関係の価値
「あー、その」
「お兄さま、はっきりと仰ってください」
昨夜までの好意的な視線は何処に行ったのやら、良治を見つめる崩の視線は極寒の恐山を思い出させるほどに冷たく、まさにブリザードと呼べるほどだった。
良治はこれまで明確な嘘を吐いてきてはいない。
ただ『結那と付き合っているのか』という質問にそうだと答えていただけだ。
(ここで今までのツケが回って来たか……)
嘘は吐かずに、しかし真実全てを語るわけでもない。
聞いた相手が勝手に誤解するような言い方、そんなことを良治は意図的に行ってきた。
それは彼の自衛を目的とした行動の一つ。
身近な相手や同じ組織の者にはほとんど行わないことだが、しかし崩は他組織の人間、それも盟主という立場にある人間だ。
良治は血縁とはいえ当時はそこまで交友を深めるつもりはなく、自分の弱みに成りかねない事実は伏せておきたかった。
祐奈の時と同じく、もしかしたら三人も付き合っているのなら自分も、と言われる可能性が怖かったこともある。
だがそれはそれとして、今ここで言わねばならないことがあるのは確かなことだった。
「……あー、うん。和弥の言う通り、俺は今三人と付き合ってる。結那と、あと二人と」
「本当、なんですね」
「ああ、本当のことだ」
「そう、ですか……」
崩は目を伏せ、誰もが押し黙る。
ここで何か言えるのは崩くらいなものだ。
良治は問われたことに答えることくらいしか出来そうにない。
「――ね。場所、変えない?」
「勅使河原、さん……?」
沈黙を破ったのは良治の隣に座っていた結那だった。
彼女は場の雰囲気に呑まれることもなく、酒に酔った様子すらなく、堂々と立ち上がった。
「ここじゃちゃんと話し合い出来ないでしょ」
「それは、まぁ……」
「んじゃそういうことで」
消極的な賛成を示した崩に頷き、結那は隼人たちに目をやる。反対意見はないようだ。
誰も口出しが出来る雰囲気ではない。
それでも隼人だけは何か言いそうで怖かったが、口にしたのは別れの挨拶だった。
「そうだね。じゃあ今回の会談はここで終わりということで。――崩さん、またいずれ」
「はい。御厚意感謝いたします」
今後の方向性は決まった。
崩といろはも立ち上がり、それを見てから良治も重い腰を上げた。
「その、リョージ。すまん」
「いいよ、気にするな」
和弥のバツの悪そうな声に手を振って、彼らは大広間を出た。
これからどんな話し合い、結果になるのか。
まったく予想の出来ない事態に、良治は密かに覚悟を決めた。
移動してきた、いや戻ってきた控え室。
そこには三人が膝を突き合わせて座っていた。
いろはは崩の指示で隣の部屋で待機してもらっている。当事者だけの方が話しやすいので有難い配慮だ。
自分から切り出すようなことではないと考えている良治。
場を移したことで冷静さを取り戻し、何を話せばいいのか迷う崩。
「えっと、じゃあ……崩さんから」
永遠にも続くような空間に一石を投じたのは、やはり二人をここまで連れてきた結那だった。
結那は二人とは違いとても感情的にフラットで、普段の我が儘さは鳴りを潜めていた。
(――ああ。なるほど)
そこで良治は気付いた。
今の彼女は仕事モードだと。
日常生活では自分の欲望に素直な結那だが、こと仕事においては冷静さと直感の良さで非常に頼りになる存在だ。
誰が、何が相手でも臆することなく、一瞬たりとも怯まない退魔士。《拳闘姫》と渾名される一流の拳闘士の姿はそこにはあった。
「はい……その、先ほどは失礼しました。感情的になってしまい、せっかくの食事を台無しに……」
「それは別にいいと思うの。本題はそこじゃないでしょ?」
「そう、ですね」
そして二人の視線は当然の如く、彼女らと同じく正座をしている良治に集まる。
次に喋るのは良治だと言わんばかりに。
「まず、今まで誤解をしていたことを知りながらそれを訂正しなかったこと、本当に申し訳ない」
両手を畳みに添え、頭を下げる。
これは自分を信用していた彼女に対して、自分は誠実でなかったことの謝罪だ。
訂正するタイミングは幾らでもあった。
特に昨日はずっと二人きりだったのだから、話そうと思えばいつでも話せたのだ。
それをしなかった良治は、真実が白日の下に晒された以上、崩からは責められても仕方ないと言える。良治にも話さなかったことに後ろめたさは当然あった。
「謝らなくていいです。それよりも何故、話して……いえ、そうですよね。あまり他人には話したくないことでしょうから」
「……ええ。少なくとも大っぴらにするようなことじゃないと思ってて。でも」
「でも?」
「でも、崩さまには話しておいた方がよかったなって、今は少し後悔しています」
知られてしまう結果が避けられないならば、いっそのこと自分から切り出した方が心の準備という点で楽だった。相手にも大事な話があると言えば心構えはするだろう。
だがまるで事故のように真実を知らされ、良治は動揺したし、それは崩も同様だった。
もっとお互いが傷つかないタイミングがあったはず。
それは和弥の失言によって永遠に失われてしまったが、やはり良治は彼を責めるつもりは皆無だった。
すべて自分の引き起した結果だ。
責められるべきは自分だけで、自分は自分以外誰も責められない。
「……話しておいた方がよかった、というのは?」
「まぁもちろん俺……自分一人の問題ではないので、三人と相談してからになったでしょうが……」
自分が間違ったことをしているという気持ちはある。
周囲にはなかなか受け入れられないことをしている自覚もある。
だからこそ良治は一人で、この問題を誰かに話すということに抵抗感があった。
「あのさ、良治。ちょっといいかしら」
「結那?」
良治と崩の話を最初に促した結那が手を挙げる。
てっきり話には入ってこないと思っていたので少し驚いた。
「あんまり割り込むつもりはなかったんだけど。
ね、私たち……三人のことね? 私たちはさ、別に良治が考えて決めたことならそれでいいと思ってるの。良治はいつだって私たちのことを気にしてるけど……私たちは本気で、良治にずっとついていくって、もうそう決めてるんだから」
それはまるで宣誓。
優しくも心強い、確かな意志の元に紡がれる言の葉。
「だから、もっと堂々と――好きに生きてよ」
「……結那」
頭をがつんと殴られたような感覚。
目を見開いてまじまじと結那の、彼女の瞳を見つめる。
そこに一切の迷いはない。あるのは自信に満ちた微笑と、良治への信頼だけだ。
「その結果がどうであれ、私たちは受け入れるから。だってもう、人生捧げちゃってるって、そう思ってるんだから」
「……宇都宮支部でのこと思い出すな」
良治を雇い、更に指揮までやらせようとした結那の出した対価。
結那の提案を良治は断ったが、結局のところ今はそうなってしまっている。
つまり結那は最初から最後まで、ずっと本気だったということだ。
「そうね。……とまぁ、話を戻すけど、良治は私たちに気を遣うことはないってこと。もちろん構っては欲しいし、一緒にはいたいけどね。
――だから、良治が崩さんのこと好きになってるんなら反対はしないわ」
「……なるほど、そこに話が来るわけか」
「そゆこと」
反対はしないから良治の好きにしていい。
結那の意見は纏めるとそういうことだ。
ここにはいないまどかと天音の二人も同意見と信じていいだろう。
「……あの、勅使河原さん。貴方はお兄さまとお付き合いをなさっているのですよね?」
「そうよ」
「なら何故、私とお兄さまの間を取り持つようなことを」
良治は納得したが、崩はまだ納得しきれていないようだ。
この辺の理解は付き合いの長さ、どれだけお互いを知っているかで変わるものだ。結那とほとんど話したことがなく、事情も知らない崩からすれば信じ難いことだろう。
「私は別に彼女が増えてもいいと思ってるの。良治がそれを求めるならね。仕事以外は結構気分屋なところあるけど、彼女が増えても良治は私たちを蔑ろにはしないって思えるし」
「そういう、ものなんですか……?」
「それに無理に縛り付けると良治は逃げちゃうかもしれないしね。一緒に居ることが最優先だから、それくらいは全然許容範囲なの」
「なるほど……? その、全部はわかりませんが、つまり私がお兄さまとお付き合いをしても反対はしない、と?」
「ええ。もちろん良治がそうしたいって言うんならってことにはなるけど」
『で、どうしたいの?』と良治に視線で問う。
そして崩は居住まいを正し、真剣な瞳で――愛を告げた。
「お兄さま、貴方は私にとっての英雄です。助けに来ていただいたあの瞬間から、ずっと貴方のことをお慕いしています。
――私と、志摩雪海と……お付き合いをしていただけませんか?」
微かに震えている身体。
その崩の肩に軽く両手を添え、良治は思っているそのままの言葉を、声に出した。
「――ごめん。雪海とは付き合えない」
「――あ」
小さい悲鳴が漏れる。それが良治の心を抉るが、そんなもの崩に比べれば微小なものに過ぎない。
出会っておよそ三か月。そして昨日共に夜を過ごしたが、それでもお互いを十分知ったと言えるほどではなかった。
もちろん良治は崩に対して悪い感情を持ってはいない。
霊媒師同盟の盟主ということ、それを抜きにして言うなら、志摩雪海という女性は小柄で可愛らしく、頭の回転も速い。長い黒髪も良治好みで、やや好戦的というか積極的な面はあるもののそれは欠点ではない。
「そう、ですよね。ごめんなさい、わかっていたこと、なのに……」
三人と付き合っているのに、それでも自分とは付き合えない。付き合ってもらえない。
可能性を感じていた崩は涙を目に溜めつつも、必死に流れ落ちないように堪えていた。
「……雪海のことは嫌いじゃない。むしろ可愛いとも思う。けど俺は雪海のことをまだ何も知らないから。俺のこと好きって言ってもらえて凄く嬉しいけど、でも……付き合えない」
これが偽らざる良治の本音だ。
長年存在しないと思ってた血縁者。それも可愛い女の子で嬉しくないわけがない。
違う組織の盟主という微妙な関係で、良治は深く踏み込むことが出来ないことにほんの少しだけ落胆したこともあった。
しかし。
だがしかし、崩と付き合う。それは彼女をまどか、結那、そして天音と同じように大切にするということだ。
そこで良治は、まだ崩のことをこの三人ほど大切には思っていないことに気付いてしまった。
そんな気持ちで付き合うなど、それは彼女に冒涜にも等しい侮辱だ。
「ね、良治」
「……なんだ?」
今はあまり言葉を発したくなかった。
何が崩を傷つけるかわからないし、良治もそんな気分ではない。
「良治はまだ崩さんのこと知らないから付き合えないってことよね?」
「ああ」
「ならさ、これから知っていけばいいんじゃない? 別に嫌いじゃないでしょ」
「確かにそうだけど」
あっけらかんと言う結那に、話の着地点が見えない良治は困惑する。何が言いたいのだろうか。
「――ならさ、付き合う付き合わないは置いといて。まずは友達からってのが妥当なところじゃないの?」
「あ……!」
その言葉に反応したのは良治ではなく、懸命に涙を堪えていた崩だった。
絶望の中に一筋の光明を見出したかのように、彼女はごくりと喉を鳴らしてもう一度良治に話しかける。
「友人関係から、というのは駄目でしょうか……!」
「それって家族関係から離れてませんか……?」
「離れていません。それに、最初から出来ていた関係よりも、自分で作っていく関係にこそ意味があると思うんです」
言われてみるとそうかもしれない。
用意されていたものよりも、自分自身で得たものの方に価値があるように良治にも思えた。
そして、それを整理して口に出す彼女に強い意志と――好感を持った。
「じゃあ……うん、友達からということで」
「――はいっ!」
良治が右手を差し出すとそれを崩が両手でぎゅっと握り締める。
温かく柔らかいその手に包まれ、良治はドキリとした。
堪えていた涙がすっと流れていく。
その光景を彼はとても美しく、尊いもののように感じた。
「ほらほら泣かない」
「……そうですね。嬉しいときは――笑うべきですよね」
涙に濡れたまま笑う崩。
それはとても魅力的で。
(――ああ、これで良かったんだな)
今まで見た中で、一番嬉しそうな笑みだった。
「――で、なんでまたここに戻って来てるんだ、雪海」
「良治、その質問遅くない?」
「勅使河原さんの言う通りですね。せめてマンションに着いたくらいのタイミングじゃないと」
「……まぁ、そうだな」
あれから新幹線で東京まで戻り、自宅に辿り着いた良治が振り返りながら言った言葉はどうやらだいぶ手遅れだったようだ。
結那と崩は良治を廊下で追い越し、ずんずんとリビングに行くと勝手に椅子に座って旅の疲れを癒していく。
「あ、そうだ。シャワー借りるわね」
「……どうぞ」
椅子からすぐに立ち上がり、廊下の良治とまたすれ違って洗面所に消えていく結那。良くも悪くも遠慮がないのはいつも通りだ。
「お兄さま、勅使河原さんのあと私もお借りしてよろしいでしょうか……?」
「いいよ。結那は髪乾かすのに時間かかるからちょっと待ってて」
「はい、ありがとうございます」
時刻は午後七時を過ぎ、あとはもうシャワーを浴びて寝るだけだ。
夕飯は東京に着いてすぐに近場のファミレスで済ませている。
崩は初めてのファミレス体験だったようで目を輝かせながらいろはに色々と尋ねていたのが微笑ましかった。
そのいろははというと、やはり昨日と同じく近くのホテルを取っていると言ってマンションの下で別れていた。
さすがに今日のは嘘だろうと予想したが、彼女なりの思惑や気遣いなのだろうと思い良治は深くは追及しなかった。
「あの、本当にありがとうございました。志摩崩としても、雪海としても」
お茶を淹れて向かい合って座ると、少し顔を伏せて彼女はぽつりと言った。もしかしたら恥ずかしいのかもしれない。
「別に何もしてない、どころか雪海を傷つけたのは俺だから。感謝されることはないよ」
「そんなことはありません。白神会総帥との会談のセッティング、そして……お兄さまとの距離が近づいたこと。私はとても嬉しくて、今満たされているんです」
上目遣いをするでもなく、自然体に微笑む崩。
そんな彼女を見て自分の選択は少なくとも間違っていたり、悪いものではななかったと信じることが出来た。
良治は誰かを不幸にしたいわけではない。
むしろ出来る限り周囲の人たちには幸せになってほしい。
我が儘を言えば世界中の人々に幸せになってほしいのだ。
だがそれは無理難題で良治には不可能とも言えること。
だからせめて、自分の身近な人間だけは幸せであってほしいと、そう心から思っている。
「……うん。それならよかったよ。……ん?」
「どなたかいらっしゃったみたいですね。お兄さま、心当たりは?」
「いや……?」
玄関から鍵を開ける音が聞こえて顔を見合わせる。
すると洗面所の扉も開き、バスタオル一枚で髪を濡らしたままの結那も顔を出してきた。
「誰か来たの?」
「誰か来たとしたら尚更その姿で出てくるのはやめてくれ」
そして、扉がゆっくりと開いた。
「あ、戻ってたんですね……って結那さんその恰好は!?」
「ああ、優綺か。誰かと思ったわ」
「ゆ、結那さんは早く服を着てくださいっ」
「はーい。あ、良治、服着たら髪はそっちで乾かすわね。あんまり待たせるのも悪いし」
それだけ言うと結那は洗面所に戻っていく。
優綺はほっとした表情をすると丁寧に靴を脱いで部屋に上がって来た。
「すいません、遅くなってしまって。その、大丈夫でしたか」
「いや、うん。大丈夫だよ。大丈夫だから気にしないでいい」
優綺の姿を見るまで完全に忘れていた。
そう、彼女が荷物を持って部屋に来ることを。
昨日の夜までは、崩と会うまでは覚えていたのだが、それからの出来事はそれを忘れさせるくらいにインパクトのあることの連続だった。
「それならよかったです。あ、しばらく泊まれるくらいの荷物は持って来たので隣の部屋に置かせて……え?」
「あ」
「あの、お兄さま。そちらの方は……? それに泊まり……? はっ、まさか残りの彼女さんでは……!」
「ええっ! いえその、彼女じゃないですっ! まだっ!」
「違う……でも今まだって。そちらの方とはどのような関係なのでしょうか、お兄さま」
「お兄さま? あの、先生。こちらの方は」
「……ああ。ちゃんと説明するから優綺はとりあえず荷物を置いて。雪海も立ってないで座る」
納得いかなそうに指示に従う二人を見て、良治は何処から説明しようかと思案し――
「あー、さっぱりした。ん、修羅場った?」
「やっぱり彼女の方……!」
「先生、またですか……!」
「あー……」
結那が洗面所から出てきてすぐにそんな発言をし、落ち着いたと思った二人に引火する。
もうこのまま全部放り投げて寝てしまいたい。
だが結局この話は避けられないだろう。
良治は諦めた気持ちのまま、無言で台所に置いておいた日本酒に手を伸ばした。
【修羅場】―しゅらば―
ここでは異性間での痴情の縺れ、喧嘩などを指す。当事者が複数になることもある。
間に挟まった者の発言権は基本的になく、展開によっては両サイドから袋叩きになることも。
出来る限り回避したいことだが、モテる人間には時々起こることらしい。
……本当に胃が痛くなるので勘弁してください。




