混沌ビルの挨拶回り
満足気な表情で座り直す結那と良治を郁未は交互に見るが、自分の中でまだ理解しきれていないようだ。
それはそうだろう。数分前に初めて会った女性と好意を持ち始めていた自分の先生がいきなりキスをしたのだから。
「あ、あの! 今のはなにっ!?」
「キスよ。恋人同士なら当たり前の行為ね」
「こ、恋人――!?」
二度目の叫び声を良治は目を閉じてスルーをする。煩いのは好きではない。
「そうよ。ね、良治」
「そ、そうなのセンセッ!?」
隣に座る郁未と正面の席に座る結那が同時に話しかけてくる。
どうやら二人とも今の良治の状態に気付いていないらしい。
「――まぁ、その通りだ。結那と付き合ってるのは本当だ」
「そんな……」
「ふふん」
郁未が力なく項垂れる。この反応はある程度可能性として予想していたが、少々心が痛むものだ。
「なんで言ってくれなかったの……?」
「優綺と付き合っているかは聞かれたけど、それ以外は聞かれていないよ。聞かれてもいないのに『俺彼女いるんだ』なんて答える勘違い野郎じゃないから」
「……うぅ」
自分に好意を持っているかもしれない。
そんな自意識過剰な考えは基本的に浮かんでも、そんなことはあり得ないという思考に駆逐される。
良治は過信や慢心、油断を恐れる。
好意を持たれているかもしれない、それは過信だと思っている良治はすぐにそれを打ち消してしまうのだ。少なくとも明確な言葉にされない限りは自分の妄想に過ぎないこととして処理されるのだ。
「まぁそれはそれとして――結那」
「ん、なに? もう一回?」
「俺の機嫌が悪くなっていることに気が付かないか?」
「……」
ピキッと音がした気がして結那の顔が固まる。
そして急激に顔を引き攣らせると、両手をぱんっと合わせて――謝った。
「ごめんなさい!」
「今まで何度言ったかわからないけど、時と場所は弁えような、結那?」
「ホントごめんっ」
再度手を合わせる結那。この光景を見るのももう何度目か。
彼女が素直に謝罪するのは以前、なんとか誤魔化そうとした結果良治に完全に言い負かされたことが原因で、それ以降はすぐに謝ることにしていた。それこそが一番わかりやすく誠意が伝わると理解して。
「……次やったら相応の罰があるからな」
「ありがと良治ぅ!」
「少し静かに」
「うん!」
「……まぁいいか」
この場での罰がないことに歓喜した結那に溜め息を吐き、今度は隣で落ち込んでいる郁未をどうするか考え出す。そしてすぐに結論を出した。
「どうする郁未。つらいなら続けなくても」
「……ううん、続ける。絶対。……負けるもんですか」
「ならいいけど。辞めたくなったら言うんだよ」
「そんな時が来たらね」
落ち込んで塞ぎ込み、始めたばかりの訓練ごと投げ出すかと思ったのだが、予想に反して火がついてしまったようだ。
(とりあえず郁未と結那を一緒にするのは今後気を付けよう)
それだけは今後控えなければならない。周囲に迷惑がかかるだろう。特に良治に。出来る限り面倒なことは避けて生きたいと思うのは当然のことだ。
「それで結那、来た理由は? まさか会いに来ただけじゃないだろ」
「付き合ってるのにその理由を除外するのは酷い気がするんだけど。でもまぁ理由はちゃんとあるの。――今日このマンションに引っ越してきたから。十階に」
「は……?」
上を指差しながらしれっと言う。
思わず間抜けな声が出るが、言われてみればこのマンションは白神会と縁のある建物だ。結那が越してきても不思議ではない。
「一昨日思いついて、昨日決めて、今日引っ越してきたの。あ、天音も一緒よ」
「天音もか……で、その天音は?」
「今部屋で荷解きしてるわ」
「天音に任せてここに?」
「だって私がするよりも天音一人の方が丁寧で早いんだもの」
開き直って言うが、良治としてはそれでも手伝うくらいの態度は必要だと思う。もしかしたら天音の方から断ったのかもしれないが。
「……まぁ事情は理解した。これから上野支部の所属になるんだし考えてみれば妥当か」
「そうそう。これでいつでも会えるわねっ」
「仕事場が同じなんだから同じマンションに引っ越さなくても会えるだろうに」
「仕事終わりに一緒に帰ってきて、一緒に寝れるじゃない!」
「っ! 一緒に、寝るぅ……!」
郁未がダメージを受け、泣きそうな顔になる。
どうにも結那は彼女のことが好きではないらしい。ショックを受けている時点で彼女の心情は結那にも、そして良治にもバレているので仕方ないと言えば仕方ないのだが。
「一緒に帰ることはあっても寝はしないから。そういうのはしばらく無しだから」
「そんな……ッ!?」
「これは決定事項。……昼飯はみんなで食べるか。結那、天音に伝えてきてくれ」
「う……はーい」
不満そうだったが良治の決意は変わらないと感じたのか、結那は素直に部屋を出ていく。――まるで嵐が過ぎ去ったような気分だ。
「……はぁ」
それは郁未も同様、どころか良治が感じている以上だろう。彼女にとってはとてもつらく疲弊する時間だったに違いない。
ぐったりとしていて、なんとなくツインテも力がないように見えた。
「おはようございます――ってどうしたんですか? どなたか来てたみたいですけど」
音もなく扉が開き、自分の部屋から出てきたパジャマ姿の優綺はもう眠気を感じさせないすっきりとした雰囲気だ。寝癖が少しばかりあるが、それはいつものことで気にするところではない。
「おはよう優綺。結那が引っ越しの挨拶に来てたよ。昼飯はみんなで食べに行くからそのつもりで」
「はい、わかりました。……郁未さん、大丈夫ですか?」
「うん、ありがと……」
心配そうにちらちらと見ながらも、優綺は顔を洗いに洗面所に行ってしまう。
残された良治は郁未をこのまま時間まで休ませることにした。
今何か教えても一切身にならないだろう。
(技術的なことはともかく、メンタル的なことまではなぁ……)
他人の思考を読むことは苦手ではないが、落ち着かせたり元気づけたりする言葉や態度がわからないことが多い。それを求められても困るのが本音だ。
「時間まで休んでな」
「うん……でも」
「ん?」
「でも、私頑張るから」
「……そっか」
郁未の扱い方、指導の方法。
新たな問題が生まれたが、それでも良治は前向きに考えていこうと、そう決めた。
良治が借りることにした上野支部は五階建てのやや建築年数の経った雑居ビルだ。広さは良治の住む2LDKの部屋と同じくらいで、今回四階と五階の二フロアを借りることにした。
四階をメインの事務所として使い、薄い仕切り板と濃い茶色のソファーで簡素ながら応接セットを作る。
見栄えは良くないがちゃんとした応接間が必要なほどの客は来ないだろう。基本的に退魔士は現場仕事なのだから。
五階はフローリングで、仮眠を取れるように折り畳み式のベッドが二つ。それ以外の物は置いていない。
この場所は誰も睡眠を取っていない時間は身体を動かしたい者向けの空間とした。良治が事務仕事に疲れた時に身体を解したいという理由も大きい。
このビルには、良治たちの使用する四階と五階以外のフロアにも店舗は入っている。
良治と天音は四月一日、各階に挨拶することにした。最初が肝心なのは今までの経験でよく知っている。
「すいません、失礼します」
「失礼します」
まず最初に訪問したのはこのビルの持ち主が経営する一階の骨董品屋だ。契約の時に一度顔を合わせたことはあるが、礼は尽くすべきだろう。
「おお、柊さんか。今日から改めてよろしくのう」
乱雑に置かれた商品の奥からひょっこりと毛糸の帽子を被った初老の人物が顔を出す。人の良さそうな雰囲気で、好々爺という言葉が似合いそうだ。
「こちらこそよろしくお願いします。天音」
「はい。つまらないものですが」
天音が持っていた紙袋を店主に差し出す。粗品の中身は今日買ってきたばかりの柔らかそうなタオルだ。
「ほ、こりゃまた美人さんだの。秘書さんかの?」
「まぁそんな感じです。何かありましたら自分か彼女に」
「ほほ、了解じゃ」
「はい。それでは」
頭を下げて『世界幸運堂』と書かれた重いガラス製の扉を開いて店を出る。
天音のことを秘書と言われたが、事務面では良治の補佐をしてもらうつもりなので大きくは違わない。わざわざ訂正するまでもないだろう。
「次は二階だな、美人秘書さん」
「良治さんに言われるとさすがに照れますね」
「天音の照れた顔が見られるならもっと言うけど」
「それは夜、ベッドでお願いします。……さ、着きましたよ」
骨董品屋脇の階段を上り、黒い幕で飾られた扉をノックする。が返答はない。
ちなみにこのビルにはエレベーターはない。退魔士ゆえ引っ越しの力仕事は問題ではなかったが、単純に狭くて苦労したことを思い出す。
「どうします?」
「そうだな……って鍵は開いてるな。ちょっと入ってみよう」
ドアノブは普通に回る。良治はゆっくりと扉を引いて中に入ることにした。もしかしたら音が聞こえていないのかもしれない。
「失礼します。四階に越してきた――」
「ヒッヒッヒッヒッヒ!」
「っ!?」
電気がついていないのか、真っ暗な店内に入るとガタッという物音と共に甲高い笑い声が響きだす。後ろにいた天音が扉を大きく開けて退路を確保する。さすがの反応だ。
「ヒッヒッヒッ! ようこそ、我が『黄昏に染まる魔境』へ――!」
部屋の奥に座る老婆が舞台のスポットのような照明に照らされ、不気味な笑みを浮かべる。
老婆は黒い布を広げたテーブルに両肘をついて手を組み、その上に顎を乗せている。更にテーブルの上には大きな水晶玉が置かれており、いかにもな雰囲気が作り出されていた。
だが良治と天音にはわかっている。これはすべてそれっぽいだけで本物ではないと。
「おや、お客さんではないのかえ?」
「……すいません違います。私たちは今日から四階と五階に越してきた『京都ホワイトサービス』と申します。今日はご挨拶に」
京都ホワイトサービスというのは白神会の表の名前だ。
業務内容は何でも屋みたいなもので、依頼があれば大概のものは受ける。しかし割高なので依頼をしてくる一般人は少ない。むしろ本業である裏の仕事に影響があるので少ない方が助かるといった感じだ。
「ああ、そういや引っ越ししてたねえ。あたしゃこの店の店主で星森。みんなからは星森の婆さんで通ってるよ。……凛子、電気をつけておやり」
「はぁい」
星森の婆さんは良治たちの立つ扉とは別方向へ声をかける。すると間もなく普通の蛍光灯が瞬いて部屋全体を照らし出した。
灯りのついた店内は大部分が黒い布で覆われ、本来の広さよりも暗く狭い印象を抱かせる。四階の良治たちが応接セットを置いた場所は区切られていて、そこから大人しそうな女性が出てくる。この女性が今電気をつけたのだろう。
「この子は孫の凛子さ」
「初めましてえ」
「どうも初めまして。柊と申します。こちらは潮見です。あ、つまらないものですが」
凛子はやや垂れ目で長い三つ編みにのんびりとした雰囲気で、年の頃は二人と同じくらいだろうか。
「あ、どうも」
近くにいた凛子に引っ越し祝いの粗品を渡す。中身はタオルだが、先ほど渡したものとは違うものだ。
「――」
「どうかしましたか?」
「いえ。これからよろしくお願いします」
首を傾げる凛子に良治は挨拶をし、奥の占い師に顔を向ける。
「ヒッヒッヒ、もし何か占って欲しいことがあったらまた来るといい。安くしとくよ」
「機会があれば是非。それでは」
当たりそうにない占いだが、一度くらいは来てもいいだろう。
時間のある時に来てみようかと思いながら静かに扉を閉じて、良治はそっと息を吐いた。
「来るつもりは?」
「まぁ一度くらいは」
「凛子さんが気になると」
「わかってて言ってるだろ、それ」
「もちろん」
気になるの意味を二人とも同じ意味で共有する。
もちろん異性としての意味ではない。退魔士の力が、だ。
祖母の方にはなさそうだが孫にはある。と言っても目覚めたばかりの郁未よりはありそう、くらいなものだが。
一人前には程遠く見習いレベル。すぐ近くにいないとわからないほどなので、放っておいても構わないだろう。実害はなさそうだ。
階段を更に一階分上り、三階に到着する。ここが最後の挨拶先だ。
「それにしても良治さん」
「ん?」
「なんでこんなビルにしたんですか?」
「……決めた時は他の階のことは確認してなかったんだよ」
一階の骨董品屋はともかく、二階と三階については表に看板も出ていない。二階の占い屋は店の前に店舗名も出されていない。これでやっていけるのだろうかと心配になるくらいだ。
今二人のいる三階店舗の扉にはきちんとこの店の名前が記されている。――『佐倉崎探偵事務所』と。
骨董品屋に占い屋に探偵事務所。天音が一言言いたくなるのもわかる。なんでこんなラインナップなのか良治もそう思う。
「まぁ、挨拶しよう」
「はい」
ここで悩んでいても進まない。既に疲れ始めていたがここが最後と金属製の扉をノックする。
「……どうぞ」
子供か女性か。その高い声の主に判断はつかなかったが許可を得たのは確かなので、躊躇はしたがドアノブを回して扉を開く。
すると。
「はーはっはっはっは――ごほごほぉっ!?」
良治たち二人を迎えたのは、高笑いをしてむせる中年の男だった。
本当にどうしてこんなビルにしてしまったのか。
良治は頭の痛くなる思いをしながら天音に心の中で本気で詫びた。
【探偵事務所】―たんていじむしょ―
漫画やドラマとは違い、素行調査や不倫調査などをメインに行う稼業。その他にも諸々、依頼があればするらしい。
京都ホワイトサービスと佐倉崎探偵事務所は被る点が多々あるようだが、残念ながら仕事自体が少ないのでそうはならないらしい。




