて。保洋くんは自己流で木刀を振るう毎日だったって」


 指導者もいなく、教えることも出来ない孫を見るのはつらい毎日だっただろう。

 東京支部も同時期に葵の父親である南雲孝保を亡くしており、千代の頼みを聞ける状態ではなかったはずだ。むしろ誰か派遣してほしいという頼みを断られた可能性の方が高そうだ。


「何度も何度も、もうわかんないくらい謝ってて……辛かった。辛すぎてもう寝るからって逃げちゃった。

 なんだか私のお婆ちゃんも、きっと私がおんなじ事したら同じことするのかなって思ったら耐えられなくなっちゃって」


 両親がいないという境遇は郁未と保洋は共通している。だからこそ重ねて見てしまったのだろう。これが弱さなのか同情なのか、それはわからない。


「で、これからは今日の朝起きてから、保洋くんから直接話を聞いたことなんだけど。

 あの魔族を見たって言うのは半分しか合ってなかったの。本当はあの魔族に見つかって殺されかけて脅されたって」

「脅された?」

「うん。助かりたかったら他の人間の命をよこせって。それで、もしかしたら倒せるかもしれないって思って――お婆ちゃんに『魔獣を見た』って言ったって」

「なんで魔族を見たって言わなかったんだ?」

「そこは私も聞いたの。なんでって思ったから。そしたら魔族がいるって言っても信じてくれないんじゃないかって。もし信じても魔族なんて勝てないから放置されるんじゃないかって思ったみたい」

「ああ、そうか……」


 魔族。魔界というこの世界とは違う世界の知性ある住人。

 以前起こった事件以来出現することが増えたが、それでも目撃例は少ない。島という小さな地域に住んでいる保洋から見ればそれは伝説上の存在だ。

 それに長く大した関係、連絡を取っていなかった白神会が魔族に対してどんな対応をしているのか、してくれるのか保洋にはわからないことだ。


 そして命が惜しければ他の人間を生贄に出せという魔族の要求。これに保洋が抗えなかったこと。これは受け取る人間によって思うことは様々だろう。

 退魔士なのだから魔族と戦え。

 他の人間を犠牲にして生き残ろうとするのは人間としてあり得ない。

 そんなことを言う者も多いだろう。


 だが実際に自分がその立場になった時そう言えるのはどれくらいなのだろうか。断れば間違いなく死ぬ場面で、それを言える者は少ないはずだ。死を選ぶことは愚かだと非難する者もいるかもしれない。


 良治はおそらく選ばないだろう。何故なら良治には覚悟がある。力があるからだ。

 だがそんな覚悟のない、力のない人間はどうするのか。何が正解なのか。


 この疑問に正解はない。そう思える。

 だからこそ良治は保洋の選択をとやかく言うつもりはなかった。


(こんな話、昔もあったな)


 思い出すのは彼が高校生の頃の出来事だ。

 高校の先輩が魔族に脅され、毎年生贄を捧げることを強要された事件。

 その先輩は脅しに屈して、七不思議という隠れ蓑を使い生徒を魔界へ送り続けていた。


 自分の命を救う為に誰かの命を犠牲にする。

 この究極の選択で率先して自分の命を捧げることの出来る人間は少なく、目の前で死ぬところを見なければ見て見ぬふりをしてしまうかもしれない。


 保洋は退魔士とは言い切れない微妙な立場だ。ろくに教えを受けておらず、力もない。中学生の子供に何が出来るというのか。


 良治は立派な倫理観を翳せるような生き方をしてきていない。

 魔獣を、魔族を殺し、敵対する人間も殺してきた。

 これを反面教師として、後悔のないように、恨みを出来るだけ買わないように生きろと良治が言えるのは、押し付けられるのは二人の弟子だけだ。

 冷たいようだが良治が保洋にそれを教える義理も義務もない。


「――保洋くんは大人を信用してなかった。それは仕方ないと思う。だってそう思わせたのは大人だもの。お婆ちゃんは傷付けることが嫌で、お葬式に来た大人は心無い言葉を言ってしまった。あんな狭いせかいで、それだけがあの子の心に残ってしまった」


 一人の子供を大人たちが追い詰めてしまった。それは事実だ。

 郁未は静かに深く息を吐く。

 そして。


「――でも、それはそれとして保洋くんはやってはいけないことをしたと私は思うの。信じられないからって勝手に自分で判断したり、誰かを犠牲にしたりするのは間違ってる。だから今朝すっごく怒ったし叱ったわ。きみがしたことはしちゃいけないことだったって。

 特にセンセを刺したこと、あのことは私今でも許してない。自分勝手で絶対に許せないことだもの」

「まだやり直せるって言ってたの、郁未じゃ……」

「だ、だってあの時は、センセがこんなに大怪我してるとは思ってなかったし……だから、大丈夫かなって。あ、でも刺したことそれ自体にはちゃんと怒ろうって思ってたよ? ただあそこで感情的になったらダメかなって思っただけで」


 刺された場面は見たが傷口は見えなく、黒シャツを着ていたのでどれだけ出血したかはわからなかったはずだ。


 彼女からは刺されはしたもののすぐに立ち上がり話を聞いていたのでそこまで重傷には見えなかったようで、よく考えてみれば良治は倒れてからも立ち上がってからも、出血部分は郁未から見えなかったことに気付いた。

 背中を刺されたが、それ以降郁未と保洋を視界に納めていたので見えなかったのは当然だ。


「……凄いな、郁未は。怒ったのか」

「しちゃいけないことしたら怒るって。私はそうするって決めてるの。私はされたら嫌なこと、今までいっぱいされたけど、それをした人たちを怒る人はいなかったから。だから私はダメなことをする人がいたら怒る人になりたいなって。それが子供なら特に」

「……なるほど」


 はっきりと言った郁未に良治は素直に感心した。

 悪いことをした子供を叱るということ。言葉にすれば当たり前のことなのかもしれないが、それを出来る大人は自分を含めて減ってきた気がする。

 そしてそれを自身の経験から行おうと考え、実際に実行した郁未が、良治はとても大人に見えた。


「えっと、ダメ、だった……?」

「いや別に。それで良かったと、俺は思うよ」


 自分の考えとは違うが郁未の行ったことは尊いことだと思えて――良治は微かに笑った。


「でさ、その。保洋くんはやり直せると、思う?」


 その問いは、彼にどんな責任を取らせるか。そう意味だ。

 目撃者は良治と郁未の二人だけで丸く収めようと思えば出来るし、厳しくしようと思えば一番重いものにでも出来る。


 すべては良治の胸三寸次第だ。


「でも組織としてはちゃんと処罰しないといけないと思います。どうするんですか、先生」

「……そうだな。そこはなぁ……」


 聞き役に徹していた優綺が硬い表情で尋ねてくる。事の重大さを理解しているのだろう。


 良治を刺したこと、それは白神会に対しての明確な裏切り行為だ。

 組織としては許せることではない。


「そういえばあれは狙ってやったことなのか? 魔族を倒せるならそれで良さそうなものだけど」

「あ、あれは計画してたわけじゃないみたい。傷付いたセンセを見て思いついたって。どっちにしても許せないことだけど」

「突発的な犯行、か。色々歪んでるけど、まぁ誰も被害が出なかっただけマシか」

「――ね、センセ。それ本気で言ってるの?」

「先生が被害に、殺されかけてるんですけど」


 二人が真剣な表情で詰め寄ってくる。

 この感情は怒りだ。彼女たちは真剣に、怒っている。


「そうだな、うん。その通りだ。それを含めて考えないとな」

「うんうん」

「はい、そうしてください」


 そう言ったものの、今回自分が刺されたことを良治は勘定に入れていない。

 だがもしも郁未や優綺が刺されたのなら烈火の如く怒るだろう。もしくは氷のように冷徹にかもしれない。


 命を奪い続けてきた故に、いつどんな死に方、殺され方をされても仕方ないと思って生きている良治は自分の命に興味が薄い。

 残していく者たちに悪い、すまないという思いがあるがそれだけだ。


「まぁ考えておくよ」

「そうしてください」


 裏切りは重罪であり、殺されて当然の行為だ。

 今後のことも含めて厳正に対応しなければ組織自体に影響が出かねない重要な案件だ。


(恨みはないが、さてどうしようか)


 恨みはない。そう思う良治は、自身がおかしいことに気付かないまま病院までの道中思考を巡らせた――












 東雲保洋に対する処分。

 悩んだ結果、良治は公式な処分はしない方向に決めた。


 色んな意見はあるだろう。裏切者は子供と言えど厳罰に処さなければならない。そんなことを言われるかもしれない。

 だがそれは知られたらの話だ。良治は今回の事件の負傷を魔族によるものとして書類に纏め、報告することにした。


 だがそれでは彼の為にならない。反省を促さなければ、また同じことを繰り返すかもしれない。


 そこで良治は個人的に手紙を書くことにした。

 手紙の内容は肉体を鍛え上げる訓練のメニューだ。

 かなり、というか中学生レベルのメニューではなく成人男性向けのメニュー。これを真面目にやるなら他のことをやる余裕などない。


(甘いんだろうな、俺は)


 処罰とは言えないだろう。

 だが間違ったことをした子供にするのは何が正しいことなのか、良治にはわからない。


 しかし良治は一度間違えたからといって、それですべて失うようなことが良いことなのか。そこに疑問を覚えてしまった。


(一度くらいはいいさ。間違えない人間なんてこの世にはいない。二度目の過ちをしなければ)


 やり直す機会を与えること。

 彼より年上の『大人』として、良治はそう答えを出した。


 一度は厳しい処分を白神会から下そうとも考え綾華に連絡を取ろうとしたが、結局携帯電話を手に取ったところで考え直した。

 あのまま電話をかけていればきっと、保洋の長期間の島からの外出禁止、そして東雲家の相続権の剥奪となっていた。これが実行されていたなら東雲家は潰れることになったかもしれない。


「――どうぞ」


 書き終えた手紙を封筒に入れた良治は、ふと扉の向こうに気配を感じて声をかける。

 躊躇するようにゆっくりと開かれた扉から姿を現したのはポニーテールの彼女だった。


 ここは八王子近くの病院の個室。翔の運転で来た場所だ。

 治療はすべて終わっており、念の為一日だけ様子見することになっていた。


 優綺と郁未は今回の件について口外を禁じて良治の自宅に帰らせようとしたのだが、二人とも一日くらいなら待つと言い出して結局近くの東京支部に泊まることになった為病院にはもういない。


「何か集中してたみたいだから」

「ああ。でも気にしないで入ってくればよかったのに」


 手紙をしたためていたことだろう。考えながらだったのでまどかの気配に気付けなかったようだ。


 まどかはベッド上で上半身を起こした良治の近く、パイプ椅子に座ろうとしたが、良治は少しだけ身体をずらしてスペースを開ける。

 まどかは少しだけ迷ってベッドの端に腰かけた。


「邪魔しちゃだなって。それよりも身体、大丈夫……?」


 心配と悲しさの入り混じった彼女を見て苦笑する。相変わらず心配性だなと。


「大丈夫だよ。むしろ後処理の方が面倒で気が重かったくらいだ。だからまぁ、気にしないでいい」

「もう……良治は強がるから安心出来ないよ。それで後処理って?」

「誰もが納得する結論はないって話だよ。まぁそんなのいつものことで、何処にだってある、よくある話だけど」


 裏切者には死を。

 保洋を殺し、千代にも責任を追及し処分して東雲家を消し去る。

 こうすれば禍根はなくなり、この件を公表すれば今後は馬鹿なことをする者も減るかもしれない。


 だが子供を殺したいとは思えなかったし、禍根を断つ為だけに千代まで処分することも良治は選びたくなかった。


 誰もが納得する答えなどない。

 ならば少なくとも自分が納得出来る答えを選んで生きていきたい。

 理解してくれなくてもいい。まず自分が納得すること。それが何よりも大事なことだ。


「どうした?」

「駄目?」

「いやいいけど」


 まどかがそっと手に触れてきて、なんとなく、ようやく気持ちが安らいでいく気がした。


「たくさん疲れたし、傷付いたよね。だからゆっくり休んで、ね。ちゃんと休まないと立ち上がれなくなっちゃうから」

「そうだな。……ああ、本当に疲れた。もうこんな思いはしたくない。しばらく寝るだけの日を過ごしたい」

「ふふ、やっと気が抜けた? うん、それでいいと思うよ。良治は自分が好きなようにして、私はそれを見たり助けたりするのが幸せだから」

「……ありがとう」

「どういたしましてっ」


 感謝の言葉を素っ気なく言った良治の目に映ったのは、まどかの曇りのない笑顔だった。


「ね、治ったらデートしよ? 最近そういうの、してないし」

「うん、そうだな。二人でゆっくり、何処か出掛けよう」


 思えばなんだかんだ言って二人で過ごす時間がなかったように思う。

 結那と天音は上野支部で毎日会うが、東京支部に残ったまどかはそうもいかない。


「うん、ありがとね」

「こちらこそ。いつも、本当にありがとう」


 深い感謝を。

 いつも一緒にいてくれることに、愛情を向けてくれることに。

 良治はまどかを衝動のままに抱き締めた。


「う、嬉しいけどちょっと痛い、かな……?」

「ごめん」

「……お返しっ」


 今度はまどかが抱き締め返し――二人は笑い合った。



【縫うのなんぞ三十年ぶり】―ぬうのなんぞさんじゅうねんぶり―

とある島の医者がぽつりと言った言葉。

開業医は定年がないのでかなりの真実味があり、実際九十を超えても医者を続ける者もいるらしい。

しかし診てもらう、更に言うなら手術等を受ける側からすれば不安なことこの上ない。

そろそろ後継ぎがいるのなら引退してほしいというのは島内の総意、らしい。

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