見つめる猫
「でも本当に良かったのですか。別に駅まででも構いませんでしたのに。いえ、お兄さまと長く居られてそれは嬉しいのですけれど」
「まぁ乗り掛かった舟です。それにまさか護衛の一人も付けずに放置できませんよ」
「ふふ、ありがとうございますね」
隣で微笑む崩に昨夜の陰はない。そのことに良治はほっとした。
昨夜東京の自宅に帰ってきた良治を待っていたのは、ある意味修羅場とも言えるものだった。
志摩崩と勅使河原結那、そして石塚優綺。
三者三様の立場から色々言われて良治は全部無視して寝てしまおうかとも思ったのだが、最終的には自分以外収集をつけられなさそうなことに気付いてしまい、結局諦めて取りなした。
元々の原因が良治なので当然といえば当然のことなのだが、こういったことが起こることが嫌いになっていた彼にとっては関わりたいことではない。
以前まどかと別れて失踪したのも同じようなことがあった末のことだ。
そのことを知っている結那は積極的に発言することはなかったが、そんな出来事を知らない崩と優綺は、良治が咳払いをするまで口を閉じることはなかった。
説明をして二人の誤解を解き丸く収まるかと思いきや、いつものように問題になるのは寝る場所だ。
しかしこれに関しては疲れの出てきていた良治は有無を言わさずに三人をベッド、自分は布団で寝ることを決定し事なきを得ていた。
「あの、私が付いてきて良かったんですか?」
「これも経験だよ。良くあることじゃないしね」
「……そうですね。頑張ります」
ぐっと力の入る優綺。意気込みとしては問題なさそうだ。
今は崩たちが、彼女たち霊媒師同盟の本拠たる恐山に帰る最中の新幹線の車中。
京都に向かう際と同じく座席を回転させてボックス席にしているが、今回違う点は結那の代わりに優綺がその席に座っていることだ。
別に良治が強制的に結那を外して入れ替えたわけではない。ただ結那が今夜仕事があったというだけだ。
護衛は一人でもいいかとも思ったのだが、それだと良治の家に優綺ひとりを残すことになる。そうするくらいならせっかくの機会なので、護衛として連れてきた方が今後の糧になるだろうと思い誘うことにした。
当然優綺が良治の誘いを断ることなどないのでこうなったというわけだ。
「いろはさん、今回何か収穫はありましたか」
「そうですね……お二人が仲良くなってくれたこと。それが一番の収穫だと思います」
「なるほど」
良治の正面に座るいろははすまし顔で崩と良治の関係を口にする。
彼女にとっては白神会総帥との会談、それが及ぼす影響などよりも盟主――いや一人の女性としての崩のプライベートの方が重要だったようだ。
「私にとってもお兄さまとの関係が進んだことが一番大事ですよ?」
「それは組織のトップとしてさすがにどうかと……まぁ他に聞いてる人がいなければいいんですが」
「はい。公私は分けて考えていますので。……すいません、お手洗いに」
「いってらっしゃい。じゃあ優綺――」
立ち上がった崩に一応誰か付いていった方がいい。
普通ならいろはなのだが、彼女に戦闘能力はない。そもそも護衛役として来ている優綺の方が適役だろう。
――そう考えた直後、良治は自ら席を立った。
「先生?」
「いや俺が行く。優綺はここで待ってて」
「え、あ、はい……」
突然前言を翻したことに納得のいかない様子の優綺だったが、それでも大人しく指示に従って浮かせた腰を下ろす。
いろはは微妙に疑問がありそうな雰囲気だったが、そこは無視してもよさそうだ。良治が付いていくことには反対ではないらしい。
「お兄さま?」
「いや、なんでもないですよ」
「そう、ですか。でもお兄さまが来てくれるならそれで」
こちらも疑問を感じてはいるが些細なことだと思ったようで通路を歩きだし、列車の後方のスペースに向かっていく。
「――お兄さま、何かありましたか」
「……杞憂かもしれない。一瞬、だけど確かに雪海が立ち上がった時、視線を感じた」
座席の並ぶ空間から後方の手洗いのあるスペースに移動すると崩が立ち止まって疑問を投げかけた。それに誰も聞いていないことを確認してから良治は静かに答える。
四人がいるのはグリーン車で、そこまで乗車率は高くない。
誰かが席を立った場合、視界に入っていれば目で追うくらいはあるだろう。
だから気のせい、良治が過敏なだけかもしれない。
「ふふ、お兄さまは心配性なのですね」
「かもね」
「では少々お待ちください」
少し距離を取って待つことにする。
崩の言葉はからかいなどではなく、今まで戦場を生き残ってきた尊敬の色が濃いように思えた。
(戦士に、退魔士に戻って来たってことなのかね)
結局のところ自分はこの生き方しか出来ないようだ。
白神会を抜けていた時期のことが浮かび、良治は自嘲した。
「それではここまで遠いところをありがとうございました、柊さま」
「いえいえ。それでは到着するまでお気をつけて」
新幹線を降り、八戸駅の改札を出たところで崩、そしていろはと別れの挨拶をする。
彼女たちの後方には数人の霊媒師同盟員が控えており、ここからは彼らの仕事ということだ。
「――また会いましょうね、お兄さま」
「ああ。楽しみにしてるよ雪海」
最後にそっと近づいてきた崩が囁き、そしてすぐに盟主の顔になって離れていく。あの辺の切り替えの早さは大したものだ。
「なんだか疲れちゃいましたね」
「そうだな。まぁあとは帰るだけだから」
二人が囲まれて歩いていくのを見送り、優綺が小さく伸びをする。緊張がようやく解けたらしい。確かにここで仕事は終了だ。
「新幹線のチケット買ってきますね」
「ん、頼んだ」
良治と崩が席を離れた時に受け取ったという封筒を手に、優綺は券売機に向かう。
中身は確認していないが結構な額が入っているのは見ればわかる。少なくとも新幹線代だけのつもりはないらしい。ここ数日の護衛料も含まれていそうだ。
封筒の中の金額に驚きながら戻って来た優綺と合流し、先ほど彼女に言ったようにあとは帰るだけ――とは、良治は思っていなかった。
可能性は五分。ただ面倒なことはない方がいいと祈っていた。
「――や、こんばんにゃ」
「え?」
改札を通った先、行き交う人々の陰からひょこっと現れた少女。
その唐突さに優綺は思わず声を上げ、良治は彼女を守るように前に出た。
何かがあるかもしれない。
そう良治は予想していたのにも関わらず前に出るのに一瞬を要した。幸いなことに相手が何もしてこなかったから良かったものの、攻撃されていたら優綺を守り切れていたかわからない。
「で、何の用ですか」
「にゃはは。そう警戒しないで――って言っても無理だよにゃー」
長袖の猫耳のついた黒いパーカーにデニムのショートパンツ。黒いニーソのその少女は喋り方からかとても強い『猫』の印象を与えてくる。
「えっと……」
「優綺、警戒しながら、彼女から目を離さないまま少しずつ下がって」
「は、はい」
「さすが《黒衣の騎士》。隙は見せないんだにゃ」
「当たり前だ」
こんな不審人物を前にして隙、ましてや油断など出来るだろうか。
油断や慢心は容易に死を招く。それは、それだけはしてはならないと強く思っていることだ。
「それで俺に何の用だ」
優綺が距離を取ったのを確認し、再度尋ねる。
この少女は良治のことを知ったうえで声をかけてきた。もちろん一緒にいる優綺のことも知っているだろう。
そんな相手がこちらに好意的な可能性。それはかなり低いように思えた。
「やー、本当はこんな風に会うつもりはなかったんだけどにゃ。ただ黒衣の騎士さんにはバレたかと思って」
「ああ、あの視線は……」
君か、それとも貴女か。なんて呼ぼうかを迷い、語尾が曖昧になる。
にやにやとした笑みを浮かべる彼女の年齢がいまいち予想出来ない。十代のようにも見えるし三十代と言われれば信じてしまいそうだ。
「やっぱりにゃ。本当に一瞬のことだったのにさすがにゃ」
「視線は送ってないはずですが」
「志摩崩に付いていったこと。それが根拠にゃ」
「……たったそれだけのことで姿を現すなど。さすがにどうかと思いますよ」
彼女の言うように視線を感じた良治は危険を感じて崩に付いていった。その予想はピタリと的中している。
ただ本当に根拠はそれだけなはずだ。
良治は視線の相手を刺激したくなかったので、周囲を警戒することも、見回すことすらしなかった。
「や、これでも周囲の雰囲気には敏感なのにゃ。まぁそれはそれとしてにゃ」
「本題は?」
「や。出来ればバレたくはなかったけど、意味のない警戒はお互いにとって良いことではないにゃ」
とことこと軽やかな足取りで良治の右側にある下り階段の方へ歩き、脇の壁に背を預ける。動くたびに揺れる猫耳がとても可愛らしい。
「意味のない?」
「そうにゃ。では自己紹介を。――あたしは黒影流所属、通り名は《黒猫》にゃ」
まるで欧州の貴族のように丁寧で優雅な動作で挨拶をする――黒猫。
「黒影流、か」
「や、陰で行動するのがあたしたちの仕事なのにゃ」
黒猫の言うように黒影流は白神会の暗部とも言える流派だ。
諜報、暗殺、そして陰からの護衛もその活動に含まれている。
一般的な白神会のメンバーは黒影流の姿を見ることもない。例外があるとすればそれは、京都で取り次ぎをしている彩菜くらいなものだ。
義妹が黒影流とあって、良治は他の者よりは詳しい。上層部の者でも見かけることが少なく、謎の多い黒影流継承者・浦崎雄也を何度か見たこともある。
だが漠然とした仕事内容は知っていても、具体的なものまではわからないのが実情だ。
「それで今回の仕事は崩さまの護衛、と」
「そんなところだにゃ。もし志摩崩さまに何かあったら大変だにゃー」
「なるほど。それはまぁそうだ」
もし帰り道に何かあればせっかくの会談の意味が吹き飛ぶ。
誰が進言したかわからないが妥当と言えるだろう。
「や。納得してくれたら何よりにゃ。じゃ、あたしはこれで」
くるりと回転するように下り階段へ足をかけ、手を振りながら黒猫はあっさりと姿を消した。
「霊媒師同盟の人かと思ったんですけど、違いましたね。ちょっと安心しました」
入れ替わるように駆け寄ってきた優綺が、胸に手を当てながら安堵の表情を浮かべる。
「大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
護衛の仕事が終わり緊張が解けた直後に、思いもよらないことが起こって精神的に疲労したかと思ったがそこまでではないようだ。むしろ良治の方が疲れてしまったかもしれない。
「ならよか――っ」
「先生?」
明らかにこちらに向けられた視線を感じ、改札の向こう側へ振り向くとそこにはほんの少し前まで話していた黒猫がそこにはいた。
彼女はにやりと笑い、手にした黒い数珠を見せるとすぐに人ごみに紛れて姿を消した。
(……やるなぁ)
いなくなったと見せかけてこちらを観察。
大方油断したかどうかを確認したかったのだろう。
良い趣味とは言えないが、手段さえあれば良治もやりたいことではある。相手がどんなタイミングで気を抜くか、それは敵に回した時に役に立つことだ。
ただ今回の黒猫に限っては単純な悪戯じみた雰囲気が感じられ、良治は苦笑交じりに溜め息を吐いた。
黒猫の持っていた黒い数珠。それは見覚えのある魔道具だった。
黒影流のメンバーが持つという、空間転移の魔道具。
転移出来るのは最大で数十Mほどだったはず。それ以外にも効果や条件がありそうだと良治は考えていたが確認することは出来ない。
彩菜に聞いても教えてはくれないだろう。あの数珠はそれほど重要なもので、黒影流の最秘奥とも呼ばれるものだ。
「――さて、帰るか」
「? はい」
良治が何故振り返ったかわからない優綺は疑問を浮かべたまま頷く。
これに関しては帰りの新幹線の中で話すことにしよう。
教えたいことはたくさんある。
何処から、何から教えようか。
それらが彼女の力になることを祈りながら、良治は歩き出した。
「――と、そうだ。バタバタしてて忘れてたけど。なぁ、優綺」
往復で六時間ほど新幹線に乗り、自宅に戻って来たのは夕方。陽の落ちるのが早い冬だと暗くなり始めた頃だった。
「……なんでしょうか」
その後早めの夕食と風呂を済まし、疲れを取るべくさっさと寝ようと考えていた良治は大事なことを思い出した。
リビングの椅子に座る優綺が、わかっているのに自分では触れないことに評価を下げる。
「わかってるだろ?」
「う、はい」
言いながら熱めのお茶を淹れ、優綺の前に出す。
これだけで彼女には色々と伝わるはずだ。
「じゃあ、はい」
良治も正面の席に座り、両肘をついて組んだ手の上に顎を乗せる。やや前傾姿勢で圧力を感じるはず。
そんな体勢で話を促した。
「……相談もなしに不意打ちみたいなことをして、すいませんでした」
「うん。そうだね。びっくりした。もしかして優綺は俺と敵対したいのかと思ったよ」
「そんなことないですっ!」
「静かに」
「……はい」
顔を伏せて落ち込む優綺。しかし今の彼女にそれは許されない。
説明をしなければならないからだ。
良治が静かに怒る――とまではいかないが、それなりに機嫌を損ねているのは優綺も理解している。だからこそ口が重くなっていた。
(まさか、こんなに)
優綺はこんなに良治が怒るとは予想していなかった。
確かに以前の約束である『良治の家の近所に住み、訓練の時間を確保する』ということを微妙に外し、自分の一存で無理やり同居に持っていこうとした。
更なる訓練時間の増加という建て前で、東京支部長の葵を説得し、あとは良治の家に転がり込んでしまえばどうにかなる。そして良治もなんだかんだ言って許してくれるだろう。
そんな風に、甘い考えを持っていた。
「俺が怒ってるのは、まず相談をしなかったこと。無理やり実力行使に出たこと。そして、全部をなし崩しにして認めさせようとしたことだ」
全部見抜かれてしまっている。
自分の考えが浅はかなものだったと突きつけられている。
なんて甘かったのか。恥ずかしい。
(もしかしたら、弟子の件も……)
だがもしそうなっても言い訳は出来ない。
すべては身から出た錆だ。
「……ごめん、なさい。もうこんなことは」
「うん。謝罪は受け取った。これでこの話は、というかお説教はおしまい」
「え……?」
「別にメンタル的に優綺を叩こうとか、弟子を辞めさせるとかそういう話じゃないしね。わかったのならもう同じことはしないでしょ」
涙目になりながら見た良治の顔にはもう怒気はない。薄い笑みを浮かべているようにも見えるくらいだ。
「……」
「む、ちょっと怖がらせすぎたかな。それはごめん」
「い、いえ……はい。ごめんなさい、ありがとうございます……」
ほっとして気が抜けた優綺は一瞬頭が真っ白になりながらも返事をし、手を付けていなかったお茶に口をつけた。
このお茶も、これから長い時間話があるという意思表示だと感じていただけに、冷める間もなく終わったことに安堵する。
「でもまぁ俺を説得出来ないと思っての行動だったんだろうけど、ちょっと作戦は杜撰だったな。それに見通しも甘かった。まだまだだね」
「はい……」
「策を弄するのは必ず成功すると思える時、策が失敗しても問題ない時、そしてこのままじゃどうにもならない時にやるだけやってみる時くらいだ。
で、今回はどれに該当したかな」
「いえ、どれにも」
必ず成功するとは思っていなかった。
失敗しても問題ないかなとは思っていたが、実際はそうではなかった。
そして背水の陣と言えるほど追い詰められてもいなかった。
「うん、そうだね。策は失敗しても成功しても誰かの評価が下がるものだ。失敗すれば味方の、成功すれば敵の評価が。
だから命の危険がない限りは、まず真っ向勝負を挑んでほしい。それは勝っても負けても無難に経験を積めるからね」
「真っ向勝負なら、負けても?」
「ああ。命まで奪われないならいいよ。ある意味死ななければ負けじゃない。経験を得たという収穫が残る。……ああ、勘違いしてほしくないから言うけど、策を弄するのと駆け引きをするのはまた別物だからね」
なんとなくわかるようなわからないような。
優綺はどういうことだろうと思ったが、それはきっと先に言った誰かの評価に関わることだろうと見当をつけた。
「やられた時に恨まれたりするのが策で、そうでないのが駆け引きですか?」
「うん、その通りだ。俺たちの仕事は何かと恨みを買うことが多い。だからこそ自分の中で線引きをしないといけないと俺は思ってる」
何かを思い出すような良治の表情に、優綺は彼が何かしらの後悔を抱いているのだと思えた。そしてそんな思いを自分にはさせたくないのだとも。
「――先生」
「ん」
「ありがとうございます。先生が先生で良かったって、本当に思います」
順番に、優綺のことを考えて、想って教えてくれている。大事にされている。
思い返せば、今まで教えられたことはすべて基礎。考え方や小手先の技術はない。
真っ向勝負で戦えるように、恨みを買わずにこの先退魔士として生きていけるようにしてくれていたのだ。
そんな彼の期待を裏切ってはいけない。
彼の周囲は優秀な人物ばかりだ。自分もそれに匹敵するくらいの能力を示さねば、いつか置いていかれてしまうかもしれない。
ならば、やることは一つ。――努力だ。
「ありがとう優綺。俺も素直で可愛い弟子を持てて嬉しいよ」
――ああ。もう。そんな笑顔で言われたら。
ずっと憧れで良いと思ってるこの気持ちはどうしたらいいのだろう。
いつか爆発してしまいそうで、そうなったら――
「と、長話になったな。考え方や知識なんかは少しずつ教えていくから。とりあえず今日はもう寝な」
「はいっ」
「なんで元気なんだか。うん、まぁおやすみ」
とても眠れそうにはない。
まだしばらく眠気はやって来ないと確信しながら、優綺は苦笑しながら寝室へ歩き出したその背を見送った。
【黒い数珠】―くろいじゅず―
黒影流におよそ百年前から伝わるという魔道具。その総数は定かではないが、少なくとも二十以上はある模様。身に付けることが出来るのは諜報活動など作戦中のメンバーのみ。
その作成方法は謎。一説には現黒影流継承者の浦崎雄也が方法をもたらせたと噂されている。




