雄山へ
「それにしても、よぉおいでなすった。葵ちゃんと子供は元気かのぉ?」
「はい。お二人とも元気です。直接来れないこと、申し訳ないと言伝を受けております」
「えぇよぉ。大変な時期さね」
お互いに挨拶を終えた、東雲の屋敷の一部屋。
そこで良治と郁未がテーブルを挟んで話をしているのは一人の老婆。そして彼女の隣にはまだ若い、中学生くらいの男の子が所在なさそうに座っている。とても居づらそうだ。
東京支部と同じかそれ以上の広さがあるかもしれないこの屋敷は全体的に年季が入っていて、ともすれば傷んでいる個所もあるように見えた。
この家にはもうこの二人しか住んでいないようで、手入れが行き届いていないのだろう。
昔はこの広さが必要な時期があっただろうにと、なんとなく寂しい感情を良治は持った。
「そういやぁあんたとも会ったことはあるんねぇ」
「え?」
「もう二十年くらい前かのぉ。引き取られてきた時になぁ」
「ああ、あの時に」
懐かしい、もう良治の記憶があやふやな頃の話だ。
確かに引き取られた頃に、南雲の家族や親戚と会った記憶はある。
今目の前に座っている優し気な老婆の名は東雲千代。東雲家の現当主だ。その隣の男の子は孫の保洋と言うらしい。彼の挨拶は声が小さく少々聞き取り辛かったが。
「孝保の坊の見送りにも行きたかったんやけどねぇ。こっちもばたばたしててのお」
「ああ……それは仕方ないですね」
千代の言う孝保とは葵の父親、そして良治にとっては退魔士としての師匠に当たる。間違いなく碧翼流の剣術は彼から教わったものであり、今でも良治の基礎となっている大事なものだ。
孝保は良治が高校に上がった年に病気で亡くなり、あれからもう十年も経つのかと思うと驚くばかりだ。
「すいません、懐かしい話もしたいのですが、今日は目撃されたという魔獣の話を……」
「おお、そうだったのぉ。年取ると昔話が好きになって仕方ないさね。保洋、話しておやり」
「う、うん」
時間が許せば良治も昔の話をしたい。
未熟な頃の、訓練に訓練を重ねていた日々の話だが、それでも自分の師匠の在りし日の姿を思い出せるのなら、知らない姿を聞けるのならそれはとても嬉しいことだ。
だが今はそのタイミングではない。
もし本当に魔獣がいるのなら、その対応次第で死傷者が出る可能性がある。昔話はそれが全部終わってからだ。
「ボクが見たのは、おっきなトカゲみたいな動物で……初めて見た。今まであんなの見たことなくて……」
「トカゲ……爬虫類か。見た場所と大体の大きさは?」
「えっと、雄山の南の方。大きさは……これくらい、かな」
「……なるほど。それなら魔獣の可能性があるね」
保洋は少したどたどしくも頑張って説明してくれる。
両手を広げたくらいだという大きさの爬虫類。今まで島で見たことがなかったことから可能性はある。
もしかしたら島外から誰かがコモドオオトカゲでも連れてきたのかもしれないが。
「ね、でっかいトカゲみたいなのがこの島にいるってこと?」
隣の郁未が若干小声で尋ねてくる。正座に慣れないのか足の指先がもぞもぞと動いているのが面白い。良治は早めに話を聞き終えて立ち去る方向に決めた。あまり初対面の相手に間抜けな姿を晒すのは、例え郁未でも嫌だろう。
「そうなるな。ええと、保洋くん。そのトカゲを他の人に見られたりは?」
「たぶん、ないはず」
「じゃあトカゲを見た時の状況を出来る限り詳しくお願い。何かしらヒントがあるかもしれないし」
「あ、うん……。島の南にある小さな神社に挨拶をした帰りに、何か茂みからガサガサって音がして……気になって見に行ったら、その、トカゲがいて……」
ちらちらとこちらを見たり見なかったりと、落ち着きのない様子で喋る保洋。ただその表情は蒼白で、当時見たことを思い出しているのは明白だ。
嫌な、怖いことを思い出してもらうことに若干の罪悪感はあるものの、そうして話してもらわなければ良治も困ってしまう。良治に出来ることは急かさず、自分の言葉で話してもらうのを待つだけだ。
「それで、そのトカゲ、変な感じがして……それでお婆ちゃんにそのことを話したんだ……です」
「そんで葵ちゃんに電話したってわけさね。保洋ありがとぉなぁ」
やせ細った手で孫の頭を撫でる千代。どうやら孫を溺愛しているようで微笑ましくなる。これは彼の両親がいない影響かもしれない。
「う……ボク宿題があるから行くね。ごめんなさい……」
「えぇよぉ。頑張ってな」
結局説明はしてくれたが、碌に目も合わせないまま保洋はそそくさと立ち上がって部屋を出て行ってしまう。千代もそれを止めなかったが良治としても不満はない。
ただ性格的なものなのだろうか、あまり人に接するのは得意ではないようだ。もしかしたら宿題というのも建て前かもしれないが、それは疲れてしまっただろうし仕方ないことだ。
部屋を出る時にちらりと郁未の方を気にして見たのも思春期の男の子なら仕方ないだろう。
「……保洋くんは退魔士としてはどれくらいなんですか?」
足音がしなくなってから良治は千代に彼のことを聞く。
手元に保洋の情報はない。
京都支部の良治命名『白神会退魔士大全』には彼の名前しか記されていなかった。数人ばかりそういった人物もいたが、保洋の場合は年若く僻地に生まれ育ったことが原因だろう。
そんな関係で良治は彼の名前しか知らなかった。
「毎日木刀は振るぅとるよ。でも相手がおらんし、どれだけ出来るかはわからんねえ」
「退魔士の素質は……あるんですよね」
「あの子の両親もそれは立派な退魔士でなあ。素質はあんけど、中々なあ……」
気配は消していたが、それでも感じ取れていたので素質はあると見当はつけていた。だがそれがどの程度なのかはわからないので聞いてみたのだが、あまり参考にはならなそうだ。
両親が退魔士という話は葵から聞いて知っていた。ただその両親の実力も不明なままだ。
「ありがとうございました。それではまた明日来ますので、保洋くんと一緒に現場まで――いえ、すいません。現地で集まりましょう。目撃した神社の前でということで。それで――」
ここに集合してから神社に移動ということになると、移動手段はやはり車ということになる。
さすがにまだ若い中学生男子にトラウマを植え付けたいとは思わない。出来るだけその機会は減らしてあげるべきだ。犠牲になるのは自分だけでいいと心の中で諦観する。
その神社の名前を聞き、良治と郁未は行きと同じ道を同じように車で帰ることになり――良治は夕飯の時間までぐったりすることになった。
「センセ、ごめんね……」
「私も昔の話だし、誰かが話してたのを聞いただけだから鵜呑みにはしないでほしいんだけど――」
「それで大丈夫です。お願いします葵さん」
翌日の朝早く、良治は泊まったペンションの洗面所から東京支部の葵と電話をしていた。密な連絡の重要性を理解してのことだったが、葵はあまりピンと来ていないらしく反応は芳しくなかった。
連絡を入れ葵から折り返してきたのは一時間後のことで、かなり眠そうな声だった。悪いとは思ったが良治よりも葵の方が情報を持っているのは確かだ。
今回の大型の爬虫類が目撃された件。
それよりも良治が気になったのは東雲家のことだ。
三宅島に他の退魔士は存在せず、今は千代と保洋の二人だけ。では以前は、保洋の両親はどんな人物だったのか。
何かが引っかかる。他人の家の事情などに興味のない良治には珍しいことだ。だが一度生まれたもやもやは一晩経っても消えず、それならいっそのこと聞いて解消してしまうことにした。
「東雲家は、千代さんはともかくその息子さんはあまり素質はなくて、嫁いだお嫁さんも辛うじて霊が見えるくらいの人だったみたい。だから東雲家を悪く言う人もいて……事故で二人が亡くなった時も……」
「事故?」
それは初耳だ。
だが保洋の両親ということはそれほど歳がいっているわけではないだろう。寿命は考えにくく、勝手に良治は仕事で亡くなったとばかり思っていた。
「うん。何かの実験中に事故で二人ともって。父さんが亡くなる直前だったはずよ。よく覚えてるわ」
千代の言っていたバタバタしていて、というのはこのことかと合点がいく。息子夫婦が亡くなった直後なら仕方ないだろう。
「私が知ってるのはそれくらいかな。……あ」
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
「うん。じゃあ気を付けて」
「はい、では」
電話の向こう側から泣き声が聞こえて来たのでこちらから話を切り上げる。もう十分欲しい情報は得られた。
携帯電話片手に洗面所から移動すると、そこにはまだ布団に包まったままの郁未がすやすやと眠っていた。口が半開きでだらしない。
それなりに距離を開けて敷いておいた布団が近づいているように見えるのは気のせいだろう。
若干呆れながら着替えを鞄から取り出し、本日の予定を脳内で確認していく。
まずペンションで用意された朝食を取り、十一時の待ち合わせに間に合うように出発。さほど時間はかからないだろうが郁未の運転を考慮すると三十分前くらいには出ておきたい。
そして実際に目撃した場所に行き、保洋の話を聞きながら周囲の散策ということになるだろう。
今日中に発見出来れば儲けもの、くらいの気持ちで、個人的には目撃された場所とその周囲の下見が目的なようなものだ。
土地勘のない良治では、目標が魔獣で逃走した場合捕まえきれない。それを予防する意味での下見だ。
「うぅん……」
声に振り返ると、寝返りをうった郁未が目に入る。
ペンションなのに普通に和室で、現在良治と郁未が着ているように寝間着用に浴衣も用意されていた。
「……」
良治は沈黙の後、静かに郁未から視線を逸らす。
布団を蹴飛ばし、はだけた太ももは目に毒だ。仕事モードで戦闘に集中している時ならいざ知らず、まだ若干眠気の残る二人きりの部屋など何が起こってもおかしくはない。良治だって健全な男性だ。――彼女が三人もいる、とても健全な男性だ。
そもそも一部屋になったのは郁未の意向で良治は二部屋取ろうとしたのだが、『今も一緒の家で寝泊まりしてるし、べ、別に変わらないんじゃない?』と言い出したのが理由だ。
悩んだ末結局こうなったのだが、今では若干の後悔がある。
ちなみに郁未が提案したのはちょうど優綺が席を外していたタイミングだったのは穿ち過ぎかもしれない。
(しかし事件の内容とは別に、早めに仕事を終わらせないといけなくなった気がするな)
別に良治は鋼の理性を持ち合わせているわけではない。
自身を雰囲気に流されやすいところもあると思っている。
だからこそ常に謙虚で卑屈に、真面目であまり他人の事情に突っ込まないようにしていた。特に女性には気を付けていて、女性と二人きりでは飲酒を控えている。
(――決めた)
東雲家に引っかかることはあるが、何よりも優先すべきは事件の把握と解決だ。
もう下見などとは言わず、終わらせることが出来るなら、可能な限り早く終わらせる方向でいこう。
毎夜魅力的で可愛い女性の寝姿を見るのは毒以外の何物でもない。
昼は昼で車酔いで死にそうになる。
それらを考えたら早めに終わらせる以外の選択肢などない。あり得ない。
「……とりあえず起こすか」
起きてくれれば余計なことを考えないで済む。
そして良治はよだれを垂らしている金髪美女の肩を揺らした。
「あの、この辺です……」
保洋の案内で雄山南部にある森に立ち入る。
初夏に近付いているせいか木々の葉も薄い緑から濃い緑に変わりつつある。むせるようなとはまだ言わないが、気持ちのいい草葉の匂いが鼻腔から入ってきて爽やかな気持ちにさせてくれる。
「なるほど……それでどの辺にそれはいたの?」
「あ、えっと……あの辺です」
「ふむ」
保洋が指を差したのは今三人がいる森の入り口から更に深い場所だ。距離はあるが斜面になっており、確かに目撃出来そうな位置だ。
「郁未、何か見える?」
「うーん……おかしなものは見えないかな。小さな鳥がたくさんいて可愛いくらい」
眼鏡を上にずらして魔眼を発動させるが、郁未の目には特に異常は見られないようだ。周囲も見ていてくれているが反応はない。となると少なくとも現在視界内には危険はないと言えるだろう。
「ね、保洋くんってばいつから退魔士になったの? 訓練っていうか修行っていうか、そういうのは何歳くらいから?」
先頭を歩く良治の耳に、後方からそんな言葉が聞こえてくる。
良治が東雲家に思うところがあることを郁未は知らない。話していないし、葵との電話の時に彼女は深い眠りについていた。
「えっと……生まれた時から、になる。昔は父さんと母さんにたくさん教えて貰ってたから」
「お父さんとお母さん?」
「……うん。小さい頃に事故で死んじゃったけど、それまでは。お婆ちゃんは立派な退魔士だったって……」
「あ……ごめんね、変なこと聞いちゃって。ごめんなさい」
神妙な雰囲気で謝る郁未。
だがその中に優しさが感じられる声音。
「ううん、もう、昔のことだから」
「保洋くんは強いなぁ。私も今は両親いないし、お婆ちゃんしかいないから、ちょっとだけわかるかな」
「そう、なんだ……」
その話は良治の知らない話だ。
自分が今聞いていいのか不安になるが、数歩前を歩く程度の距離しかない。聞こえていることを許容してるとは思うがどうしたらいいのかわからない。
結局良治は聞こえていない振りをすることにした。何か尋ねられたら反応すればいい。
そう決めて、良治は歩調を緩めずに歩き続けた。
「……ね、センセ。さっきの話聞いてた?」
郁未がそう聞いてきたのは山中を一時間ほど歩き、保洋に疲労の色が見えて休憩に入ったタイミングだった。
保洋はちょうどいい木の根に座り、何故か思いつめたようような、疲れたような、何か悩み事があるような表情で俯いている。
良治が見ていることに気付くと、彼は目を逸らして背中を向けてしまう。どうやら休憩中まで関わりになりたくないようだ。
「ん、まぁ。聞こえてたよ」
「やっぱり。聞こえてると思って喋ってたから全然いーんだけど。……聞かないの?」
気を背にして周囲を伺っている良治。その近くにあった手頃な石に腰かけた郁未が良治の表情を伺う。良治の位置からだと保洋がちらちらと郁未を見ているのがわかるため、なんとも面白い構図だ。
「別に。話したければ聞くけど、って感じかな。あんまり踏み込むのは好きじゃないから」
「あー、センセそういうとこあるわよね。どうして?」
「どうしてと聞かれても。……単純に興味がないからじゃないかな」
「う、厳しい……でもわざとキツイ言い方してない?」
「そんなことないよ。……だから別に郁未は気にしなくていい。話さなくていいし、話したくなったら話せばいいさ」
言葉を選んで意図的に厳しい言い方をしたのは確かだが、それでも言い直すほどニュアンスに違いはない。
良治は去る者は追わない主義だ。踏み込んでこないのなら適度な距離感を保ちながら過ごす方がお互いにとっていいことだと考えている。
「たぶん、近いうちに話すと思う。センセ優しいし」
「今のやり取りの何処に優しさが」
「だってさ、センセ――聞きたくないとも聞かないとも言わないじゃない。私がちゃんと話すって決めたらちゃんと聞いてくれる。それはきっと優しさだって、私は思うもの」
「――そんなことないさ」
真っ直ぐに向けられた言葉と感情、そして視線に良治は視線を逸らして否定する。
単に良治は話を聞くくらいならしてもいいと思っただけだ。
自分の生徒の話だ。少しくらいなら聞いてもいいだろう、その程度の気持ちだと良治は――
「センセ、照れてる?」
「違う。ほら、休んでてもいいけど――?」
「どしたの?」
「いや……」
近くの茂みががさりと音を立てた。
気のせいではない。微かだが、僅かに、確かに聞こえた。
「郁未、その辺見てくれ」
「う、うん」
警戒をしながら小声で指示を出す。保洋も立ち上がり、転魔石で木刀を喚び周囲を注意している。中々の判断力だ。
「ひっ、せ、センセぇっ!」
「静かに。何がいる?」
怯え出した郁未に固い声で問いかける。大きな声を出せば刺激してしまうかもしれない。既に郁未の声で刺激しているかもしれないので良治も転魔石で刀を喚び出して茂みを注視する。
「へ、へ、へ」
「へ?」
「蛇がっ、うわあ気持ち悪い……っ! 蛇だけは駄目なのぉ……」
「……了解した」
涙ぐみながらも茂みから目を離さないことに評価をしつつ、良治は郁未を守るように一歩前に出る。
良治には蛇がいるはずの場所からは特に何も感じられない。魔獣なら気配を消すようなことはまずないため、本当にただの蛇の可能性が高そうだ。
「あ……離れてく」
「それは良かった。見た目は普通の蛇だった?」
「うん……普通って言うのがどんなかはわかんないけど、細長い感じの」
「そっか。ありがと」
保洋の目撃談とも当て嵌まらず、魔獣の気配もない。ただの蛇だと思っていいだろう。
こっちを見ていた保洋はまだ木刀を構えている。
それを見て良治はひとまず警戒を解くように声をかける。
「保洋くん、今のはただの蛇だったみたいだから大丈夫。もう少し休憩したら出発しよ――がっ!?」
「センセッ!?」
気を抜くように言ったその瞬間、良治の肩に激痛が走った――
【白神会退魔士大全】―はくしんかいたいましたいぜん―
良治命名の京都本部にある白神会所属退魔士のデータ集。と言っても更新頻度はまばらで、容易に行き来出来ない場所の退魔士のデータは古いことが多く、その場合は名前程度の場合もある。
逆に京都本部や三大支部などの退魔士は年に一回更新されるため確度は高い。女性の身体データもあるが、それはトップシークレットになっており担当の者以外には閲覧できないようになっているらしい。




